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犯罪学者と私



 その日のことは、今でもよく覚えている。
 

 * * * 


 よく晴れた春先の、午後いちばんの講義。おおかた単位も取り終え、せめても授業料を無駄にすまいという体で何の気なく取った低学年向けの一般教養の授業は、教壇で熱弁を振るう教官には申し訳ないけれど然程興味を惹くものではなかった。
 申し訳程度に立てかけた教官推薦の分厚い教科書をバリケード代わりに、私は内職用にと持ち込んでいた原稿用紙を机上に広げた。書きかけの面を取り出して、既に文字で埋まっているぶんは相席がいないため隣へ適当に分け早速「執筆」に取りかかる。他事に集中していようが学期終わりにそれなりのレポートを提出できるだけのノートテイクのセンスは持ち合わせていた。
 私の名前はアリス・ブルー=シャルトリュゼ。法学部の四回生で、大学院試験を控えた身である。将来は著述業――もっと詳しく言えば推理作家を志しており、法学部に入ったのも何かネタが拾えるのではないかという魂胆による部分が大きい。高校二年生の冬から執筆・応募を続けてはいるが、まあ、応募を続けているということは落ち続けているということなのだから首尾のほうは推して知るべし、というところか。
 数ヶ月後にはまた公募にて撃沈する予定である拙い拙い――それでも私の一生懸命ではあるが――推理小説を、集団心理学云々との教説をBGMにかたちづくっていく。無音よりは適度な生活音が傍らにあるほうが作業が捗る性質なもので、一枚書いたのを皮切りに筆は順調に進んでいた。もしかしたら今回は良い線いけるのでは? 否、誰しもものを書いている最中にはそのような感覚に浸るものなのだ。



「……ふぅん、」



 先刻までは誰もいなかったはずの右隣から、低く唸るような声がしたのも、すっかり背景と同じものと捉えてしまっていたのだ。予期せぬ闖入者が、いつの間に取り上げたのか私の書きあげたばかりの一枚に目を通し、分けてあった山にそれを元通り戻す、その音で漸く私は自分の書いたものが第三者に見られていることに気付いた。
 ばっと頭だけ隣に向けるが、彼は私の手元に目を落とし、書きかけの文章をなぞっているようだった。端正ながら眼光厳しい横顔は、どう贔屓目に見ても学生には見えない(社会人学生、のイメージとすら大幅にかけ離れている)。私は彼を知っていた。社会学部・犯罪社会学科の准教授で、厳しくも意義深い指導で彼――クロコダイルのゼミはかなり人気が高いのだと聞く。私も一回生の頃に般教の講義を取ったことがあったが、……目下学年首席の座を賜っている私が、単位認定の中でも最下位であるD評価なんぞを喰らったのは、後にも先にもあの時だけである。
 何故彼がこの教室で、いま、私の拙文をご覧になっているのか。気になれど易々と声を掛けられる訳もなくシャープペンを握る手を浮かせたままにしていると、最後の一文字まで辿り終えたのか彼が顔を上げ、そこでやっと目が合った。威圧感こそ隠されていないものの、私が授業中に内職をはたらいていたことを咎めるような表情ではなかった。私は彼のことを知っているが、まさか彼が私のことを知っている訳はあるまい、それでも准教授は僅かに目を細めたのち、「法学部、首席、アリス・ブルー=シャルトリュゼ」と機械的に暗踊してみせた。



「その続きは、どうなるんだ」



 あまりに意外過ぎる問いに、私は暫く自分がそれに答える役だということを失念していた。聞いてるのか、と再度促されてはっとなる。



「あっと驚くような展開が、待ち受けてるんです」



 もっと言いようがあるだろうに、自分でもあまり頭がうまく回っていないことを自覚しつつなんとかそれだけ口にした。莫迦らしいと思われただろうか、とすぐさま不安になったが、次に彼の口からもたらされたのは、「気になるな」というこれまた想定外極まりない感想であった。思わず軽く腰を浮かせる。



「――ほ、本当ですか?!」
「静かにしねェか、講義中だ」



 思わずいきり立ってしまったとて文句は言えまい。諌められてから自分が常にない慌て方をしていたことに気付くも、階段教室の最後部であるここは教官からも無関心であるようで、恥さらしは免れた。上気した頬を冷まそうと、ペンを握っていないほうの手で触れていると、机上に散らばしていたボールペンを取って准教授が私の手元に何事か書きつけていた。英語で一語。

 

"Absolutely."



 何があぶそるーとりーですか、と顔をしかめた私を誰が責められようか。
 しかし、まあ、メッセージの内容を汲んでよしとしよう。原稿用紙のまだ何も書かれていない部分――ちなみに書きかけだった一枚だ! 畜生また書き直さなければ!――に綴られたそのひとことは、彼が私の拙作をどういう形であれ評価してくれたことを示していた。

 授業が終わったのち、小説の礼にと教官室にてコーヒーを御馳走になった。ブラックとはいえ妙に苦かった覚えがあるのは、それだけ私が緊張していたということなのだろう。
 ともかく、それが私と彼とのファースト・コンタクトとなった。

 * * * 


「アリスか」
「……今、締め切り明けで死んじゃいそうなくらい眠たいんですが」
「こっちはもう死んでる奴の相手をしなきゃなんねェんだ。……二時間で来い」
「あたしなんて居ても居なくてもそんな変わんないじゃないですかあ」

 言いながら、すでに通話は子機に切り替えてクローゼットの前に立っている。

「それはお前が決めることじゃねェよ」
「あ、なんか今ちょっと嬉しかったです」

 呆れられたらしく以降の会話は続かず、「――遅れたら次から呼ばん」と一言あって、通話はそれきりだった。不快にしたというわけではなかろうから気にせず、手早く身支度を済ませて、軽い旅支度を作れば出発の準備は完了だ。



「それでは、僭越ながらこの助手、精一杯お相伴させて頂きましょう!」



 私の名前はアリス・ブルー=シャルトリュゼ。からくも一般サラリーマン程度の年収を維持する専業推理作家であり、犯罪学者でありながら私立探偵めいた犯罪捜査にも一役買っている恐らく世界に類を見ないであろうとある大学教授の、助手である。


・犯罪学者と私


//20100823(20160903 Rewrite!)


 取り敢えず今のところは、使えないと切り捨てられてはいないはずです。


パロディ元:「46番目の密室」


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