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With 1st division commander


 晴れた夜空だった。

「――どうなさったんです、急に」
「否、」

 船長室を出るとすぐ、常の仏頂面を提げた一番隊隊長と対面することとなった。壁に凭れてゆるりと腕を組み、透視でも会得しているのかと疑うほどに、目線は初めから私とかち合う場所にあった。何故其処に居たのかなど説明する風もなく、代わりに寸分の迷いもなく、彼は私を此処まで連行して来た。
 拘束されていた右手は、船尾甲板に着くなり容易くやわらかく解放された。深夜と言っていい時間帯ゆえ、甲板には見張り台の上に居る担当以外の姿はない。静かだった。柵に背を預けて座り込むと、先ほどまでの刺すような(その割には過剰に甘さを感じたけれど)視線は何処へやら、遠く暗い海の方へ視線を遣っていた彼が私の隣まで歩み寄って来る。しかし傍らに腰を下ろすことはせず、また柵に凭れる様にして空を仰ぐ。晴れた夜空だった。季節柄どうしても満天の星空とまでいかないものの、近日稀に見るよい空である。まさかこれを見せようと私を呼び立てた訳でもあるまいに、と此方から話を向けてやると、彼は思わせぶりに言葉を切った。

「……あ、もしかして何らか、お叱りでしょうか」
「違う」
「じゃ、何かしら。あたし何か、忘れでもしているのかな」

「――口実が無ェと、呼び付けちゃいけねェのか?」

 真直ぐな目だった。対して表情自体を変えた訳ではないのに、見下ろされているぶん威圧感が増すのか、一瞬返答を考える事も忘れていた。「お前と話がしたかった、それだけじゃ駄目か」などと直接的な物言いをするような人ではなかった筈なのに、それも私の勘違いであったかのように、やがてぽつぽつと饒舌になってゆく彼は至って真剣な面持ちにて、続ける。

「お前、今日、おれン処に来なかったろい」
「……いあ、偶然ですよ。あたし明日も居ますし、……それに、多分今日もお話くらいはして」
「無い」
「……ですか?」

 嘘だ、分かっている。理由はどうあれ彼との対話を避けたのは私のほうだ。実際こうして向き合ってしまえばそれなりに取り繕うことは可能であったけれど、その時はどうしても彼と顔を合わせることに耐えられなかったのだ。外野が、煽るから。
 今は此方から目を逸らしている彼へ、今度は此方から視線を向ける。私の側から見えるのは彼の左側面となるが、その耳朶に何やら見覚えのあるものが星の瞬きを受けて輝くのを認めた。今年の彼の誕生日に、私から彼に贈ったピアスであることは自明である(基本的に彼は必要以上の宝飾品の類を身に付けない性質であるため)。別に今改めて見つけた訳では無く、本日朝、来航して最初に彼の姿を見つけた時にもそれが其処にあったことは知っていた。私が思っていた以上に、私が贈った物が彼の生活の一端となっている事に少々驚いたものだった。――そこに視線が集中していることを感知したかのように、小さな輝きは彼自身の長い指に遮られる。「聞いてたか?」と焦れるような声。失敬、”聞いていなかった”。

「申し訳ありません、少々ぼおっとしていたようでして」
「……嘘吐け」

 分かっているなら、聞かないでほしい。無論、この距離で彼の言葉を聞き漏らすほどに神経を緩めていた訳がないのだ。膝を抱えると、多少肌寒さも薄れるようであった。右から吹き付ける風が止んだかと思えば、彼の気配が数瞬前よりずっと近くで感じられ内心軽く驚く。ついに私に倣って腰を下ろした彼は、私の方へ身体を向け、「もう一度言う」と前置きしてひとつ息を吐く。いい。要らない。言わなくていい。



「おれは、「――ねえ、マルコさん。あたしね、」聞け、漸くお前に言おうと「まだ新しい島に行くと子供扱いなんですよ、」……おい、どうして「ひどいですよねえ、皆さんあたしを幾つだと思ってらっしゃるんだか」――、」



 両肩を、掴まれた。痛いほどの力で彼の方へ向き直らされる。抱えていた膝は横倒しになり、俯いていた頭も自然と其方へ向いた。不義理は承知だ、この期に及んで彼が何を言わんとしているかを悟れないほど私も世知に疎い訳ではないゆえに。彼が何を言いたいか、どうしたいか、分かっている。だからこそ、避けなくてはならなかったのに。

「あたし、ずーっとこの侭ですからね。100年後も、……20年前も、このあとも」
「ひとの話を、」
「――だめですよ」

 巧く避けようだなんて、考えるだに無駄だった。何もなしに二十年間居た訳ではない。高みから見下ろすようにして煙に巻くような真似を、彼――この船にあって指折りに近しい存在である処の、彼に対して出来る筈もない。出来ていれば今日だって、モビーに足を踏み入れるなり真っ先に彼の処へ赴いていたのであろうから。……何故?
 此方から、ぎりぎりまで顔を近づけてやる。こうまでするのであれば私も彼と同じ型の片方を持っているピアスを右耳に付けてきていれば良かった、そうしたら少しは彼を歓喜させてやることも出来ただろうに。――せめて、それ位、してやれば良かった。

「若い、で思い出しました。あたしね、……ああもうこれもだいぶん前の話ですけど」



 あなたのこと、好き――だったんですよ。



 囁くように零したそれが、多少なり彼の心を揺らしたことが手に取るように分かる。肩の拘束は一瞬緩み、その後倍にも強まった。努めて普段通りに吊り上げた口角は、皮肉な程に震えることなく甘やかな微笑を作っているだろう。小さく己の名前が呼ばれ、抱き竦められると思った一瞬の隙に、少々強引に身体を退いた。
 予想通り軽く前のめりに傾いだ彼に、申し訳なさを覚えるのは禁じ得ないことである。こうしてまた嘘が増える。真摯に向き合おうとすればするほど余計に、彼を傷つけたくないと嘘ばかり重ねてしまう。分かって貰いたいのでなく、ただ騙されていて欲しいのに。また、あたしね、と続ける。

「月並みな願望ですけど、自分が好きなひとには、笑っていて貰いたいんです。――違うな、あたしの所為で、泣かせるような事したくないんですよ」
「……どういう、意味だ」
「そのままです。――あは、あたしにしては珍しいことに、読んで字の如く、です」

 拘束を逃れても尚近い距離にある彼の瞳は、焦れ切ってとうに飽和状態の感情を如何ともし難い、と此方に切に訴えて止まない。ただ、こうして私が悠長に言葉を紡いで居られる通り、彼はその激情を私にぶつけてくることを留めている。聡い彼だから、もう、分かってくれているのだと思った。――欲を言うのであれば、寧ろ騙されてくれたほうが少し、私の心情としては楽だったのだけれど。
 空咳をひとつ、作る。「ちょっと冷えちゃいました。あたし、そろそろ休みます」と科白を読むように言ってのければ彼にはそれ以上私を引き止める術もないようで、「ああ」とだけ短い相槌が返ってくる。其方を顧みる勇気もなく、おもむろに立ち上がった。夕時に食堂で感じた、鋭くも切実な視線を、今は怖いほどの至近距離から塗れるほどに浴びている。お前はまたそうやって逃げるんだな、と無言の言及を受けている――貴方の為なのだ、などと悲劇のヒロインぶった逃げを打つ気はさらさらない。私は私の為にこうして予防線を張り、それを守るために牽制をし、それが悟られぬように嘘を吐く。

 晴れた夜空だった。初めて見た、などとは言わない。数百年生きてきた中で幾度も見た光景であった。きっと、今後も同じような空を幾度も見ていく――傍らに居る誰かは、その都度きっと変わってゆくだろう。
 船長室を出る時のように軽やかには、おやすみなさいを紡げなかった。いつもの彼との応酬であるならもっと楽しく、試すような一言をも投げてさらりと逃げられたものを。彼にしてみれば切実に輪を掛けて真摯な心情の吐露を、私は卑怯にも遮って背を向けるのだ。 
梯子を降りる前に、一度だけ振り返る。当然のように、視線がかち合った。



「マルコさん、ありがとう」



 何か言わないと、と思った訳では、なかった。皮肉ろうと思った訳でもない。
 No thank youの「ありがとう」だと受け取られようが、それはそれでよかった。崇高な、私にとってみればあまりにも綺麗な感情を向けてくれた事に、それを受け取ったことだけは嘘にしたくなかったのだと、本当に嬉しかったのだと伝えたかったのだ。
 静かな甲板に足音高く、さながら逃げる様に歩を進める。船尾に残る彼が今ごろ何を想っているやら考えることも恐ろしく、見上げた空は先より変わらず星が降るようであった。私はその日、予定より一日早くモビーディック号を後にすることとした。


・たとえば君に嘘をついた


//20101130(20160829 Rewrite!)


 丁度、今から二年ほど前に、来航した折の記録だった。




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