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Crocodile


 夢を見ていた。否、正確には、夢を見ていることが分かった、と言うべきか。
 今は、担当のゼミの合宿などという面倒以外の何物でもない催しの最中であるからして、こうして自宅のベッドの上で目を覚ましている俺は間違いなく現実に立ってはいない。一人所帯の台所から、焼き立てのトーストだの淹れ立ての珈琲だのの匂いがすることもない。夢を見ていることが分かった。これだけ意識が鮮明であれば目が覚めるのも時間の問題だろう。無理に脳を働かせるのも億劫だと判断し、暫し目の前の写実的な虚像に身を投じることに決めた。
 台所から、此方へ。足音が段々と近づいて来るのが分かる。無遠慮にも伺いを立てるノック一つなしに、この寝室の扉が開かれた。

「サー、おはようございます。もう起きておいででしたか」

 ごはんできてますよ、だと。
 耳障りでない程度に甘ったるい声で特に嬉しくもない台詞を吐いて寄越したのは、何とも忌々しい――昨日、渓谷を渡す吊り橋の上で見たのと同じ笑顔だった。前言撤回だ、夢見までこいつに乱されてたまるか。言葉を発する気力も無く未だ起き上がってすらいない俺を、常の遠慮は何処に行ったのか無理矢理起こしにかかろうとする姿を正視できない。カーテンが開かれ、唐突な眩しさに僅かに瞼が震える。目覚めは近いかも知れない。



「閉めておけ」
「なにを? ……あ、カーテンですか。ごめんなさい眩しかったですよね」



 口走った理由など考えたくもない。咄嗟だとも思い難いが。目覚めたくない、とでも言うつもりだろうか。終ぞこいつが姿を見せるまでは、この光景を虚像であると断言していたばかりの口で。
 脳内の情報を整理するために自分自身が見せている映像であるところの夢は、それだけに此方が目を逸らしたくてたまらない部分までモロに描き出してくる。ごめんなさい、などと言いつつ然程詫びる気のなさそうな声色で軽く笑いながら開けたばかりのカーテンの端を再び掴む手が殊更クローズアップされて見えた。この距離からでも華奢な手指の一本毎まではっきりと見て取れるのは夢の効力が大きい。何も苦労など知らないだろう小娘だとばかり思っていたがその指先は柔らかさや瑞々しさに今一つ欠けており、恐らく日常的に水仕事をしているのだろうことを思わせる。不器用そうな小さい手をしているが、言い付けて事務をさせると一つのミスもなくこなしてのける、こいつはそんな女だった。最近の若い女よろしくな毒々しい着色とは縁遠そうな短く手入れされた爪を小指まで追ったところで、気付きたくなかった(ああ、もうはっきり認めてしまおう)事実に気付く。
 畜生、――左手、か。

「卵も牛乳もお砂糖もセッティング済みなんですけど、フレンチトーストにしちゃっていいですか? ……あ、勿論そのままトーストで供させて頂いても構いませんよ」
「――あの野郎は、見かけによらず甘ったるいもんがお好みなんだな」

 お前然り。

「……へ? あの、サー、何を仰っておられるので、」

 カーテンを引いた左手は、口元に当てられる。
 その薬指には、蜂蜜めいた黄色い石の嵌った指輪が堂々と――キャッツアイを誕生石に持つ誰かさんの束縛が透けて取れるように、鎮座ましましていた。指輪だというのに首輪のような存在感を放っているように感じられるのも、俺がそれを現実に見つけた時の苛立ちを御丁寧に無意識下で拾われていたからだろう。かくも夢とは忌々しいものであったか。
 
 道草に山の中を遊山した折にも、昨日今日に限らず日頃の生活においても、こうして夢の中のこいつがこうも克明に描写され得る程には、俺はこいつのことを観察していた。認識したくもない確固とした証までがきちんと現れているのだから、その事実は認めざるを得ない。「観察」という言葉が似つかわしくないほどに腑抜けた感情さえ伴っていたかも知れなかった。俺はこいつを、――。



「サー、おはようございます。もう起きておいででしたか」


・コイイロノユメ


//20100930(20160924 Rewrite!)


 せめて夢の中でくらい都合のいい幻想を、とその時ばかりは強く望んだ。



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