text(op) | ナノ




Dear my ***



 別段すさんだ家庭に生まれついた訳でもない俺は、世間の子供らと同じくらいには至極真っ当に親の愛情を受けて育ってきた。加えて友人付き合いもごく人並みにこなしていれば、まあ当然のことながら誕生日を独り寂しく過ごすなどということは考えられない。そのうち幾らか特別な――所謂、当時の恋人と過ごした誕生日は確か5回ほどだっただろう。どれも違う相手で、最新の記憶は32歳の時。その時は多分それなりに満たされていたのだと思う。ただ、それを鑑みても、特に印象に残る一回というものには残念ながら思い当たらない。
 つまり何が言いたいかというと、いい歳こいて俺は今年の誕生日に今までで一番心を躍らせているらしいということだ。


 * * * 



 アリス・ブルー=シャルトリュゼは新進気鋭のミステリ作家だ。少なからずいるファンらから「アリスちゃん」などと気安いニックネームを拝する彼女は、それに似合いの柔らかい雰囲気と年齢を推測させない(老若どちらの意味でも、だ)振舞いゆえ同業者からの好感も高い。
 彼女のデビュー時――正確には処女作刊行前から担当編集を務める俺と彼女とは、私生活でマンションの隣同士ということもあって単なる作家と編集という以上の親交があった。最初の出会いが学生と社会人というものであったからか、俺にも彼女にも今一つ仕事仲間という感覚が薄く、その関係は心地良いほどにラフなものとなっている。作家としてはまだ駆け出しである26歳という若さのアリスに、本日付で37歳になる俺は目下4年越しで懸想の真っ最中であった。歳甲斐のないことは十分承知だが、こうも長いこと不毛な恋路を進んでいるとそのあたりは麻痺してしまうものなのだ。

 とかく、季節の変わり目には決まって体調を崩す社会人の風上にもおけない人間が頻出する。ここ数年もそれは変わらず、残暑の9月から急激に冷え込む10月は通常操業もままならぬほど人手が足りなくなることはそう珍しくない。もとよりそうプライベートに固執する性質でもない俺は、それこそ10月5日という日付も「季刊本の納期」だとか「他社雑誌の発売日」だとかという以上の認識を持たず過ごしていた。今となっては、もっと早くアリスに自分の誕生日を伝えていれば良かった、と単純に後悔すること頻りだ。
 つい一カ月ほど前のことだが、雑談のタネに自分の運転免許証をアリスに見せる機会があった。その折に誕生日の欄を目にしたアリスが「お誕生日! そういえばお祝いさせて頂いた事、ありませんでしたよね」と剋目し、その場で5日当日の夕餉に誘われることとなったのである。出会って4年、アリスの誕生日も勿論あった訳だが、決まって彼女のその日の予定は埋まっており――彼女には大学時代からの知己があり、犯罪学教授などという胡乱な身分のその男はこと何かにつけてアリスを連れ回している。大方そいつの都合に違いない――俺が挟み入る余地はなかった。アリスがこれまで俺の誕生日を知らず来たのもその辺りに理由があるのだろう。「大したものはご用意できないでしょうが、あたしなんかで宜しければ、お祝いさせて頂けませんか?」などと殊勝な台詞と共に此方を窺うように首を傾げた姿が既にまたとない賜物であるように思われた。あたしなんかで、だと。端から此方が欲しているのはアリス、お前だけだというのに。

「……マルコ、幾ら時計睨んだって先生がたの執筆スピードが上がる訳じゃないぞ。若いのがビビってるから、その辺でやめとけ」
「んあ?」

 同期であるジョズに肩を叩かれて我に返る。その背後には硬直状態のエースとハルタ。
例年になく社員の出勤状況が優良である当月は比較的忙しさも穏やかで(当然だ、一か月前から部局じゅうに「健康第一、外回りから帰ったら手洗い・うがい!」との達しを張り巡らせ風邪への厳戒態勢を敷いてやったのだから)、5日――アリスが直々に祝ってくれる今日は緊急の連絡などなければきっちり定時に上がれる筈なのだ。
 ガチガチに固まった後輩の「あの、やっぱもうちょっと粘んなきゃダメだった、ですか」という絞り出すような声(使い慣れなさ全開の敬語には目を瞑ろう)にて漸く、奴らは俺が自分たちに対して腹を立てているのだと勘違いしていることに気付いた。今回こいつらが抱えている作家陣の〆切はそう急ぐものではなく、どうせ延びるだろうと高を括っていたゆえ俺自身そう意識していなかった程のものだ。つまりこいつらの懸念はまったくの杞憂である訳だが、いずれにせよ誤解を生んだのは俺の態度なのだからきちんとカバーはすべきだろう。

「悪ぃ、別に苛々してた訳じゃねェんだ。ジョズ、〆切ならまだ延ばせんだろい?」
「今回のラインナップにゃ元々遅筆な先生が多かったからな。そりゃ多分に早めにお伝えしてあるさ」
「んじゃ、そうしてやってくれ。……ほれお前ら、各々担当に電話してこい」

 部局でもそれなりに声の大きい俺が時計を睨んでいるとくれば、そりゃあ新人らにとってはさぞ恐ろしかったことだろう、申し訳ないことをした。公私混同は御法度だろうと己を心中で叱咤し、簡潔に指示を出す。デスク向こうの全体スケジュールが貼られたホワイトボードと手元の手帳を見比べたジョズがOKサインを見せたところで、漸く若手二人の肩の力が抜けたようだった。終業は17時、まだ優に2時間は間がある。もしかせずとも今の俺は少々感情に踊らされすぎている、ちったぁ気合いを入れねェとな。
 缶コーヒーを一口啜り、数日前上がってきたばかりだった某作家の原稿に目を通す。俺が担当しているのは現在アリス一人だが、我が部局では時折担当外の作家の作品を第二担当編集として輪読することがあるのだ。今日はこれに校閲メモと寸評を付けて先の若手二人の報告を聞き、然るが後に当月刊行リストの誤植訂正ののち退社、というところか。ほら、先ほどああ言ったくせにまた17時までの算段を付けている自分がいるのだから呆れてしまう。溜息のついでに唇が自然とアリス、と声なく愛しい相手の名を呼んだ。丁度手元の原稿がタイミングよくか悪くか恋愛小説であったために、朝焼けのベッドで睦み合う男女に自分と彼女の姿を重ねてみたりして。いい歳したオッサンがやる事じゃねェだろ、と自責しつつもついその体を止められないまま頁を捲ろうとしたところで、締め切られていた編集室の扉が開いた。

「只今、っと。同業者さまン処の雑誌、取り敢えず一通り買って来たぜ」
「お疲れ。情報収集の為とはいえライバル社の売上に貢献するのはなんか癪だな」

 外回りから帰って来たサッチに真直ぐ洗面所を指しながら(意外にも私利私欲で始めた健康推進運動は好評らしかった)、報告を受けたイゾウが唇を歪めて皮肉げに笑う。本日刊行の雑誌の中には我が社のそれとコンセプトを同じくするものが多く、毎月こうして”資料”として一冊ずつ購入するようにしているのだ。恐らくどこも同じことをしているだろう。
 資料研究も大事だが、一先ず手元の原稿を読み終えてしまおう。そう思って席を立たなかった俺の眼前に一冊の雑誌がばさりと投げ込まれた。おい、他社の刊行物だからって粗末に扱ってやるなよ。文句を言おうと顔を上げた先には何やら訳知り顔で此方を見下ろしてくるイゾウ。洗面所に向かう途中のサッチは大体表紙でどの雑誌か判断したらしく「あ、そうそう。それお前に一番に読ましてやろうと思ってたンだよ」と説明を投げて来る。

「おれに? どうせ碌でもない特、しゅ……」



 迂闊だった。他社の刊行リストは事前に俺だって確認していた筈で、というより彼女の仕事ぶりについて把握できていないことがあるとは思いもしていなかった。大きな特集という訳ではないようだったが、他社の看板雑誌である大きくロゴの踊る表紙の中腹には、確かに『新星に聞く!第3弾 ミステリ作家:アリス・ブルー=シャルトリュゼ』と銘打たれている。
 誕生日云々の話の後にも、アリスには公私ともに何度も顔を合わせていた。いち出版社に所属している訳でないアリスは、勿論我が社以外でも仕事をしている。これまでにプライベートで話をする際には其方の話も聞いていたのだが、インタビューを受けた、などという事実は完全に初耳であった。俺の耳に入っては都合の悪いこと――例えば、どこぞの大学教授某と男女の付き合いを始めた、とか?――でも喋っているのだろうか。彼女のことだから単にその時インタビューを受けた事実が頭になかっただけかも知れないけれど。
 普段ならメモだの付箋だのを併用しながら1ページずつ読んでいくが、それは当座後回しでよかろう。目次で頁数を確認し、該当する特集を開いた。何処かのホテルのラウンジで撮られたものだろうか、上等な椅子に常よりややよそ行きの表情で腰かけるアリスのポートレートが目に飛び込んでくる。起伏に乏しい胸元を編み上げで飾ったチョコレート色のワンピースは、確か彼女が大学生の頃から愛用しているものの筈だ。こうして見ると、彼女がいかに歳を取らないかがありありと分かる。ボレロの広がった袖から覗く指はふくふくとして幼く、出会った頃と寸分変わらない。未だカメラを向けられ慣れないのか、微妙に強張って見えるその顔も。成人して久しいことは承知でも、彼女はいつまでも愛らしいミステリの国のお姫様のままであろうと確信できる。

「お前はかわいいな、本当に」

 知らず声に出ていた。おおよそ正気の者を見るそれでない形相で、デスクに戻ったイゾウが此方を見ている。が、今更構うでもない。寧ろ、これ以上アリスの魅力を解する人間が社内に増えて貰っては困るので。
 ポートレートの隣から、件のインタビュー記事が始まっていた。先の理由により読むのに少々躊躇いはあったものの、彼女に関わる文言であるならやはり一つ残らず拾っておきたいと思うのは至極当然で、1行目から滔々と目を通して行くことにする。妙に嫌な予感がして喉が渇く。呷った缶コーヒーは既に空だった。

『Q.じゃあ、アリスさんも最近は恋愛には御無沙汰という感じなのでしょうか?』
『A.御無沙汰というか、実はきちんとした恋愛には生まれてこのかた未邂逅でして(笑)。もうこんな歳ですし、ちょっと頑張らないとだめかなって最近は思ってます。ほら、いま流行りの”婚活”とか(笑)! あれ、ちょっと面白そうですよね』

 恋愛談議は想像に反して割とあっさりとしたもので、肩の力が抜けるのが分かった。「恋人ですか? 最近漸く出来たんですよ」などと書かれていようものなら人目も憚らず男泣きに暮れてしまえど可笑しくはなかっただろう。ともあれ、一先ず波は去った。あとは、あまりに平時通りなアリスの受け答えなどをゆっくり愛でつつ見分を終えることができそうだった。
 好物、休日の過ごし方、趣味。どれをとっても既にこの4年ですべて俺は知り得ている。彼女の愛読者とて、これを読まなければ分からない・しかし読んだとてただの字面の上での情報でしかないそれを、俺は直接アリスと共に過ごす中で自然と覚えてきたのだ。そのことに餓鬼めいた優越感を覚えた。『A.外食は、たまに。自宅近くに居酒屋さんがあって、そこの黒ビールがすごく美味しいんですよ』、そうだったな、確かにお前は何かというとあの店で打ち合わせをしたがる。『A.悩みは、うちの観葉植物の元気がないこと。あ、確か御社からは園芸雑誌も出てるんでしたよね? 助けてください!(笑)』、ああ、パキラだっけか、最近ずっと話しかけてやってたようだがまだ枯れっぱなしなのか。反応が返ってくる訳でもない相槌を付けながらインタビューを追っていく。

『Q.今号のテーマは”感謝”なんですけど、アリスさんにも感謝を伝えたい方、いらっしゃいますよね?』

 ありきたりな質問だった。大体は両親だの郷里の親友だのという回答が挙がり、ちょっといいエピソードでインタビュー全体に綺麗なオチを付けて終わる。流れ自体は最早様式美の様相を呈する訳だが、回答者がアリスであるならそれも悪くない。寧ろ、彼女の家族などについての話には大いに興味があった。
 俺は、彼女も幾多の回答者と同じく通り一遍の回答を寄越すと信じ切っていた。まあ今考えればアリスはそんな女でないことは自明であったのだが。だから一度はその体でふんふん成程と読み流し、何やら予期しない活字があったのに引っ掛かりその個所を2度3度、4度と読み直すことになってしまった。――何だ、これは。



『A.いまの、担当編集さんです。……あ、ごめんなさい残念ながら御社ではないんですが(笑)だって此方から本出してないですもんね。そうです、白ひげ社の。どうして御存知なんですか!(笑)うん、其方の、マルコさんと仰る編集さんなんですけど』



 ひと呼吸置こう。自分で見たものが信じられない。他社の刊行物で断りなく名前を挙げられていたことにも驚いたが、アリスの回答はその比でない衝撃を俺にもたらした。



『デビュー当時から面倒みて頂いてまして、今ではすっかり公私ともにお世話になってしまっています。最初に会った時なんてあたしただのガキだったでしょうに(笑)きちんと作家として扱ってくださって。時々すっごい厳しいこと仰いますけど、心から信頼のおける素敵な大人のかたです。彼なしには、今あたし、こうしていられなかったんじゃないかな』



 ……すんでのところで落涙は免れた。目頭が熱くなるのは禁じ得ず、考え込んでる風を装い肘を付いた両手を額に当て外界から顔を覗かれないよう覆う(恐らく焼け石に水だろうが)。こんなどうしようもない中年男を喜ばせて、アリスは何がしたいのだろう。思わず吐いた長い溜息が震えてはいなかっただろうか。

『Q.アリスさんがそんなんじゃ暫く白ひげ社さん以外からアリス・ブルー=シャルトリュゼ名義のミステリは出そうにありませんね(笑)。羨ましい限りです、うちも素敵な編集入れようかなー。それでは、今回はこの辺で! アリスさん最後に何かありましたら』
『A.あ、これ毎月5日発刊ですよね?(一同頷く)じゃあ、件の編集氏に、お誕生日おめでとうございますを言わせて下さい。……違いますよ、白ひげ社さんじゃなくて一個人へのメッセージですから!(笑)えっと、至らない作家ですけど、これからも宜しくお付き合いください』
『Q.誕生日プレゼントなのにご自分の世話をお願いするんですね?(笑)』



 ゆっくりと顔を上げ、雑誌を閉じた。遠くの方で数名ニヤニヤしている気配を感じるが、それが何だというのだ。
 一部例外を除いてはごく物欲の薄い俺は、これまで別段何を贈られたとてそこまで感じ入ることはなかった。今回とて特に未だ何を貰ったという訳ではない。だというのに、既にこの胸のうちは誕生日プレゼントとしては余るほどの何かを受け取ったような高揚に溢れていた。
 大したことを言われた訳ではない。好きだとか愛しているだとか、即物的な言葉を用いられた訳でもない。恐らくアリス自身、そこまで大仰な意味合いを以て俺を引き合いに出した訳ではないだろう。ただ、俺にとって、彼女が俺一人に言葉を向けてくれたことが何よりの喜びであっただけだ。他の誰でもなく、あの犯罪学者でもなく、俺の名を呼んでくれた。たとえ作家としての職分のことを言ったのであろうと、俺なしではいられないだろうとまで言った。これ以上の喜びがあろうか、という程に俺は歓喜した。

 * * * 


 正直な話、そこから俺はどのようにここまで帰って来たのだか覚えていない。携帯電話に入れているウイークリースケジュールには延期された〆切が記録されていたから、一応こなすべき仕事はこなしてきたのだろう。と信じたい。俺の部屋とアリスの部屋が隣り合うマンション。いつもながら静かに滑り降りて来るエレベーターに相乗りなく乗り、扉が閉まると同時に独りごちた。

「狙って言わなかったんだとしたら、とんだ策士だよい」

 真相は、都合の悪いことどころか此方にとって嬉しいサプライズを隠していただけに過ぎなかったのだが。
 約束の時間には少々早い。スーツのままで職場からアリスの部屋へ直帰、などという疑似新婚ごっこは俺にとって大層魅力的なものであったが、曲がりなりにも女性の部屋を訪ねるのに時間を違えるわけにはいくまい。今日はいい、でもいずれは。

 何の気なしに階数表示ランプを見つめていた俺は、よもやその時アリスが本日二つめのサプライズとしてエレベーターホールで出迎えの準備をしていようとは全く予想していなかった。


・Dear my ***


//20101003(1005 Happy birthday to Marco!)20161003 Rewrite


 今日は、俺が独り占め。



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