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With Captain(and ... )


 医療用アルコールの匂いと、明らかにそうでないアルコールの匂い。湿度と温度は常に適切に保たれ、明るすぎない照明は誰の目にも優しい。部屋の作り手・守り手が居住者の身体を心から気遣っていることが窺えるようなこの空間で、当の主は放埓に酒を呷ってみせるのだ。

「一度でも咳き込んだりしてごらんなさい、ナース長泣かせたらあたしが許しませんからね」
「てめェ如き小娘に腹立てられようが怖いもんか」
「その小娘に負かされたことがあるのはどちらの四皇さまでしたっけ」
「あァ? アリスお前、”赤髪”でも負かして来やがったのか」

 惚けてくれる。無論、これは彼が己の敗北――というほど大仰なものでもなく、単に文字通り膝を付かせただけではあったが――を認めたくないからなどという矮小な理由ゆえではなく、私自身があまり積極的に「”白ひげ”を負かした」と晴れがましく肯定していない事を知っているがゆえのことであった。負かしたなどと、畏れ多い。たとえ相手から吹っ掛けられた小競り合いであったとはいえ、最終的に膝を付かせたのは私の実力であったとはいえ、やはり胸を張って勝利したとは言い難いものがあった。私が敢えて彼を負かしたと言う物言いをする時は、決まって自嘲している時であるのだと、彼は知っている。
 風評ばかりがどんどん服を着て広宣流布されてゆく。海軍上層には「かの四皇を退けた女」などと称えられ、”聖地”へ戻れば更に祭り上げられる。正直、情けなかった。

「……なーんか、あたし、暫くこの船にお邪魔しないほうが良いかなあなんて、思ってしまってまして」
「ふん、たまに顔出したと思えばまた下らねェ事言い出しやがって」
「二十年。――長いですよね、」

 覆水盆に返ることは無し、いつまでも後悔をするような性質ではないのだが、時折ふと感じることがあった。――真実との乖離があるにもかかわらず、自分たちの主・”オヤジ”たる白ひげに土を付けたとして知られる輩と、そうそう芯から好意を持って親しめるものなのであろうか。常の彼らが、各隊長始め此処のクルーのすべてが、あまりにも優しいからつい考えることから逃げてしまうけれど、そもそも自分は歓待されるべき立場ではないのだと自覚しておかねばならないのではないか。しかし、今さら何事もなかったかのようにモビーディック号に別れを告げるには、二十年という月日はあまりにも長いもののように感じられて仕方ないけれど。

 確実に特注品であろう寝台に横たわり上体だけを起こした彼の傍らで、丸椅子に稚気めかして膝を抱え座る。揃えた膝の上に頬を乗せて目線だけを其方へ投げれば、もう十数年という付き合いとなるこの人――彼に言わせれば私は”娘”でなく”妹”なのだというから、此方からも”兄”とでも呼ばせて頂こうか――は僅かに目を伏して常のように特徴的な笑い声を洩らした。

「おれにとってもお前にとっても、あン時の事はどうにも引っ張り出されちゃ敵わんモンだよなァ」
「まったくです。元はと言えば揉めた原因って其方さんの勘違いだったじゃないですか」

 ひとの少ない集落が山間に眠るとある島で起こった小競り合いだった。ログを書き換える程の力もない、地図にも載らぬほどの小さな島は、海に出たての新入りクルーにとっては単なる無人島に思えたのだろう。夜中の停泊で手元の覚束ない中、彼は勇猛にも未開の地(実際はそうではないのだが)へ一番乗りで降り立ち、手近であった木の棒――私がこの地に加護をもたらす為に・”創造主”の一たる花巫女の巡回する土地であることを示すために植え育てていた苗木を松明代わりにせんと引っこ抜き、点火したのであった。ややあってそれに気付き彼を拘束した私の行動は堂々たる正当防衛であり、帰ってこない”息子・弟”を気遣ってか次々降りて来た白ひげ海賊団の面々――不思議な事に、その時居合わせたクルーの多くが現在この船で隊長・それに準ずる重鎮となっている――においても、それはある程度明白であったのに違いない。
原因はどうあれ、その程度で私闘を始めるほど分別が無い私たちではなかった。軽口の応酬ののち始まったのは純粋な力比べであったかも知れない。よもや後に目の前の相手が四皇となるなどと知る由もなかった(、と言っておこう)私と、よもや目の前の小娘が数百年ものの”世界政府”創始者であるなどと知る由もなかった彼との、何かが惹き合った結果としての衝突・ランデブーであった気がする、などと今なら格好良く言ってみせることも出来た。

「過ぎた事だ。ンでお前なんざ、おれに土付けたって”向こう”じゃあ英雄扱いだろうが、良かったじゃ無ェか」
「……意地悪ゆわないでください。あたしに負かされただなんて、思ってらっしゃらない癖に。貴方も、――皆さんも」

 来航するたびに、まるで待ち望まれていたかのように温かく出迎えられる。じゃれ付かれ、食卓を共にし、手合わせを請われ、酒を酌み交わし、時にはごく個人的な事柄について話し込みもする。入り立てで私の事を詳しく知らぬクルーらのみならず、「あの時」からこの船に乗っていた面々ですらそうなのだから、尚更不思議になる。私ごとき他所者が、この場においてここまで受け入れられていてよいのかと思ってしまう。
 すんと鼻を啜って、彼がまた一口酒を含む処を見届ける。



「――アホンダラ、」



 耳慣れた罵声であった。いつものように闊達とした声色でなく、じわりと私に聞かせる様なそれには、そのぶん此方を咎める色が強く出ている。二十年の間、だいたいすべての船員が説教を受ける様を見て来た私であるが、なかなか自分自身がその対象となる機会は少なかった。「御挨拶ですね、ひどいです」などと素直でない相槌を打ちつつ、軽々と瓢箪を空にしてしまった彼が次に口を開くのを待つ。

「”家族”になンのに理由なんか要るもんか」
「……」
「あいつらはそれが分かってンだ。お前には分かってねェ。そんだけの違いだ――おれの”妹”がいつまでもグダグダと言い訳してんじゃァ無ェよ」

 私が毎度抱えては人知れず煩悶している葛藤も、彼に言わせればただこの場を離れる言い訳となるらしい。”家族”を持たない私にとって、何らか繋がりを持つことに口実を必要としない間柄は新鮮の一言に尽きる。海賊の領分においては門外漢である私にすら、白ひげ海賊団は少々異例である事は理解出来た。そうであるからこそ私はこうして、このような遣り取りを過去に何度も繰り返しながらも二十年間、モビーディック号の「教育係」として来航を続けて来ているのだから。
 有難う、と謝辞を落とせば鼻で笑い飛ばされる。”白ひげ”にとってはこの程度の事は些細に過ぎるのだろう。自分の”息子”のひとりが海賊王の血を引いている事を知った時にすら「そんな事」と一笑に伏していた男なのだから。人間でありながら、その器の大きさ(と、実に驚異的な戦闘力)は既に人の境地を超えているのではなかろうかとすら時々感じられる。しかし、そのような形容をすら彼は疎ましく思うのだろうから、結局は私も必要以上の謝辞賛辞を口にすること無く彼の就寝を促すことになった。

「オヤジさんは、いつまで経ってもオヤジさんですね」
「グラララ……何だそりゃ」
「最大級の褒め言葉です、よ。――それじゃ、そろそろ失礼致します」

 周遊記はまた明日にでもお話します、と一礼してのち踵を返す。扉に手を掛けた途端不意に呼ばれた己の名前に一度振り返ると、”兄”たるオヤジさんは何やら悪戯っぽいニヤリとした笑みで以て「そのうちお前、おれの”娘”になンじゃねェか」などと言って寄越す。「残念ですがあたしはこの先老けることも退化することもありません」と肩を竦める私の胸中も、恐らくこの人は見抜いているのだろう。無論、額面通りに受け取っての反応では無かった――が、彼の思惑通りに返答するのは癪だったのだ。曰く、果たして、”妹”が”息子”――この船のクルーに娶られることとなった場合、その関係は”娘”となってしまうのだろうか、と。
 最後に伏兵を放つところが彼の憎いところだった。もしかして「あの時」私に不意を衝かれたことを未だに根に持っているのではなかろうかと邪推してしまうほどには、このようなサプライズが頻繁に供される。彼もまた海の男、気持ちはいつまでも少年の若さであるというか。私と逆だ。おやすみなさい、と挨拶をひとつ残して、漸く扉を開いた。開いた先に最大のサプライズが待ち構えているとも知らずに。


・あなたの彼方


//20101130(20160828 Rewrite!)



「アリス」



「……今晩和、奇遇ですね」

 後ろ手に閉めた扉の奥では、もしかしたらこの顛末を予期していたのかも知れないオヤジさんが常のように笑っているのだろう。急用でもこじつけて再びこの中へ逃げ帰ることも不可能ではない。しかし、そうしようと考える間もなく向こうに先手を取られた。

「時間、貰えるか」

 疑問口調の問いを発すなら答えを待ちなさい、とだいぶん前に言っておいた筈なのだけれど彼は覚えていないようで、有無を言わさず私の片手を捕らえるとそのまま人気のない廊下を甲板へ向けて歩き出す。――誰かを呼び付ける上で用件を先に言わないのは、マルコさんの悪い癖だった。



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