text(op) | ナノ




時に、閉鎖空間でのきみは



 売れ行きはともかくとして、アリスは心から書くことを愛し、創作を愛し、ミステリを愛する、まさに作家になるべくしてなったような存在だ。そんな彼女だから、ことば遊びや少々の凝った言い回しは最早日常の一環であり、担当編集者として四年間一緒にいる俺としては、誰よりもアリスのそれをよく分かっているつもりでいた。無論、今回だって、アリスが本当にそう思って発言している訳でないことは百も承知だ。しかし。



「……マルコさん、あたしのこと閉じ込めてくださいませんか」



 喜び勇んでアンダーグラウンドへ邁進しそうになったとて仕方なかろう、畜生。


 * * * 



 正午を回った。そろそろ頃合いだろう。
 601号室に用があるのだが、と昨日と同じフロントスタッフに声を掛ける。持参の社名入りアタッシュケースからも此方がビジネス目的であることは明白であるためか、訪れる部屋の主は女性であるというのにスタッフは何ら訝しげな素振りを見せず「右手のエレベーターをご利用下さいませ」と完璧な笑顔を見せた。場末の如何わしいそれや駅近くの交通網の良さだけが売りのそれと違い、一泊二万円近くするホテルに相応しい接客であると思う。
 三日前からこのホテルの一室で籠り切りで執筆しているアリスを、一日一回この時間に見舞うのがこのところの俺の主業務となっていた。少々でも憔悴するようなことがあればアリスが可哀想だ、と過保護に近い心配をしていたのだが、隣から生活音がぱたりと途絶えたことで、恥ずかしながら俺のほうが神経をすり減らしているように感じられる。仮にではあれアリスを軟禁できるという叶い難い体験を出来ているというのに、それで却って物理的距離が離れてしまうというのは皮肉なものだと思う。すべて此方の独り相撲ではある訳だが。

 〆切までに原稿が上がりそうにない作家を、出版社側が無理矢理ひとところに閉じ込めて出来あがるまで帰さない。缶詰、というのは本来作家側から希望してするものではない筈なのだが、アリスから事情を聞くに、どうしても常の環境では一文字も筆が進まなくなってしまったのだという。それで「閉じ込めてください」などと物騒な物言いをするに至ったあたり、一見では呑気な微笑を浮かべていたようにに見えたけれど、彼女なりに切羽詰まっていたのかも知れなかった。此方としては、内にちらつく反道徳的な願望を見透かされたかと危惧したものだったが。
 愛するものを、他に目を向けるべきものもないような場所で自分だけのものとして所有し続けられたら、どんなに心地よいだろう。後ろ暗い欲求は数日前から確実に、形を持って表に現れてきている。いい歳して、向こうからせがまれた形で得られた非日常に少々気が高揚しているのに違いない。発露させては取り返しが付かなくなる、と軽く咳払いをすると共に扉を数度叩いて気を紛らわそうと努めた。

「アリス」
「はあい、――今日和、マルコさん。ちゃんと書いてますよ」

 外に出る予定もなかったのか(昨日は資料漁りと息抜きを名目にして書店巡りと喫茶店に出向いたらしかった)生成色をしたワンピースにノーメイクのアリスはやはり実年齢よりずっと若く見え、発言に違う事なく懸命に執筆していたのだろう事が伺える眼下の薄い隈は、ただでさえ華奢な風貌に弱弱しさを加味しているようだった。おそらく稚児のそれのように柔らかいだろうその両頬をこの手で覆い、滲む薄紫を慈しむようになぞったら、アリスは擽ったそうに目を伏せたりするのだろうか。入ってください、と踵を返すアリスに先導される形で部屋に入り、扉を後手に閉めた。あまりに事も無げに招き入れられてしまったことに、喜んでよいのか悲しんでよいのかすらもう分からない。今すぐ脇のシングルベッドに引き倒してやったとて、此方としてはいっこうに構わないのに。
 テレビの下に備え付けられている最新のゲーム機には手をつけた形跡はなく、件のベッドには初日に持ち込んだ長期旅行用のキャリーバッグが置かれている。慌てて口を閉めた感があるのが可愛らしかった。生活感に今一つ欠けるのは、洗濯物の類がないせいか。大方バスルームに干してあるのだろう。一年隣に住んでいるからか、自分の知らないアリスの生活体系がそこにあることに違和感を覚える。有り体に言えば、寂しかった。

「あとどの位掛かる計算だい?」
「そうですね、……明日の夜中には、上げられたらいいなと」
「了解。そんじゃ、がんばったアリス先生には明後日の夜にでも、何か御馳走してやろうかねい」
「わ、本当ですか! あたし頑張りますね。……あ、そうだ、書評」

 ご褒美、の体で言い出したことだが実際は俺がアリスを夕食に誘いたかっただけのことだった。アリスはそれに気付かない。ひとの感情の機微に敏感なアリスがここまで常態で居るのだから、これは俺のアプローチがあまりに淡泊なのがよくないのだろう。歳なり体裁なりというものを気にすると、心中では正気を疑われる位には常軌を逸した想いも、表に出る頃にはずいぶんと希釈されたものになってしまう。
 ここに籠る原因となった新刊の原稿とは別に、アリスは先輩作家の作品の書評を抱えていた。今日は執筆状況の確認と同時に今朝仕上がったというそれを受け取って帰る次第となっていた。「ちゃんと推敲して、御社の封筒に入れたんですよ」と当然のことをさも偉いことをしたかのような口ぶりで言ってのけたアリスは、それをキャリーバッグに収めていたのだろう、俺が見下ろす先でベッドに乗り上げ、座る。俺が手配したこの部屋で。誰も(あの忌々しい学者某さえも)アリスの所在を知らない中。俺とアリスしか居ない、閉じた空間で。かくも無邪気なベッドの上のアリス。華奢な身体をふわりと包むワンピースの生成色、そこから覗く、ひとの心を打つ言葉を紡ぐ細い指。ちょっとまってくださいね、というあくまで呑気な耳触りのよい声色。待て? 待てない。

 眩暈がした。



「――アリス、」
「あ、これですこれ。よかった、見つかった」



 今にも細い肩を押してその身体を沈めてやろうと画策していた右手は、所在なく中空で静止したのち、突き出された封筒を力なく受け取るためのものとなった。上半身を屈めた姿勢はアリスから見ればわざわざ己に合わせたものだと捉えられたようで、「そんな心配してくださらなくとも、この密室で物なんて無くしたりしませんよ」と見当違いにも程がある拗ね方をされた。勢いを殺がれた今でも意識の何処かでは、このまま覆い被さってやったら、などと懲りずに考えてしまっている。男の恥と言われようと何だろうと、据え膳が据え膳過ぎるがゆえに却ってどうにもできない。その一線を越えてしまっていいんですか、本当にいいんですか、とアリスの声で問いかけられている気がしてならなかった。今更、この期に及んで、何を躊躇っているというのか俺自身にもよく分からない。ずっと眩暈は続くのに、結局は意気地なし極まりなく、「ああ、確かに受け取った」と簡潔に応えて寄越すだけで姿勢を正した。こんなに近づけることなんて珍しいのに。もう暫くこんな好機は訪れないかもしれないのに。
 数歩退いてベッドから距離を取るだけで、自分でも笑えるほどに眩暈は遠のいた。37にもなって、惚れた女がベッドの上に居るというだけの事実にこれほどまで興奮してしまえるというのだから自嘲もしたくなる。そして、それだけ参っていながら結局強引に想いを遂げることもしないのか、ということについては更に。

「俺はそろそろ」
「ごめんなさい、お忙しい中、通って頂いて」
「くくっ、そう思うなら一日でも早く原稿上げてくれたら此方としては嬉しいよい」

 早くこの部屋を出なければ、またいつ眩暈がやってくるか分からなかった。二度目の波に抗える自信はない。そのほうが俺にとっては良いのかも知れないけれど。いじらしくも見送りに出て来るアリスに触れたい衝動は抑えがたく、此方の肩より低い頭に掌を乗せた。ふわふわと快い手触りのカフェオレ色に酔ってしまいそうになりながら、名残惜しく指を離した際のアリスの表情はきょとんとしたものだった。頭くらいなら大丈夫か、と無責任な判断を下したものの、そういえばこんなに無造作にスキンシップを図ったことなど過去に一度もなかった。しまった、表向き冷静でいたつもりだったが全然そうではなかったらしい。しばし固まったのち、アリスが次に見せたのは何とも安心感のある拗ねたそれで、どうやらこのまま流してよさそうだと思えた。

「子ども扱いしたいんでしたら差し入れのアイスなりお菓子なり、もっとくださったらいいのに」
「莫迦言え、ここ自体一泊幾らしてると思ってんだい。――また明日」
「うん、頑張りますね」


 * * * 



「邪魔が、多すぎる」

 アリスを自分だけのものにするには、日常にあまりにも色々なものがあり過ぎた。だからといって、ホテルの一室に閉じ込める程度では足りない。それでは、アリスを創作から引き剥がすことなんて出来やしない。紙とペンだけあれば、否、それすらなくても独り遊びが出来る作家という職分はこのような時に周りにとって不便だった。
 優先されたい、他の何よりも自分を選んでほしいなどという手前勝手な感情、若い時分にとっくに捨ててきているとばかり思っていた。アリスにはアリスの生活があり、書くことへの希求があり、作家という立場があり、――奴、という得体の知れない存在がある。分別ある良い大人ならば、じっと見守る恋でいいさと割り切ってしまうのだろう。そして、せめて彼女が折れそうになってしまった時にでも、傍でぐっと掴まれるような存在でありたいと願うのだろう。俺もそれでいいと思っていた。思っていたのに。



「紙一重、って処だな」



 いろいろと危ない淵に立っている。が、もう戻れないだろう。
 今は好きにさせてやれても、いずれは眩暈どころでない衝動が俺の制御を超えてアリスに干渉し始めるだろう。そして、恐らくそれはもうそんなに遠い未来でもない。大人らしく狡猾な方法で以て腕尽くで、俺のものにして閉じ込める。何も欲しがる隙間もないくらい、俺から与えるもので満たしてやる。アリスがそれを望むと望まずと、俺のほうがそうすることを止められないから仕方がない。
 
 今は仮の籠で物語を紡ぐアリス。俺のアリス。その細い手首を掴んで独占欲で満たされた籠へと引っ立てる日が待ち遠しいようで、今はまだこの曖昧な信頼を崩したくないとも思う。
 振り返った先、ベランダに立って手を振ってくるアリスの無邪気な笑顔を網膜に焼き付けて尚、我に返ることはなかった。


・時に、閉鎖空間でのきみは


//20100907(20160908 Rewrite!)


 軽く片手を挙げて返した俺は、それはもう怖い位に正気だった。


[ 29/56 ]

[back]