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隣人は密かに



 一生を懸けても俺のものにする。そう決めた。


 * * * 


「……分かりにくいな、こりゃ」
「そうですか。やっぱり活字に出来ることって限りがありますよね」

 ゲラ刷りを置いてテーブルの隅を二、三度叩くと空虚な音がした。空虚ついでに空になっているアリスのグラスにビールを注いでやる。ピッチが速い。少々酔ったところで自宅が徒歩数秒の隣室である、という事実が彼女に躊躇い無くアルコールを摂取させているのだろう。テーブルひとつ挟んで向かい合っているこの男は、あわよくば(もう弾みだろうと何だろうと構わない、とさえ最近では考えている)その油断を打ち砕いて結ばれてしまいたいと考えているというのに。
 此方の煩悶など知るよしもなくアリスは、両手でグラスを持って唇を湿らせている。日中どこかへ散策にでも出ていたのだろう、白いサマードレスが眩しかった。

「飯は食って来たって言ってたな。つまみは要らねぇかい?」
「いあ、大丈夫ですよ。ごめんなさい、気ぃ遣わせてしまって」
「構わねぇよい」

 此方としては、俺の部屋で打ち合わせをしようという誘いに快く応じて貰えただけで嬉しくて堪らないのだ、とは勿論言わないが。2LDKの隅々まで、いつアリスが訪れてくれてもいいように整頓している。寝室なんざ一番彼女にとっては用の無いであろう場所だろうが、来訪の数時間前にはきちんとベッドメイクを整えた。いい歳して何やってんだと罵ってくれて構わない。近年の俺はまさしくアリス莫迦だ。
 テーブルに置かれた原稿を不精してそのまま覗きこもうと、アリスが座った体勢から上体を前のめりにしている。この角度でも僥倖が起こらないほどにフラットらしい胸元から意識を逸らして、自分のぶんのグラスに口を付けた。この程度で簡単に理性をフラつかせるほどに青い訳ではなく、年相応の経験はあるつもりだ。つもり、なだけかも知れないが。

「アリスが言ってたように、地図入れたほうがいいだろうな。と言っても地形図なんか入れると大袈裟すぎるが」
「んー」
「普通の地図がいい。できたら経費削減のために、お前の自筆のを」
「あたしが? やだなあ、自分の家からポストまでの地図だって苦戦する自信がありますよ」
「甘い。駅付近の地形がキーなんだろい? そんなら自筆がベストだ」
「……しごとがふえました」

 身を倒した姿勢からアリスが恨めしげな目で見上げてくる。違う意味で堪えるから勘弁して頂きたいところだ。俺にできることなら手伝うから、と常のようにフォローして宥める。

 アリスと出会ったのは四年前。自社で行った公募の佳作を改稿して出版する、という話が持ち上がったのがきっかけだった。当時は大学の四回生、二十二歳であったアリスは――失礼だが、とても年相応には見えなかった。付き添いの妹あたりだと判断して「お姉さんは?」と尋ねてしまった俺に、思い切り情けない表情を見せてくれたのがファースト・コンタクト。下手をすれば今でも学生で通るかも知れない幼い見てくれと、それにそぐわない妙な落ちつきを兼ね備えているアリスは、当時からともかく掴みどころがなかった。しかし、時折見せる大人びた表情に、世間ずれしていない純朴さに、それでいて腹立たしい稚気のない身のこなしに、気付けば歳甲斐もなく惹かれていたことは紛れもない事実だ。半月ペースで顔を合わせ、改稿を重ね出版まで漕ぎつけた半年間で、当時を以て三十三・当年取って三十七の俺は、一回りも若いアリスに完全におちてしまっていたのである。
 この部屋――アリスの暮らすマンションの・アリスの部屋の隣、に引っ越してきたのは一年前。「偶然ですね、どうして教えてくださらなかったんですか」とひとつの疑いもない驚きを見せてくれた彼女に、俺も知らなかったんだ、と苦しい言い訳をしたことは記憶に新しい。四六時中壁に張り付いて云々、などとするほどには俺も暇ではないが、例えば洗濯物の世話をするアリスがベランダでしばしば零している鼻歌を拾えたり、大方鍋でもひっくり返したのだろう一際大きい物音が聞こえたりと、確かに壁一つ挟んで想い人が暮らしているのだと実感できるのは幸せ以外の何物でもなかった。

「あたし、エッセイも書かなきゃいけないのに」
「エッセイ? ……あー、なんたらってファッション雑誌の。んなの適当にこなしときゃいいだろうが」
「商売敵だからってそんな言い方して! 確かに、若い男の子向けの雑誌ではありますけど」

 違う。たとえ対抗する出版社の看板雑誌であろうと、アリスが純粋に本格推理作家として招致されたうえでのエッセイであるなら「適当に」などとは言わない。引っかかっているのは先刻のアリスの台詞の後半。つまりこれは完璧に俺のエゴだ。いち作家を紹介するのに何枚もポートレートを撮る必要が何処にあるというのか。アリス・ブルー=シャルトリュゼという年若い女流作家を、そのヴィジュアルと共に売り出そうという魂胆なのは目に見えていた。惚れた欲目を抜きにすればさして人目を惹く容姿ではないにしろ、アリスはとにかく人好きのする存在であるから。
 人となりもよく知らないような連中が、媚びが見え透くような写真の一枚や二枚ぽっちでアリスを知ったような気になるのは歯痒かった。これはひとえに「作品を読め」と言いたいだけのことなのであって、アリスの存在が広くに知れ渡って今以上に彼女のファンが増えることを私的な理由で危惧しているからとか、そのような理由ではない。断じて、ない。

「テーマは?」
「自由です。もっと有名な女性の作家さんなら、こういうとき過去の恋愛話でもしてぱっと華やかなもの書くんでしょうけど」
「確かに、な。アリスにもそういう話があったりすんのかい?」
「……ぶっ飛ばしますよ、四年いっしょにいてわかんないですか、あたしに男性の影があったことなどただの一度もありませんよ」
「悪ぃ、そうだったな」

 嘘吐け。四年いっしょにいて、わからないわけはない。
 非喫煙者である筈のアリスの部屋に薄らと煙草の匂いが漂う日が出来たのはいつからだっただろう。大学時代からの知己だという、その癖アリスとよりも寧ろ俺とのほうが歳の近い、一週間と上げず隣の部屋へ訪ねてくる男の存在を、俺はよく知らないうちからひどく憎んでいた。アリスのような若い女などがやれば可愛いものだろう嫉妬も、オッサンがやれば鬱陶しいだけだ。そう自覚したところで燻りが落ち着くはずもなく、かといってそいつとの関係性をアリスに問い質す権利を俺が有しているかといえばそんな訳もなく、そうした葛藤を抱えながら今日も知らない振りを装うしかなかった。
 
「あ! ねえマルコさん、テレビつけてもいいですか」

 壁に掛かっている時計が視界に映ってか、アリスが声を上げた。リモコンを渡してやるとしばらく赤外線と格闘したのちに(「つ……つかない、接続わるいんじゃないですかこのテレビ」)画面を明転させる。大型の液晶に最初に大写しにされたのは他愛のないニュース。ここからそう遠くない地域の話ではあったが、単に身内の諍いの結果のように報じられている殺人事件は、特にセンセーショナルなものでもないようだった。恐らくアリスが見たいものもニュースではなかったのだろう、当初は。
 本来の目当てだったと思われるスポーツ中継に一旦画面が切り替わり――再びニュースに戻ってくる。どうかしたのか、という問いは呆けたように口の開いたアリスには届いていないようで、その報道が終わるまで微妙な沈黙は続いた。
 
「こんな公表になるんですね……。やっぱり、…まあでも、そうですよねえ」
「アリス?」
「わ、あ、……えへへ、なんでもないです」

 高校野球を観ます!と意気込んで画面を切り替えたアリスは既に普段通りの呑気なアリスだった。俺が二十代のガキだったなら、ここでテーブルをうっちゃってでもその華奢な両肩を掴んで色々と聞き出したりもしただろうが(そして今だってそうしたい思いはあるが)、年相応、の自戒がそれをさせない。
 まあ、いい。もう何度唱えたか知らない慰めと開き直りのあいのこのような言葉を言い聞かせる。アリスが何を抱えていようと、俺の知らない誰かと共に過ごす時間があろうと、今こうして彼女を傍に置けているのは事実だ。ここから、手に入れて行けばいい。もともと男女という垣根が存在するのか危ういほどに純朴で優しいアリスのことだ、じっくり外堀を埋めていけばいずれ必ずおちる。
 一生を懸けても俺のものにする。今は頼れる大人ポジションに、甘んじておくとしても。


・隣人は密かに


//20100825(20160904 Rewrite!)


 まさかこの一ヶ月後に、「助手が世話になってるようで」などとご本人から挨拶を賜る羽目になろうとは思いもしなかった。


パロディ元:「マジックミラー」


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