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薊野原を駆け抜けて


 ――さあ、共に。

 一面の赤紫の中、ただこの身を以て贖罪を待つばかりだった私に延べられた大きな手は、きっと御慈悲に満ちていた。



 * * * 




「ウルージ僧正、見張りが前方に島を発見したとの事です」
「おお、それでは各々上陸の用意を進めるように周知の程を」
「了解致しました」

 明け方に敵襲を迎え、それから休む気にもなれず朝を待ち今に至る。空島を出航して暫くの間は惰性であろうと欠かしていなかった朝の説法も、本日は行わないことにする。このような事は最早珍しいことではなく、特にこの手で殺生を行った日などにはおちおち数珠などにも触れない。
 良心などという美しい感情の痛みではない。戒めを破り、人の道を破り、今更自分如きが何を説こうというのか。求めるものが為に青海へ降りて来たのだというに、時折このような歯痒さに駆られることがある。付き従ってくれる門弟らには、多分に申し訳ない事であった。

 上と比べて青海はとかく気象の変化が著しい。ことに朝方の冷えには堪えるものがあり、甲板にて清掃に励む者らの表情も心なしか固く見える。ひとつ気になる事があり倉庫へ歩を進める私に気付いた傍から一人ひとり頭を下げ来るのの鼻はどれも赤かった。「ご苦労、終わったら瞑想の前に熱い茶の一杯でも召されよ」とだけ言い置く。
 日頃は点検の用がある者のみが出入りする倉庫も、上陸前後に限っては俄かに人の入りが多くなる。幾らか――否、たとえ多分に戒律を見て見ぬ振りする我々とて、物資の調達は托鉢にて行う場合が多い。遅くとも夕刻には新たな島に着くとあって、もう少しすればこの薄暗い倉も賑やかになるだろう。今は二人、私と”彼女”だけが、そこに居た。



「此処に居なさったか、……名前」
「あっ、僧正! お早うございます。ごめんなさい、鉢磨き、まだ終わっていなくて」
「なァに構わんさ、ゆっくりやりなさい。上陸は今日の夕刻だ、準備を調えたらゆっくり休むといい」



 「有難うございます」と控えめに笑む黒髪の乙女は、さながら湖に映る花の影のように儚げな趣を纏う。もう随分と前になる時分、然る縁あって我々破戒僧海賊団と行き合った巫女、それがこの名前であった。
 今朝の清掃は第弐班の割り当てであり、便宜上第伍班に属する名前には此処に居る理由が無い。そもそも倉庫は清掃区域に入っていないのだから、つまり彼女は自らの素志にて此処に居り、鉢を手にする者々の為にわざわざ埃を拭ってやっていたのだという事になる。何とも清い心である事よ、おおよそこのような「海賊船」なるものに乗せていては宜しくないのではなかろうかと此方が危ぶむほどに、名前は心と身と言わず美しい娘であった。この船に乗ってからというもの、幾度となく生命の遣り取りをその目にして来ていながら、彼女は依然として静謐そのものといった体を崩さずにいる。程度はどうあれ神に仕える職分で在りながらその手を血に染める我々を前にせど、年若いこの巫女はいつも、花の綻びる様な穏やかな微笑にてその身を退こうともしない。あの日、巡り合わせに引き寄せられてから、ずっと。

「僧正、この度はわたくしも兄弟子さまがたに並び托鉢に立ちたく存じます」
「お前がそのような事をする必要は無かろうに。身の回りのものを揃えてからで良かろう」
「わたくしは、今の生活にひとつも足りていないものなど感じておりません。それより、少しでも皆さまのお役に立てるよう修行に励みたいのです」

 切実な風を見せつつも、名前は尚も柔らかく笑んでいた。まるでその発言をする事にすら喜びを得ているような素振りに、先刻まで滔々と考えていた事を思い出す。何故に彼女はこの船に居続けるのか。僧とはいえど所詮は戒めに背いた身の我々を傍に置き、安心ならぬのは他ならぬ彼女であろうに。
 とある島のとある村で”拾った”歳若い巫女へ、新たな島へ着く折毎に「此処で降りるか、」と尋ねていた事もあった。今はもう聞いてすらいない。操舵手の僧が問いかけるたびに、それはそれは悲しげに、(姥捨てに連れて往かれているかのように、)何度も首を振る名前の姿を、皆も私も見るに堪えなかったのだ。
 海賊は所詮、何処まで往こうが海賊。無辜の貿易船から略奪を働くことすらある、迎撃以上の暴虐で以て敵船にあたる事もある、当の我々ですら時に”慈悲”の意義を忘れて稼業に勤しむ事があるというに、名前はそのような日常を宿り木として生きているのだ。今、この瞬間も。

「……僧正、ウルージ僧正! あのう、わたくし、我侭を申しているでしょうか」
「ふふ……済まない、考え事をしていただけだ」
「考え事、ですか」

 拭布に覆われた華奢な手指で以て塵一つ残さずぬぐわれた鉢は、きっと托鉢を為す僧の心まで清新たらしめることだろう。それが最後の一つであったらしく、雑多な音もなく手にした鉢を棚に戻してのち、名前は拭布を丁寧に畳んで此方へ歩み来た。ずっと暗いと思っていたが、どうやら己で出口を塞いでしまっていたらしい。彼女が退出するものと思い退こうとしたが、予想に反して眼前で立ち止まられる。己の体躯で彼女に陰が降り、その表情の細かな機微にまでは目が行き届かない。此方を見上げてくる表情はあどけないものでありながらも、何処か気遣わしげなそれであった。考え事、等と口にしてしまったから。繊細な巫女にまた重みを与えてしまったか、と心中にて反省する。「確かに、――お言葉ですが、今朝の僧正は少々、……元気がないように感じます」などと、此方を立腹させないためであろうか、言葉を選んでいるのが伝わる途切れ途切れの伺いがいじらしい。考えた末に巧い表現が見つからなかったのか、「元気がない」などと言われてしまったのも微笑ましく思う。日頃から門弟一同には、とかく世の不条理諸々は笑ってのけろと教えていた。いつの間に名前には、笑顔で居ることと笑うことの違いを見抜く力が養われていたというのか。
 此度は確と心がけて笑って見せた。見下ろす先で眉根を寄せた侭であった娘の可憐な器量も、ややあってゆっくりと花弁のような唇を甘やかに咲かせた。「考え事とのこと、気になります。わたくしには話していただけませんか」と囁き声にて案して来る格好は、常より少しだけ幼い、茶目かしたものだった。拭布を持たない右手の人差指を自身の唇にあて、「わたくし、きっと口外致しませんわ」。もとより其方、名前の事を思案していた等とは思う由も無いようだった。

「否ァ、実に些細な気懸かりだったのでね。――なァ、名前」
「なんでしょうか」

 何をも疑う事を知らないような、それでいて何もかもを分かっているかのような、ぱっちりと丸い眼窩に、ああこの娘は己より一回りも二回りも若いと知らされる。尚更に、何故いま彼女がこうして我々から離れ新たな生を往く事を良しとしないのかと疑うてしまう。彼女が望むなら、いつでもこの手を離す用意は出来ているのに。――あの日に取った小さな手を、今は白魚のように瑞々しい輝きを放つ美しい手を、平和な明日へ放してやるつもりで、此度は久しく発していなかったかの問いを、名前へ向けることにする。



「次の島で、この船を降りなさる気は?」



 七分咲きの蕾のようであった微笑みは一瞬、固まった。また、何時ぞやのような悲しげな表情にさせてしまうだろうか。返答は気になれど、分かっていてそのようにしてしまうのは申し訳ないような気にもなる。最後にこれを訊いたのはもう幾月も前だったか、確か私から直接こう申し渡したことは終ぞ無かったかもしれない。
 
 名前は、しかし顔を歪める事をしなかった。一度はひくりと慄きを見せた唇も、何でも無い事かのように再び引き上げられる。常より僅か、控えめな色が薄いような体だった。

「何を、仰られようとも。僧正から直々に『降りよ』と命じられぬ限りは、わたくし、ずっと此処に居りますわ」

 いけませんか? と小首を傾げる仕草は年頃の娘めいて愛らしい。あまりに淀みの無い答えだった。
 手を述べたのは此方なのだ、彼女を捨て置く道理などあるべくもない。唯、この船に名前を乗せ海を渡って往く限りは如何様にも付いて回る或る種の申し訳無さに、果たして彼女を離しておかない事が正しいのかと時折頭を痛くしてしまうので。私だけでなく、例えば今朝、名前の眼前にて敵賊を一人殴殺してのけた僧なども同じだったろう。――しかし、それを目にしてなお、この娘は我々と共に在りたいと願うのだ。

「名前」
「はい、僧正」
「我々は世間ではとんだ手余し者の集いなのだよ」
「……承知しております。その程度、分からぬ歳ではありません」
「ただでさえ僧界のならず者なのだ、それに加えて海賊などと……ふふ、最早誰の加護も望めますまい。お前が得をすることなど、一つも無いのだよ」

 嘘は無い。告げる口振りは平時の己らしく努めて穏やかであった。
 破戒僧など、何も格好の良いものではない。酒・博打・女、その他諸々に抑制を欠いた愚かな僧共がただ傷を舐め合うようにして寄せ集まったのが事の起こりだ。今更少々の腕っ節を身に付けようが、時折思い出したかのように修行に暮れてみようが、所詮は僧の職分から堕ちた身であり――そればかりか現在では自ら略奪へ身を投じる有様である。このような人間と生を共にし、このうら若き巫女が此の上何を得ようというのか。それならば、まだこの手を離すに痛みが浅いうちに、花のような笑みが散らぬうちに、一層彼女を平穏へと送り出してやるのが我々にとってせめてもの善行と言えるのではなかろうか。
 二、三度と瞬きをしたのち、名前はゆっくりと口を開いた。

「けれど、――けれど、ウルージ僧正」

 未だ幼いとばかり思っていた儚げな光を湛える瞳に、凛とした意志が宿っているのを感じた。覇気とは異なろう、何処か優しくもあるような・しかし決してぶれる事なく真直ぐに見上げてくる名前は、やはり眩しくて止まない美笑を咲き匂わせていた。



「神でもなく仏でも無く、心優しい誰某でもなく、――わたくしを救ってくださったのは、僧正、あなた様なのですよ」



 * * * 




『犠牲とは言え此れは尊い犠牲なのだ、巫女、お前はその身を以て村を護る礎となれるのだから』

 有無を言わさず召し替えられて連れて来られた場所は、何とも閑散とした荒涼の野原であったことを今でもよく覚えている。
 体よく口減らしに使われた事くらいは百も承知な捨てられ巫女は、きっとこのまま飢えた狼だか熊だかに食われて一生を終えるのだろう。何故だか自分の事だというように思えず、涙一つ流す事は出来ず、見送りにも来なかった両親の顔すら脳裏には浮かばず、かといって形だけは私を神々しいもののように扱う村の人々の手や裾を握ってやろうとも思えず、私がした事と言えば、ただ近くに遠くに咲き乱れる赤や紫をぼおっと眺めるばかりだった。
 絶望を知るほどには、望みのある世界で生きていなかった。悲しみを知るほどには、幸せを感じた覚えが無かった。『いいか、痛いな辛いなと思ったら一心不乱に神様にお祈りをするのだぞ』という取って付けたような教義も聞くか聞かぬかで、気付けば周りには誰ひとり居なくなっていた。――そう、それでいい。祈れどもきっと私を救ってなどくれぬ神なら要らなかった。願えどもきっと私を悼むだけの仏なら要らなかった。膝を抱えて小さな身体を尚更小さくする私を、返り見もしない誰某のことを、私は今日まで優しい隣人だと思って生きて来たのに。



『――おや、巫女。斯様な場所で何をしておられるのやら』



 声は突然だった。異様なほど著大な体躯、ぞくりとさせられる程に満開の笑み(何も、楽しくなんてない筈なのに)、一目で僧職のそれとわかる装い。顔を上げた私の前に佇んでいたその人の背には、見紛うべくもない翼が一対あった。こんなに早く迎えが来るものだとは思ってもいなかった、と当初はずいぶんと相手方に失礼な勘違いをしたものだ。どうやら私は苦しまず逝けたらしい、と口も利けぬまま彼と、その背後に控える幾人もの僧らを交互に見比べた。

『そのように怪しみなさんな。我々は旅の者、――此処で、修行を?』
『……いえ、私は、村の人柱として此処に眠る言い付けなのです』

 隠し立てするようもなく正直に告げた。『無辜の村人も、一を取って多を助く為とはいえ惨い事をやりなさる――』と僅かに表情を曇らせるその人は、ややあってひとつ、頷いて見せた。次の瞬間、私に大きく陰が降りる。



『我々は、破戒僧海賊団。神に仕える身では在れど己の納得の往く侭に生きる厄介者共の集まり――捨てられの巫女嬢よ、未だ其の生命に僅かとも未練が在りなさるなら、我々と共に往く気は無いか』

 差し出されたのは、著大な体躯に見合う大きな手だった。海賊、と言っていた気がする。掌を黒々と汚しているのは、此処に来るまでに屠った誰某の血であるのかも知れなかった。しかし、不思議と恐怖は湧かなかった。それが自分に向けられる気配を微塵ともさせなかったからかも知れない。
 重ねた手指がぎゅっと力強く握られる。痛みを感じる程ではない。代わりに伝わるのは血の通った温もり。『お前の名は、』と問うてくる笑顔にもう戦慄を覚えるような事は無く、知らず強張っていた全身の力が抜けるような思いだった。彼は言う。――さあ、共に。


・薊野原を駆け抜けて

//20101028(20140511 rewrite!)

 嬉しい事を言ってくれなさる――然らば其れに報いよう、
 あの日に取った小さな手が、離れて往くことのないように。



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