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ワインレッドの欲望



 ここ数年と律儀に行われている食事会を終え、常の様相で酔いを醒ましつつ帰宅した先の、自宅マンションのエントランスホール。

「何のつもりだ」

 つい小一時間前に手を振って帰途へ着いた筈の女が、其処に立っていた。


 * * * 



「やっぱりきちんとお祝いしておこうと思いまして」
「要らねェ世話だ」
「だったら後で捨ててくださって構いません、」

 先刻別れたままの姿で、先刻別れたままの顔で、アリスは片手に提げていた紙袋を掲げた。駅のコインロッカーにでも預けておいたのであろう、会食中には俺の意識下に無かった存在だ。当然のように突き出されたそれは、一見するだけでは中身の知れない黒塗りの包装で、ブランド名などは一切記されていなかった。

「何だ」
「お渡ししてませんでしたでしょ、バースデープレゼント」
「……ンな歳じゃねェよ」
「やだ、そんなの気持ち次第だわ。祝う側と祝われる側、双方のね」

 今回はあたしが祝いたかったのだからいいんです、だと。結局此方が何を言おうと押しつけられるのだろうからそれ以上固辞はせず引き取っておく。「開けてみてください」と無茶を言いだすアリスに嘆息した。日付も変わろうという時間帯ゆえ人通りはないにしろこの往来で、無邪気にプレゼントを開封して喜べというのか、俺に。意図して剣呑な視線を向けどもこの四年間ですっかり慣れてしまったらしいこいつは相変わらずにこにこと胸糞悪いほどに邪気のない微笑で以て提示した以外の選択肢を許さない。最終的に折れたのは疲れていたからで、他意はなかった。
 黒塗りの紙袋の中には、ボルドー・カラーの柔らかい化繊布で包まれた太い筒状のものがひとつ。ご丁寧に黒いリボンを金のシールで留め、こいつにしては上品なチョイスをしたつもりなのかも知れなかった。手触りが堅いことから、恐らく内容物は硝子製のボトルであろうと予測は付く。洋酒か。以前に一度、試飲会に呼ばれた折に酒の好みを軽口に乗せた覚えがある。あれを健気にアリスは覚えていたのか、そういえば今日の店の選定もこいつによって為されたものだと思い出す。大方、近所の商店街で酒屋の親父を質問攻めにするか、それともあのふざけた頭(二つの意味で、だ)の担当編集とやらに足労させるかしてこれを入手したのだろう。他人から贈られるものにさして興味は無かったが、少々くらい評価してやっても罰は当たるまい。
 リボンを引き包装紙を取る。見えたラベル――黄ばみ、端々が欠け、流麗な字体が擦れた、一見してヴィンテージワインであると分かるそれに、不覚にも一瞬反応を忘れた。



「白よか赤がお好きでしたよね、さっきはシャンパンで我慢させてしまいましたけれど」
「……Romanee Saint-Vivant Les Quatre Journaux Louis Latour ――、この年号は、」



 刻まれた四桁の数字は、今より44年前を指す。この年のブルゴーニュは典型的な当たり年であり、この一本はその中でも最高峰の出来と呼ばれたうちの一つだ。大した造詣のある訳でもない俺にも大体の価格の概算は付く。しがない大学教授でしかない身分ではそう易々と手が出ない逸品だ、況や寡作の専業推理作家嬢に於いてをや。

「売れない作家が、何カッコ付けてやがる」
「強いて言うならそうですね、……44歳を、感じてみたかったんです」

 アリスは唐突に訳の分からないことを言う。もう慣れたと思っていたが、そうでもなかったらしい。何がしたいのだか、一歩此方に進んできて、また口を開く。見上げて来る顔にはやはり少しの含みも無い様に思えた。
 
「たいへんでした。44年って、やっぱり、価値のある重みですね。歳を増すほど。……でも、あたしにも、いつお金を使うべきかは、分かっているつもりですから」
「……、」



「ご自分でも、確かめてみてください。あなたが生きて来た年月の重さ、きっと素晴らしい味になって現れている筈ですから」



 だって高かったですもん、との一言が無ければ、この苛立ちに似た感情を誤魔化すことは出来なかっただろう。
 懸命になればなるほど思ったことを出さずにおれないアリスはまだ、若い。認め難いが、多少はそれに助けられている部分があるのかも知れない。礼のひとつも言うべき処なのだろうに、こいつが俺に呆れる隙を・逃げ道を与えるから、いつになってもアリスは俺をおびやかすことなどないのだろうと安堵してしまう。

 必死になるべきはいつでもこいつの方で、俺はそれに適当なリアクションを返すだけでいい。俺はそれを心底から面倒だと感じていればいい。この歳にもなって、余計な感情だの思考だのが何の飯の種になるというのか。だから、解かなくていい。気付かなくていい。悟らなくていい。金銭に拠らない、恐らくはこのボトル一本に辿り着くまでのアリスの苦労だの何だのを考える必要もない。邪気のない瞳に、他意のない愚直なまでの純粋な好意に、此方側が抱えるこの感情の正体を知ってしまえば、もう後戻りは出来ない。俺としたことが、たかが生を持ったことを祝われたというだけで、ただ気が堰いているだけだ。だから、これも単なる気紛れでしかない。

「アリス」

 用件を終えて辞すつもりか、斜めがけのポシェットを探る仕草にも無防備さが見てとれる。到底、ひとりの女としてある種の欲求を掻き立てるような天性の何かがある訳ではない。だが、気紛れを起こすには何の理由も要らなかった。



「これ、付き合え」
「へ?」
「お前も、呑んで行かねェか」



 俺に気紛れを起こさせたお前が悪い。気紛れというにはあまりにも雑然とした過程から導き出されたものだが、別の呼び方をするのは億劫だった。俺の呼びかけにアリスが是の返事を返すのは当然。即ち、今より後の流れも俺の意に沿うことは至極自然なことだった。酒の流れの所為にしても、偶然の所為にしても、アリスは俺に従うのが自然なのだから、そう変わるまい。それが万が一、名付け難い感情に拠るものであったとしてもまた然り。
 気付かせた、悩ませたことへの責任を取るには、ヴィンテージワインの一本では足りない。その存在を以て、感情の正体を知らしめるべきだ。



「……だめですよ」



 柔らかくも確固とした拒絶。此方が踏み出してやった瞬間に、これか。
 一歩ぶん縮まっていた距離を退いて離して、アリスは紙袋の中のボトルを真直ぐに指して「あたしがその場にいたら、サー、また文句ばっかり仰るでしょう。今日はおひとりでゆっくり味わわれて、あたしのこと見直してやってくださいよ」と、かくも事も無げに宣った。二度目をしつこく引き止められる程には此方の動機も定まっていなかった。

「成程、無駄遣いを咎められる前に逃げようという寸法か」
「ちがいます!無駄遣いじゃないですし! ……本懐は遂げましたから、あたしは帰ります」
「精々迷子にならねェ様にな」

 恐らく何処かに宿を取っているのだろう、此方からすれば一層清々しいほどに未練のない足取りでアリスは目の前から失せた。不快でない程度に霞ませた花の香りだけが残っている。



「畜生、――祝いに来たって言うなら、大人しく寄越しやがれ」


 * * * 



 独りの部屋で喉を湿らせた滴は確かに品の良い味がした。が、先刻おめおめと取り逃がした甘露は更に己を満たしただろう、とついに臆面もなく考え出してしまった身にとっては些か分不相応ではあったかも知れない。
 もともと俺に所有されるべきを、放埓に逃げ回るあいつが間違っているのだ。俺の言葉に是以外の返答など二度と考え付かせぬよう、こうなれば此方が動いてやるほかないのだろう。

 年月は重いと、時間は貴重だと言ったな。
 お前とてこの四年間、何も思わず俺の隣に居た訳ではないだろうから。
 お前にとっても、この関係に名前が付くのなら好都合なんじゃないか、アリス?


・ワインレッドの欲望


//20100905(0905 Happy birthday to Sir Crocodile!)
 ――20160905 Rewrite


 俺のものにする? 違う。 俺のものだという事を、分からせるだけだ。



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