text(op) | ナノ




思わず息が止まるほど



 助手としてついてきている以上は貢献したい、とアリスは言うが、此方としては奴が率先して転んでくれているだけでも十分なメリットを感じている。だからその度に「いいからお前はじっとしてろ」と言い聞かせているのだ。
 何もしなくていいから、余計なことだけはしてくれるな、と。


 * * * 



 12月の、25日。
 今年も暮れるというのに人間の業というものはかくも深いものなのか、捜査現場は呆れる程に常の様相を呈していた。クリスマスパーティーになど興じる趣味はないが、豪奢に飾り付けをされたツリーの下で皆一様に顔を伏せている関係者の姿はあまりにもミスマッチで、それだけが特異点だった。
 とある山荘で主人が撲殺されたらしい、状況が少々特殊なので来て貰えないかという連絡を警察から受けたのは昨日の夜の事。締め切り明けで惰眠を貪っていたらしい売れない推理作家を電話で叩き起こし、現場への行き掛けに車に積み込んで今朝方には屋敷の扉を叩いていた。「ねむいです、あたしこんなんじゃろくにおやくにたてそうにないです、」と後ろでガタガタ抜かす助手を無視して捜査の進捗を聞く。起きてたって大して変わりゃしねェ癖に「それにあたしきょうは担当さんとおひるごはんのやくそくが」とか要らんことまで宣いやがって。あんな鳥野郎は捨て置いておけばいい。

 広いには広いが個人所有の邸宅には当然ながら見取り図などという親切なものは存在せず、どうやら全体を見渡すには少々高い所へ上る用が要るらしい。――屋根か。

「……れ、サー、どちらへ行かれるので?」

 両掌で頻りに目を擦っていたアリスが、いつの間に取り出していたのか開かれていたメモ帳を閉じて此方を向く。大方また特に必要でもないメモを取って、のちのち的外れな推理を述べ立てて来るのだろう。それでも、こちらは行き止まりだ、と知らせてくれる役目を果たしているといえば聞こえはいいが。
 屋根に昇る、と伝えれば予想通り目を丸くした。隣で同じような表情をしていた年若い捜査員が「煙突なら、今朝捜査を終えていますが」と淀みなく応えてくる。全景を見たいだけだ、と返すとそれ以上は何も言ってこなかった。

「着いて来なくていい」
「なんでですか! あたしもう眠くないです!」
「誰がンな心配するか。いいからお前は中で待ってろ」
「……こんなとこまでつれてきたくせに。むりやり車につんだくせに」

 勝手にしろ。暖炉で温められた居間から一歩出た瞬間にこの世の終わりみたいな顔しやがって。


 * * * 



 破風窓から四つん這いになって屋根の上に出たアリスは、開口一番「寒い! 寒いです!」と泣き出さんばかりになっていた。煩い。だから待っていろと言ってやったのに。こんなにそそらない四つん這いも珍しい。……人死にの現場でこんな腑抜けたことを考える俺もどこぞの鳥野郎を笑えないのかも知れない。
 もたもたと立ち上がりながら先刻の捜査員とまだ何やら話しているらしいアリスを背後に、早いところ終わらせてしまおうと煙突のほうまで雪を踏み進む。「置いてかれました!」という嘆声も聞かない振りだ。日頃そこまで喧しい女でもないはずなのに今日に限ってこのようなのは、やはり数時間と眠っていないからではないか? 責任の所在に関しては黙秘で通すことにするが。
 既に捜査がなされていたという話の通り、二つある煙突にはどちらも変わった点はないようだった。人が通れる広さでもない。一先ずこの館と周りの全体を見渡せただけでも収穫だったか。戻ろうと振り返りかけた時だった。

「あ! ねぇ、サー、あれってなんですかね――ひぇ!」

 それはあまりに間抜けすぎる悲鳴だった。だからその瞬間は、大方尻餅でも付いたのだろうと悠長な目で一瞥してやろうと思ったのだ。
 
 不覚にも、息が詰まった。

 足を滑らせたアリスが仰向けに倒れる。急勾配なうえに雪の積もった屋根の上で。視界一面を空にしたまま、焦げ茶色のダッフルコートが視界から消えていく。ずず、と雪が剥げ落ちて行く音が聞こえるようだった。

「莫迦野郎!」

 道連れにされては堪らないので此方も出来る限り上体を屈めて右手を差し出す。土壇場の運動神経はかなり俊敏に働いているらしく、アリスも身体を捻りながら此方に右腕を伸ばしてきた。スピードと裏腹に力無いそれを握る。奴は尚も自分の腕の長さのぶんだけ滑り落ち、自分の身体と同じぶんだけの雪を地面へ落下させたのと引き換えに、踵が空中に出たところでなんとか制止した。咄嗟のことだったとはいえ、常にない動作をしたため俺の動悸も速い。遅れて捜査員が駆けつけ、二人がかりで雪まみれの莫迦を死の淵から救出した。

「てめえは俺の仕事を増やしに来たのか、アリス」
「だって、」
「だっても糞もあるか! ……怪我は」
「ないです」

 ったく、やってらんねェよ。
 一向に落ち着く気配のない動悸を鎮めようと胸に手を当てるが、腹立たしいことに一寸前の間抜けな悲鳴が、雪に埋もれてゆくダッフルコートが、意識にチラ付いて離れない。

「びっくりさせて、ごめんなさい」
「……反省だけなら猿でも出来るぜ、アリス」

 雪をひと掬いして頭から掛けてやる。もともと雪まみれなのだからさしたるダメージもなかろうが、律儀にアリスは顔を顰めた。そして騒動に陥る前に言いかけたこと――庭に何か転がっているらしい、という発見報告を反省程度に漏らした。事件解決に繋がる重要な物証である可能性は十分にあったが、何故か最初に浮かんだ一言は「その程度で慌ててるからこうなるんだ」だった。
 アリスなりに、手柄を挙げようと思ったのかもしれない。あまつさえ今日は多少コンディションが良くなかった上にロケーションも常にない場所であったから、調子を狂わせてこのようなことになるのは目に見えていた。

 聴取の内容くらい俺一人で臨もうが記憶に問題はないのに、わざわざ傍らで懸命にメモを取るアリス。詰めの甘い推論を繰り広げたのち、俺に一蹴されて途方に暮れた顔をするアリス。下手な鉄砲も何とやらで放たれた拙い推理からたまに俺がヒントを得て事件の解決に漕ぎ付けた時、常の倍ほどにも嬉しそうな表情をするアリス。ついてくるか、と連絡をすれば必ず是の返事を返すアリス。
 「あたしが助手をさせて貰ってる、探偵さんで大学の先生なんですよ」、と担当編集とやらに誇らしげに俺を示した数ヶ月前のアリス。著作が大きい賞を受けた際に、「探偵にはモデルがいます、とても近しい人物です」と微笑んでいた二年前のアリス。光の差し込む講義室で、授業をBGMのようにして執筆に打ち込んでいた、書くことを至上の喜びとしているかのような表情の、四年前のアリス。



 失うことなんて、想定だにしていなかった。



「アリス」



 くるくると身体じゅうの雪を落としている最中だったらしい奴は、嫌になるほどにいつものアリスだった。お前がそんな風だから、何の弾みだとしても居なくなったりすることは無いのだろうと、勘違いしてしまうのに。破風窓を指す手が、指が、震えてはいなかっただろうか。
 当分助手はいい子にしてますよー、という言葉も信用ならなかった。歩み寄ってこようとする足取りさえ今は怖い。右手で制し、命じてやる。



「お前は、じっとしていろ」



 余計なことなどしないで、ただ俺の指示だけを聞いて黙ってそこにいればいい。
 何処にも行かずに、そこにいればいい。


・思わず息が止まるほど


//20100826(20160905 Rewrite!)


 結局今回の件は俺が悪いのだろうが、猿でも出来る筈のことが何故か俺には出来ない。


パロディ元:「46番目の密室」


[ 26/56 ]

[back]