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アンラブリー ラング・ド・シャ



 いつもクールかつダンディーに決めておいでの此方の教授どのがどうやら猫舌であるらしい事に気が付いたのは、親しくさせて頂くようになって直ぐの事であった。
立ち会った事件の総括がてら自宅マンションにお招きした際、奮発して出したちょっと高級な部類の玉露に彼がまったく手を付けようとせず、焦れに焦れきった私が声を上げんとするまで湯呑みを持ち上げなかったことから明らかになったその事実は、恐らくあまり多くの人間が知る所では無い。普段の彼を思えばそれも無理からぬことであると思う。社会学部のクロコダイル教授といえば、敏腕ながら学生ばかりか教職員をも威怖させるようなアイアン・マンであるがゆえ、仮に猫舌らしいなどという疑惑が立ったとしても、それを面と向かって彼に尋ねることができる者など殆ど居ないだろう。当時であれば私だって無理だ。(出来るとすれば彼の朋友(?)であるらしき比較宗教学のドフラミンゴ教授くらいであったろう、色々な意味で。)
 あの時、「熱いもの、お得意でらっしゃらないので?」などと常の自分らしくさらりと聞いてしまえれば今こうして私なりに気を遣ってあれやこれやする必要はなかったのだろうか、と少し後悔する。――といっても、彼が猫舌であるということを私が知っていると知らない(ああ、煩雑な日本語だ)彼が私の愚考をそれと知らず受け取る場面は、私にとって少々よろしくない部類の喜びであることは否定し難い。この歳になって悪戯もなにも無いけれど、有り体に言うと少し楽しい。


* * * 



「……遅れて、ないです」
「否、五分遅刻だ。助手として心がけが足りんのじゃ無いかね」
「五分くらい遅刻のうちに入りません! ……ご自分は列車に乗り損ねた事もある癖に」
「ゴタゴタ抜かしてねェでとっとと座れ」

 舌打ちされようが自説は折らない、私の腕時計では五分すら遅れていなかったのだ。「済みません遅れちゃって」くらい言えない私ではないが、常は私以上に時間遵守と縁遠い存在である彼にそう詫びるのは何とは無く癪であり、つい小生意気な第一声を発してしまった。誰かが見ていたならまさしくどっちもどっちと判断するであろう応酬にてこの度の邂逅は始まった。
先日この付近で発生したとある殺人事件について、彼――気鋭の犯罪学者でありながらフィールドワークという名目にて実際の犯罪捜査に立ち合う名探偵、クロコダイル教授が述べた所見が犯人逮捕の切欠となったらしく、「要らん礼でも聞きに行きついでに論文の資料を浚いに行く。お前も来い」と電話連絡があったのは今朝がたのことだった。簡単に言ってくれるが私の自宅と彼が指定した喫茶店(彼の職場たる大学の目と鼻の先にあり、私も学生時代にはよくそこを利用していた)とは電車十数駅ほどの距離があり、無慈悲にも通告された時刻は目下受話器を握っている時点でまだ寝巻を着ていた私に一刻も早くそれを脱ぎ捨て最低限の身だしなみを整えたのち家を飛び出させることを要求しているのとイコールであった。この教授どのには、顔を合わせるたびにやれ顔が汚いだのやれ服が安っぽいだのと苦言を賜るが、その原因の数割はご自分が担っているものなのだと自覚して頂きたいものである。

「順調に供述してくださってるみたいですね」
「指摘してやった時点で半ば”落ちてた”様なもんだ。警察の手腕でも何でも無ェよ」
「……うぇ。サーったら、よもやご自分の手腕の成せる技だなんて思ってらっしゃる?」
「あ?」
「睨まないでください、存じてますって。貴方に言わせれば『奴の心の根が勝手に折れた』んでしょ?」

 分かっているなら聞くな、とすら返ってこなかった。意図して機嫌を損ねようと思った訳ではないが、〆切明けの午前中から呼び出されて私とて少々立腹していた訳で、敢えて謝ることはせず肩を竦めるだけで済ませる。
先ほどああは言ったが、彼が名誉や称賛などという自己顕示欲からこの私立探偵まがいの稼業に従事している訳でないことは、助手である私が一番よく知っていた。無論、平和な社会を築きたいから・無辜の被害者らに代わり正義を代弁したいから云々という清廉潔白たる動機でも無いと思う。「と思う」などと逃げを打っているのはなぜかと言えば、私自身、何故クロコダイル教授が犯罪捜査の現場へ身を投じるのか、その理由を彼から詳らかにされたことが無い為である。
彼が犯罪に・その熾し手たる加害者に対して向ける眼差しはいつでも真摯で、刃のように厳しい。それが怒りゆえのものであるのか、そうだとすればどのような怒りであるのか、傍らで何も知らない風な顔をしてそれを見つめている私としては、もっと深く知っておかねばならないような気がするのだけれど。

「おい、」
「――あ、……わ、ごめんなさい、何ですか」

 目の前から焦れたように投げかけられた声で漸く我に返った。彼が軽く顎をしゃくった方へ視線を移すと、困ったように眉を下げつつも柔らかい笑みにて「ご注文をお伺いしてもよろしいですか?」とウエイトレスのお嬢さんに小首を傾げられる。不覚にもすぐ傍まで来ていた気配に気づくことすら出来ていなかったらしかった。呆れたような小さい溜息を右耳に聞き入れる。あのね、こっちは貴方の事を案じて差し上げてたんですよ。

「えと、……あ、でももう35分ですね。あんまり長居出来ないや」
「ブレンド」

 捜査本部まで出向くことになっている時間までもう幾刻も無い。体面的にここの会計は自分持ちでないことからあわよくばパフェでも喰らってやろうかという私のささやかな企みは脆くも潰えた。メニューを横目に見ながら唸っている私の逡巡を遮るようにして名探偵の先生はさして迷っていた様子もなくドリンクメニューの一番上のものを読み上げた。秋も深まり過ぎる程深まって来た時節柄、ウエイトレス嬢の返答も「ホットでよろしいですか」と半ば断定口調だ。そして、それにさも当然のように頷いてみせる先生。その様に私は内心お節介じみた懸念を覚える。曰く、あたしたった今あんまり長居出来ないって言ったじゃないですか貴方それ飲み切れるんですか、と。とはいえ一度言ったことを「やっぱり今の無しで」と撤回できるような人でないことは既知のこと、もしかすると今頃胸の内では軽率な相槌に後悔していらっしゃるのかも知れないが(たかがコーヒー一杯で大袈裟だろうけれど)、すでに後の祭りである。
 右手でぱたんとメニューを畳み、「あたしはアイスカプチーノで」と告げる。注文を繰り返したのちウエイトレス嬢が厨房へ退くが早いか、教授先生は先刻より数本目の葉巻に点火した。

「ところで、あたし向こう着いてから何してたらいいですか?」
「推理の時ですらマトモに動けねェ助手に今更何も期待してねェよ」
「え、なんですかそれ! 其方が来いって仰るからあたしこうして馳せ参じましたのに」
「お待たせしました。こちらブレンドと、アイスカプチーノです」

 否、まったくお待ちしていない。客の入りがそう過剰でない所為かドリンクの提供スピードは非常に優秀であると言える。まあそんな話はいいか。
 ストローをマドラー代わりにしてグラスの中身をぐるぐるとする私の前で、名実違わぬホットコーヒーのカップを視界に入れた教授どのは、一度それを持ち上げたもののゆっくりと下ろしてしまう。ほら、言わんこっちゃない。忌まわしげな舌打ちも僅かに聞こえたがまったくの自業自得であるがゆえ何も言えないでいるらしい。平生の彼においてこのような様子でいることは非常に珍しいため可笑しみすら感じる(言うと怒られるけれど)。

 ストローに口を付けたふりをして、手つかずのグラスを此方も下ろしてみせる。ことん、と作為的に少し音の立つように。それを拾った彼が私の方に目を向けたのを合図に、頬を膨らませてこう嘯いてやった。

「ここ冷房きつくないですか、あたし飲み物来る前に身体冷えちゃったみたいで」

 心の底から大層面倒臭そうに溜息を吐いた(今度のそれはとっても聞こえよがしであった)クロコダイル先生は、「全く、作家先生の無計画さには毎度驚かされる」と皮肉げな苦言を零したのち、己の手前にあったカップを私の方へ何の気なく押し遣ってくる。



「寄越せ、替えてやる」



 ――噴き出すかと思った。否、そもそもそのつもりで申し出たことであるため返答の内容自体は特に可笑しくはないのだが、あまりに彼の言い様が鷹揚であった為に却って此方がリアクションに困ってしまう。彼はこういう人なのだ、如何なる状況においても。それにしたって少しは安堵した素振りでも見せてくれていいようなものであるのに、その辺りは流石筋金入りの云々と言ったところか。
 表向き素直に小さく頭を下げて此方のグラスを差し出せば、今度はさして躊躇う事もなく、ストローを外してカプチーノを傾けていた。「時期を考えろ、大人しくホットにしてりゃ良かったろう」などと尚も我がもの顔で責め立ててこようとするのに、ご自分の嗜好を考えて大人しくアイスにしてりゃ良かったんじゃないですか、と揚げ足取りで反駁してやりたい衝動に駆られなくもなかったが、此処は大先生の顔を立てて何も言わないでおくこととする。我ながら涙ぐましいほどのいい助手ぶりである。

「ね、サー」
「あと十五分で出る、さっさと飲んじまえ」
「……ね、今日、ほんとはあたし要らなかったんじゃないんですか」
「はあ。ご自分でそう思ってらっしゃるならご勝手に、としか言えねェな」

 確信に迫るような直情的な物言いはしないながら、彼は決して私に対して「不要だ」と告げることだけはしなかった。今までも、今も。そのことに私はそれなりに誇り高い自負を感じているし、自分の出来得る範囲で賢明な助手たろうと日々尽力しているのだ。出来得る範囲で、だが。
もう一度口を開こうとしたのを悟られたかのように、「まさかお嬢さん、ブラックじゃ飲めませんなんて宣うつもりか?」と唇の端を吊り上げた彼に邪推される。まさか。学生時代から貴研究室の助手某氏に次いで貴方にコーヒーを献じていたのを誰だかご存知でありながらそのような軽口を叩くのだから、これから仕事に赴くというのにこの先生、相当リラックスなさっているようである。はふ、と吹き分けた白い湯気は両頬を柔らかく撫でてゆく。こうして熱いものをふうふう冷ましながら飲んでゆくのもホットドリンクの醍醐味の一つであると私などは声を大にして主張したいものだが、「まるで餓鬼だな、作家先生」と揶揄混じりに眉を上げる彼にはきっと一蹴されてしまうのだろう。弱みを見せることを厭う殿方とはあれど、その対象が猫舌であるなんて誰が予想するというのか。逐一フォローせねばならない助手の苦労が偲ばれるというものである。私の事だが。

「ほんとにクロコダイル先生はいい助手をお持ちですよ」

 怪訝な目をして此方を窺う彼の、グラスに接した半開きの唇から覗く舌には、可愛らしい鉤状突起などは備え付いてはいない。世に蔓延る悪を糾弾するに至極活発に回るそれ・理路整然と教壇上にて自説をぶるそれの、唯一無二の弱点を、私は知っている。


・アンラブリー ラング・ド・シャ


//20101220(20160919 Rewrite!)


 のちに通された捜査本部にて供された紙コップ入りのコーヒーに、彼は勿論一切手を付け(られ)なかった。


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