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端から候補にもあがらない


 気だるげな所作でシャンパンのグラスを目の高さまで持ち上げた彼に倣う。基本的に彼が闊達としていることなどないので、至極通常操業と言えるだろう。しかし憎らしいほどにその、乾杯を促す仕草は堂に入っている。

「アリス・ブルー=シャルトリュゼ嬢の最新の後悔に、」

 そこで言葉を切り、不敵に唇の端を吊り上げてみせた。私も負けじと、背筋を伸ばしたのち彼に言い返す。

「老境にまた一歩近付かれた親愛なる探偵殿に、」

 私の笑みは彼のそれほど悪さを含めることは出来ていないだろう。彼とちがって根が善良なのだから仕方がない。
 グラスが軽く触れ合って、半透明の液体が零れんばかりに揺れた。私たちの乾杯はいつもこのように、皮肉の応酬という形をとる。

 いったい何に対しての乾杯であるかというと、ひとつは推理作家である私、アリス・ブルー=シャルトリュゼの新刊発売のため。そしてもうひとつは、目の前の友人――というには多少心的距離がありすぎる気のしないでもない犯罪社会学者、クロコダイルの生誕四十幾年目かを私が一方的に祝いたいと所望してのことである。洋酒を好む彼のために一か月前からこの席を予約し、恐らく感謝などされないと分かっていての見返りを求めぬ精神で以て今日を迎えた。明日は平日であり、恐らく今日はここで普通にお開きとなるだろう。私が彼の同性の友人であったなら、このまま私の家に引っ張り込んで朝までぐだぐだと呑み続けたりもするのかも知れないけれど。教育そのものにはさしたる関心のないこちらの私大教授氏も、休講の申請とそれに伴う補講の実施を思えば少々面倒臭くともきちんと明日の講義は時間割通り行うのだろうし。

「見つけたか?」
「ええ、ご指摘の通りでした。どうしてゲラ刷りの段階で見つけられなかったんだろ」
「呑みながらやってたからだろ、情けねェ」

 文字通り「最新の後悔」――つまるところ、新刊として本日書店に並べられたばかりの拙著から早くも発見された誤記について改めて指摘され、此方としては返す言葉も見つからない。事件の真相に迫るために必要な考察にも深く関わってくるのに、「土曜日」と書かなければならないところを「水曜日」とタイプしていたというのだ。言い逃れしようの無い完全なミスだった。隣ページに差し込む地図を描いたことですっかり一仕事終えた気になっていた私は、達成感と共にこのあたりの校閲を怠ってしまっていたのだろう。
 
「猛省します。……それにしても、よくあの早さでご報告頂けましたね」
「そんだけ莫迦みてェな誤字だったんだよ」
「でも、だって、あの箇所自体けっこう後のほうにあったじゃないですかっ」
「――これ、同じのを」

 私の必死な追求は彼の、ボーイにシャンパンの追加を言い付ける台詞にて遮られてしまう。私はまだ乾杯の一口を残しているのに、早々と一本開けてしまったというのか。
 誤記の報告はこの会合の待ち合わせの数時間前、午後早くにPCメールによってもたらされた。送信主は気心知れたクロコダイル先生。「331ページ12行目がおかしい。お前の処の編集者はよっぽど鳥目なんだな」というシンプルかつなんとも此方の心を折ってくる彼らしい文面にて告げられていた箇所を献本用の一冊で確認し悲鳴を挙げたことは記憶に新しい。夜分から軽くアルコールを交えながら雑談込みで原稿チェックを行っていたことをいつだったか話したことがあったから、それも合わせて咎められた気になる。しかし、私の担当編集は実に有能なかたであり、今回の誤記に関して彼が責められる謂れは一切ない。そこは否定しておく。

「ちゃんと献本も用意してたのに、買ってくださったんですね」
「生協の書店に行ったついでに、目に付いただけだ」

 嘘だ。きょう彼が担当している授業は4限のゼミのみであり、常であれば正午を回ってから起き出して悠々とキャンパス入りする筈である。同大学の卒業生である私の本が生協書店に並ぶことは前々から分かっていたのだから、自惚れだと言われようが、本日彼が私の新刊を買うためにわざわざ早めに大学へ足を向けたことはほぼ確実であろう。

「サーのお誕生日祝いだというのに、あたしのほうが嬉しくなっちゃってどうしましょう」
「あ? 何を勝手に勘違いしてやがるんだ」
「もう勘違いでも構いませんよ。まったく、持つべきものはよき――」少し考えて、「……友人、ですね?」

 私は当年取って26歳、彼はもう二時間もすれば44歳となる。私が彼の「助手」として深く関わりを持つようになって四年経つが、私は未だ、彼との関係を一言で表すうまい表現を見つけられずにいた。パートナー、というには微妙な躊躇いのようなものを感じるし、上司と部下という確固とした境はない。一層私が彼と同じく男性であったならば、もっと気軽に友人という呼称を使っただろうけれど。異性の間柄というものはこうも形容するのが難しいものだったとは。残念ながら、私は今まで自分と彼のような関係について小説で取り上げたことがなかった。そういえば、先ほど軽く話題にのぼった担当編集氏についても同じだった。彼の場合は隣人と言ってもいいし、それなりに実生活でも付き合いがあるぶんもっと軽く友人と呼べるのかも知れない。まあ、それは今はいいか。

「やっぱりお引っ越しするとなかなか此方には来られなくなっちゃって寂しいです。こんなお洒落なお店、あたしが大学に来てたころにはなかったのに」
「売れない作家が、勇み足で仕事場なんざ持ちたがるから」
「い、いまの環境には満足してます! ……いいんです、サーが此方にいらっしゃるから、あたし頑張って通ってますし」

 一瞬、グラスに這っていた彼の指が固まったように見えたのは気のせいだったか。気のせいだったかも知れない。何かしら変わったレスポンスがあるのではないかと期待したが、次に返された言葉は「それなら、次からは化粧もサボらず整えて来るようにしとけ」だった。畜生、ほっとけ。

 下手をすれば父娘とも思しきほどに大きい歳の差ではあれど、私は決して彼に庇護されているつもりはなかった。あくまで私と彼とは独立した一個人同士であり、やはり、この関係を形容するのであれば、友人、というのが妥当であるのかも知れない。チェックミスも誤記もない、筈だった。
 そういえば昨年の今日も同じようなことを考えていたような気がして、少々気恥ずかしくなった。何を考えているのだか、と頭を振って、目の前の瀟洒な料理群に舌鼓を打とうと私は漸くナイフとナイフを手に取った。……ナイフとナイフ?

「阿呆みてェなツラ晒して、何考えてやがった」
「だ……だからって、こんな子どもみたいな悪戯するひとでしたっけ?!」
「気付かないお前が悪ィんだろ」

 呆れたような物言いにも少々の笑みの成分が感じ取れ、私は何とはなしに嬉しくなった。時折、本当に時折、こうして彼は此方のレベルにまで意識を下ろしてくれることがあった。決まって、犯罪捜査だの推理小説だのという我々にとっての「日常」であるライフワークから遮断された、このようなときに。もっとこのような彼に触れられたらいいのに、という願望に近い感情は、きっと彼個人への純粋な興味ないし好奇心ゆえのもの。しかし、一層近づきたいという思いに偽りはないから、私はきっと来年も、その次の年も、彼が望むと望まずと、誕生日を祝う席を設け続けるだろう。彼のためでなく、私のためにも。


・端から候補にもあがらない


//20100904(0905 Happy birthday to Sir Crocodile!)
 ――20160905 Rewrite


 これは恋にはならない、と、思うのだけれど。


パロディ元:「ダリの繭」


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