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Crocodile


 渓流のせせらぎの音で我に返った。

 低い水温がここ一帯の暑さを和らげているのか、そういえば先刻から汗の不快なべたつきを感じない。もっとも、湿気が得意でない此方としては、光の入射量が少ないこのような場所が快適であるとは言い難いのだが。ひらりと右肩に落ちて来た葉は未だ緑で、見上げると昼下がりの空を覆うようにして大樹が茂っていた。開けた空に解放感を覚えられるような感性を持ち合わせている訳ではないが、これほど閉塞感を感じない狭い空も存在するのかと柄にもないことを考える。
 数メートル前、同伴者の存在を忘れているかのように一人で悠々と先に進む奴はもう橋の上に居た。飛沫を浴びるほどの近さで絶え間なく打ち付ける滝に、届く訳もなかろう右手を伸ばして「わ、結構濡れる」などと惚けたことを言っている。莫迦か。一歩足を掛けると、木造りの吊り橋は耐性疑わしく軋んだ。

「ぉわ、――揺らさないでください! 落ちる!」
「あ? 戯けてんじゃねェぞ、ここ以外に道があるなら言ってみろ」
「……ないですけど」
「ガタガタ抜かしてねェでとっとと進まねえか」

 歩を進めるごとに橋の軋みは大きくなり(落ちることを危惧するほどではない。大袈裟なこいつが悪いんだ)、手摺よろしく枕木と平行に渡してある縄に両手を縋らせて俺を待つ表情はその度強張って行った。早く進めと言っているのに。
 霧のように微小な滝の飛沫が頬を覆う。このところ蒸し暑い日が続いていたゆえ、少々の爽快感は認めざるを得なかった。喧騒と紛う位の流水音に取り囲まれる。小川のせせらぎに心が洗われると宣う人間は多いが、こうもこれ見よがしに大きくなると逆に耳障りなようにも感じる。自然物などこれまで歴史の上で人間に容易く支配されてきたものであるのに、何か得体の知れない生でも持っているような気にさせられる。――我ながら、愚考極まりない思い付きだ。目の前で、飛沫を舌で感じようと口を開けている莫迦に毒されているのかもしれなかった。

「もうちょっと、いいじゃないですか。コテージに帰ったらまたプレゼンの用意しないといけないんですよ」
「それの何が悪い」
「折角の遠出ですよ? ゼミ合宿とはいえこんな処まで来たんですから、もっと皆さん自然に触れるべきです」

 皆さん、か。こいつは特に何の衒いも無く、ただ近場に居たというだけで俺に声を掛けたのかも知れなかった。
 他の連中は恐らく下流のほうで児戯さながらの川遊びにでも興じているのだろう、先刻より小一時間ほど、その気配をさせていない。「教授、あれ、」と視界向こうに指を向けたので、そのうちの一人でも見つけたのかと何の気なしに注意を其方に遣ったが、下流から上流に泳いでくるような常識外れがそうそう居る筈もなく、代わりに見ることになったのはあまりに取るに足らないものだった。

「いっぱいの水と、光はちょっとだけなのに、綺麗に虹ができるんですね」
「……下らねェ」
「ぉ、わあ! っそ、そんな無関心で通り過ぎなくったって!」

 そうやって雑事にいちいち感動できるお前のような純粋さとやらは、残念ながら持ち合わせていないんだ。それが美徳だとも思わない。日常から離れて高揚した気分で散策に出られて、お前は嬉しいのかも知れないが。
 追い抜かして橋を渡り切る。振り向くと、つい数秒前まであれだけうろたえていた表情は腹の立つ位の笑顔に塗り替えられており、情けなく手摺にしがみ付いていた両手は此方に向け何か――忌々しい、小型のデジタルカメラを構えていた。

「初秋、自然に反駁するかのように森林の中で葉巻を燻らすロマンス・グレー。これは学内の芸術展に投稿したらいい線いけそうですねえ」
「とっとと消すんだな、演習ぶんの2単位が惜しいのなら」
「職権濫用ってご存知ですか?!」

 よもや撮影の好機を図るためにわざと怖がるような真似をしたと? 呆れた成人もいたものだ、このような連中でも簡単にパスできるような敷居だから昨今の大学生は頭が緩いと言われるのだ。
 吐き出した煙は、この場所にまで届く飛沫に阻まれてそう広がらなかった。

「我がゼミの至宝にして学会の気鋭・クロコダイル教授の貴重なオフショットですからね、――やだ、公開したりなんてしないですよ。あたしの私蔵にします」
「どちらにせよ不快なことに変わらねェよ」



 軽々しく私蔵などと。どうせ、容量を超せば躊躇いなく消すのだろうに。
 ゼミで遅くなるたびに甲斐甲斐しく、此方に言わせればこれ見よがしに構内ぎりぎりにまで迎えにくる彼某との写真で圧迫される位なら、今この場で始末されたほうが幾らかましであるのに。
 お前が考えなしにこんな環境に連れ出すから、余計なことを考える。


・My sweet Fall(that make me confuse)


//20100913(20160923 Rewrite!)


今ここでその笑顔を奪ったら、何か変わるだろうか。



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