text(op) | ナノ




↑Another side(1st division commander)


*非常にぬるいですが性的なニュアンスをほのめかす描写があります


















 二十年越しの大懸想は脆くもすげなく流されて、船尾甲板に打ち上げられたように力なく居ながら、俺は只管何らか考え続けているようできっとその実何も考えてはいなかった。今更誰が小難しいことなど考えようか、幾ら煩悶したところであいつ――アリスが俺の言葉を、思惟を受け入れようとしなかったことに変わりはないのだから。
 日頃は容易く捕らえることなどまず出来なかった、アリスの薄い肩。柔らかな感触に未だ甘やかな幻想(否、妄想……か)を捨てきれずにいる俺は、一応恋に敗れた現場であるこの場において尚、熱い劣情を冷ますつもりは無かった。今更だ。そう、この程度で諦められるような想いであるならとうの昔に吹っ切れていて可笑しくないというのだ。

 簡単に逃げられると、思うな。

 * * * 


 アリスはいつも背景のような女であった。否、自ら背景であろうと努めているような節のある女であった、という形容が正しいだろうか。それは決して無個性であるという意味ではなく、寧ろその逆といっていい程の美点を備え”過ぎて”いるがゆえのことであった。
 常に如才ない微笑みを浮かべ、戦闘時は誰の支えを受けることもなく如何なる相手とも渡り合い(オヤジを前にしてですらそうだったのだから)、知らないことなどないのではないかという程に多くを知り、且つ怒り・悲しみなどという負の感情を周囲に対して発現することが全くと言っていいほど無い。しかしながら幾百年という俺からすれば気の遠くなるような時間を生きる傍らアリスは一切男を知らず、一種一人の種族・花巫女――その名の通り、生娘であることが前提である生だ――たり得ている。
並みの海賊共よりずっと強く、それでいて普通の少女より遙かに無垢。おおよそ人間離れした女、それがアリスだった。

 予定外に立ち寄った島での”決闘”から何の因果かオヤジと意気投合したアリスがモビーに来航するようになった当初は、その事情の胡散臭さもありどうにも歩み寄る気が起きずにいた。二十年も前になるだろうか。未だ若造で海の多くも知らなかった俺は、オヤジがそんな些細な勝ち負けを気にするような男でない事を分かっていながらそれ――当時の俺から見たって小娘にしか見えなかったアリスが、オヤジを負かしたという事実を認められずにいたのだ。
 海図以外には碌に文字も追う事をしていなかった俺たちに、読み書きの教育を徹底したのはアリスだった。今思えばこのような大所帯になることを当時予見でもしていたかのように、その時から船に乗っていた俺やジョズに現在の所謂「書類仕事」とでも言われるような作業を叩き込んだのも同じく。『砲弾とか薬品の管理、――将来的に、縄張りのようなものができたらその地の管理なんかもこうして纏めておくと便利なんですよ』と新品の羽根ペンを開封しながら口にしていたアリスの科白を今でも覚えている(当時は『ンな役人みてェな仕事出来ンだったら誰も海賊なんかやってるもんかい』などと知らぬ口を利いていたものだが、その仕事がいかに重要であるか現在身を以て感じる日々である)。「あの日」オヤジを負かした事は決して運などでは無かったという証拠に、血気盛んだった若き日の俺は日に幾度もアリスに手合わせを挑んでは手ひどく返り討ちにされていたものだった。『今のマルコさんに及ばれてしまう程、あたし鈍ってないですよ』という快い微笑混じりの言葉にまたカッとなって再戦を挑み振り出しに、などと性懲りも無くやっていた。――そもそも俺の意地から来ていた逆恨みが、徐々に時を経て形を変えた想いになっていく。自覚をし始めたのは、その辺りからだっただろう。

 アリスが来航し始めて数年、俺が二十代も半ばになった頃。そもそも勉強などと無縁の生い立ちを経て来た俺たちと違い、少々ながら学のあるビスタがアリスと本の貸し借りを始めた。『哲学書だなんて! どうされたんです』『敵船から頂いたんだ。否、それにしてもやはり海賊の身には難し過ぎるようだ』『言い回しが衒学的なだけですよ。――講読、してみます?』という二人の会話が、真横で聞いていたにも関わらずひどく遠く聞こえた。『是非頼みたい、アリス先生』と余裕かまして(いるように俺には見えたのだ)笑っているビスタを率直に妬ましく思った。二人が二人だけで楽しそうにしていることにも腹が立ったが、何より癪だったのはアリスの言っている事が殆ど理解出来なかった自分に対して、であった。
 ビスタでなく、当時やたら戦闘訓練を共にしていたジョズでもなく、俺を見て欲しくなった。当時の俺の思考をなぞるのであれば、純粋に、アリスに格好良いと思って貰いたかった。それ以来俺は鍛錬の傍ら自室に引き籠っては本を読むようになり、今では「海賊にしては博識」だの「あいつ、難しい事ばっかり言う」(これは主にエースから)だのと称されるまでになった。よもや切欠がそのような単純な事であったとは誰も思わないだろう。寧ろ知れる処になればアリスとてもう少し俺の事を気に掛けるようになったろうに。

 海賊団の規模も大きくなり、俺が現在の職である一番隊の隊長に就任したのが大体十年ほど前か。今から考えればほとほと抹消したく此の上ない出来事だが、俺はオヤジにとある件を直談判した。曰く、――隊長の名を背負える男になった事だし、アリスを自分の女に出来ないか、と。
 現状からお察し願いたいが、無論その話は流れた。アリスがただの人間でない事をオヤジから聞かされて知ったのはその時である。予てからいやに老けない女だと不思議に思うことはあれど、その種族から疑うような事はしていなかった。この海にありながら常識に囚われることがどれだけ愚かな事か分からなかった訳ではないにしろ、よもや己が惚れた女が既にして幾百年を生きていようとは考えるらくも無かったのだ。何もかも知らな過ぎた。それから更に十年経った今でも、恐らく俺はアリスの事を半分も分かっていやしないのではないかと考える。
 800年前、この世に”世界政府”という名の秩序を築き上げた”創造主”。今はその末裔たる天竜人が幅を利かせる有様であるが、それらと同じ時間を生きているアリスはどのような思いで居るのだろうか。もともと無法者である処の海賊風情に調べが付くのはほんの外郭だけだ。モビーに居る間のさながら花のような立ち居のアリスからは、とても”聖地”の連中と渡り合っている――否、アリスはそれより偉い、のか――様子は想像出来ない。勿論彼女の方からそのような話を振ってくる筈も無い。こればかりは誰も同じとはいえ、それもまたアリスについて俺が知り得ない事なのかと思うと歯痒くて仕方がない。
 
 つまるところ、汚せない存在なのだ。最早生娘であるとか無いとか、そのような次元にすらアリスは居ないような気がする。どんなに清らかに見える娘であろうが一度男の手が付けばその純潔は万人に示す処でなくなってしまう。アリスのそれが俺だけのものになればと考えた夜はとうの昔に数えるのも飽くほどになってしまったが、俺自身がそれは許されない事であると一番分かっていた。それでもいい、どうにでもなれと思い切りそうになった夜も以下同文。
 身体を繋ぐだけが想いの形では無かろうと言い聞かせども、生理的にそうもいかないのが悲しきかな男の性であった。誰に覗かれたものでもない脳内で、幾度となくアリスを汚した。純潔を前提とし植物の力を借りる花巫女に対し、もう二度と自然に愛されることなど無いのではないかと思うほどの下劣な妄想を繰り返した。上陸する度に、少しでもアリスに似た処のある女を探して抱いた。昇り詰める際にアリスの名を口にした事も数限りなくある。妙なところで思い切りの悪い男(俺のことだ)に惚れられてしまったアリスは、可哀想な事に夜毎その身を俺の中で恣にされている事を知らない。それどころか一度や二度でなく、来航の折に余りに無防備な寝姿を――否、これは、措く。

 * * * 


「アリス、――……アリス」

 先刻無造作に掴んでやった肩の、折れそうでいて芯のきちんとある心地は彼女が去った後も忘れ難くこの手のうちに残るようだった。この実感だけでも今夜から数えて三夜ほどは愉しい夢を観ることが出来そうだ――などと非生産極まりない空想に浸っていた罰が当たったのか、急に冷えて感じられた外気に軽く震える。つい十数分ほど前まであんなに高揚していたのに、すでに邪な感情に半分ほど食いつかれている恋情の熱さと裏腹に体温は下がりつつあるらしい。軽く咳払いをするも、独り。
 ゆっくりと立ち上がれば甲板前方、本船に横付けされた小型の客船が波間に揺れる様が見えた。アリスの船だ。船室の窓に明かりは見えない。寝てしまったか。いつかのように平時の装束より胸元の開いたワンピースで、姿勢よく上掛けを握りしめて眠りに付いている様を思い描くだけでも俺は非常に楽しい。――浅ましい熱を抱いた頭と冷え切った身体を同時にどうにかする術を、俺は痛いほどよく知っていた。
 早い処”処理”して寝てしまうに限る。先ほどアリスが慎重に両手を掛けて一段ずつ降りて行った梯子を、一気に跳躍してショートカットする。船室へ続く扉を潜れば、真夜中の甲板には誰も居なくなった。


 誰が、想いを拒絶されたというのか。ただ、流されただけだ。今回も、流されただけだ。
 誰が、諦めるというのか。人並み外れて貪欲な海賊を相手にしておいて、考えが甘い。

 お前に近付く為に、何だってしてきた。
 お前を手に入れる為なら、何だってしてみせる。



「受け入れる事しか選べないように、してみせりゃ良いんだろい」



 簡単に逃げられると、思うな。


・あきれるほどにあいをつむぎたい


//20101220(20160829 Rewrite!)



 形振り構わず感情だけをぶつけるような恋愛なら、あいつはお誂え向きに避わしてみせるだろう。
 誰も傷つけず、俺も傷つかず、あいつに言い訳をさせる隙すら与えないような愛を。

 逃げられないようになるのは直ぐだぞ、アリス。


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