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Marco


 時折此方が驚くほどに、おおよそ世間ずれというものに縁遠い彼女は、若い女が往々にしてそうするように事あるごとに携帯電話を開いたりということをしない。しかも、一度ゼミの最中にあやまって着信音を鳴らしてしまい教授――図々しくも人のもんに好からぬ目を向けて来る、油断ならない男だ――にこっぴどく叱られたとかで、普段からマナーモードにされていることが多い。
 つまるところ何が言いたいかというと、先刻からいっこうにアリスと連絡がつかない。

 断腸の思いで送り出したゼミ合宿とやらも今日で終わり、漸く独り寝の寂しさからも解放されると思われた。勿論、恋にかまけて日常の雑事も手に付かなくなるような思春期のガキではないから仕事などは平時通りこなしてはいたものの、ことにこの数日の俺からは覇気というものが抜け落ちていた。活力・動力源そのものを欠いていたのだからそれも当然だろう。
 「人並み以上に仕事をこなし、職場の要である俺」をアリスは実に心地よい敬愛で以て称賛してくれるので普段通りの職分を崩すわけにはいかない。しかしながら、ふとした瞬間に気落ちしてしまうことは否めなく、昼食時など気が付けば俺の食事の半分はエースに持って行かれていた(そして、それを叱る気力も意志も当時の俺にはなかった)。
 


「――アリス、……」



 名前を呼べど返事のない、陽の落ちかけた部屋。もう幾度めかも分からないほど確認した携帯電話の液晶に目を落としたところで、そういえば何時に戻るのか聞くのを忘れていた、と思い当たる。あれだけ醜い執着を見せておきながら肝心なことを失念しているのだから、ほとほと今の自分には余裕が足りていないのだと思わされる。朝、目が覚めたら当然のようにアリスが傍にいて、「只今帰りました、マルコさん」とかいう風に微笑んでいる、などと都合のいい妄想をしていたというのか。末期、などとうに通り越している自覚はあった。
 アリスを信じていない訳ではない。恋人がありながら他の男とどうこうできるような不実な女ではないし、そんな芸当が出来るほど器用でないことも熟知していた。俺がこんなに焦れているのは、ただ偏に俺自身が彼女が傍にいないことを不満に思っているからというだけの理由だった。精神的な繋がりだけでは足りない、などと思うのはアリスを手にして以来のことだった。昔は、多分、もっと大人で居られた筈だったのに。
 


「帰りましたよー、……あれ、暗い」



 ぱち、と小さな音がしてリビングに明かりが灯り、そこで初めて部屋が暗かったことに気づかされる。携帯を片手にソファに身を沈めた時にはまだ陽は高かった筈で、どれだけ自分が気をやっていたのかが知れるようであった。「今日はお仕事早かったんですね」などと常のように暢気な笑顔でのたまうアリスは、この数日夜な夜な見ていた(俺に都合のよい、俺だけのものでいてくれるような)それでない本物。何を言えたものでもなく、茫然とその名前だけを呼んだ。荷解きを始めようとキャリーカートを倒していた彼女が此方に顔を向ける。

「どうされました?」
「……否、」
「呼んでくださっただけですか、」

 息を吐きながら、アリスの笑みは深くなった。それ以上に何も言う事はなく、視線は荷物へ戻って行った。
 また、名前を呼ぶ。

「? ほんと、何かあったんですか」
「否、何も無かった」
「じゃあ尚更何なんですか、気になって仕方ない」

 言えるもんか、そんなに体裁のいい理由でもないのに。
 ただ、安心したかっただけだ。折角戻ってきてくれたのだから、他のものに目を向けているのが許せなかっただけだ。そんなことを告げれば、また呆れられてしまうだろうから。
 
 心の繋がりだけで耐えられるように、せめて共に居る時くらいはその存在全体で俺を満たしていてくれ。
 
 離れている間じゅう嵌めておくことを強制していた10月5日の誕生石が、言いつけどおり左手の薬指に在るのを確認して、俺は漸く目を閉じることができた。


・Psy-Phone(20160924 Rewrite!)


//20100930


 嗚呼、なんと駄目なオッサンになっちまった事か。 



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