text(op) | ナノ




With 16th division commander



「まァ、呑んでけよ」

 差し出された杯を手に取りつつ、何だか今日は呑んでばかりだ、と苦笑してしまった。すでに陽も傾き掛けた夕刻は、誰ぞやと言わず賑々しく過ごすよりはこうしてひとりとじっくり酒を交わすのが似つかわしいのかも知れない。それは何もお互いが相手でなくてもいいのだけれど、とは、私も・勿論目の前で自分のぶんの一杯を軽く干してしまうイゾウさんも考えている事であろう。兎に角、この部屋に居るのが二人だけだというのならば、そして酒があるのならば、呑まないなどという選択肢は端から有していやしないのであった。
 透き通って、杯の底の深い紅色を映している液体は舌に触れると水のような人の良さで咥内に沁み渡る。彼が私室に貯め込んでいる生まれ故郷の酒であることは明らかであった――私のように愚かでないイゾウさんは、他人に呑ませたくない酒に関しては信用できない人間に任せるより己で管理しておくことを常としているのだ。私も宴の始まるギリギリまで私船に置いておけば良かった。昼間に嗜んだ件の葡萄酒よりも少々アルコール分の強いワノ国の酒はさしもの私とて一口に干す訳にゆかず(”植物”人間は水分の吸収効率が常人の数十、数百倍……とにかく凄い訳で)、くちびるを湿らす程度にちびちびやっている処で、手酌で三杯め(先刻干してからもう一度呷っている。隊長陣随一の強さを持つ彼だ)を注ぎに掛かっていたイゾウさんが「なァ、アリスさんよ」と此方に目線をくれる。綺麗に結い上げた髷から長い前髪がひと束はらりと頬に下り、それが何とも色香を感じさせた。

「もうお前ン処に挨拶に来たか、アイツは」
「ん。あいつ、とは何方の事を仰っておられるので? ……なんて。貴方相手にしらばっくれられるほど此方も厚顔じゃありませんよ――未だ、です。訪ねて来た側が伺うのが当然だ、と思っていらっしゃるのじゃないかな」
「いンや、今朝からずっとお前に声掛けようとじりじりして居やがったンだよ。はァ成程な、未だか」

 杯の水位も段々と低まってきていた処で見計らったように注ぎ足される。口当たりのよい酒はさながら名水のような口当たりをしていながら後々段階を追って重く酔わせてくるものだから、今後の事を考えても私は此処で羽目を外して美酒に酔いしれる訳にはいかないのだけれど。いざとなったらこの人の所為にしよう、と決めつつ素直に頭を下げた。返酌もしておく(いつもながら彼のザル……否、ワクっぷりには頭が下がる)。

「あたしなんぞに隔靴掻痒して頂けるほどの価値があるとは思い難いのですけれど」
「そんじゃ話は早ェ、そろそろ年貢の納め時ってもんじゃあねェのか」
「……先刻ベイさんにも同じような忠言を賜ったのですけれど、提携してるんですか?」

 苦し紛れの私の問いには「さァね」とだけ肩を竦めて寄越し、イゾウさんは杯を持っていない方の手で胸元の合わせをさっと直し(見苦しいほど乱れていた訳では、無論、ない。彼なりに美しい肌蹴具合というものがあるのかも知れない)、尚も私に真意を悟らせない目を向ける。ポーカーフェイスと聞けば皆はかの一番隊長を真っ先に挙げることとは思うが、私などとしては却ってこの十六番隊長のほうが相手に取ると恐ろしいように感じられる。

「あたしは、だめなんです」
「何故だい?」
「……あは、意地悪だなあ。言わせます?」

 不老の身の上を己の身可愛さよと恨んだことは、ただの一度も無い。特段そう凄惨な生い立ちを持っている訳でもなく、世間一般からしてみれば実にぬくぬくと幾百年を過ごして来た私にとって、この先も同じように滔々と続く生を経て往く事もまた、悪くなかろうと思えることであるのだ。そうであるから、私はきっと現在の(私にとっては、未来半永劫の)生を自ら捨てる事などしないのであろうから、仮に某方の想いを受け入れる事をしたとて、数十年後に――もうそれは私にとっては随分と近い将来の事となる訳だけれど――それまでの日々を悔いて惜しむ事になるのは彼自身に他ならないのだ。言葉にしてしまえばたったそれしきの理由。今更過ごす時間の差異について思い悩み嘆くことが出来る程には私も綺麗では無かった。
ただ、漫然と過ごして来た時間の中で、あのように私個人にのみ向けられる温かな感情を終ぞ受け取った事の無かった私としては、たとえ私のエゴであったとしても、彼には傷付いて貰いたくなかったのだ。陳腐な言い方をすれば、初めての想いをくれた彼に、という処か。私が用いるには無垢過ぎようというものだった。

「ご勘弁、願いたいです。逃げさせてください――あの優しい方のために、と申し上げておくことで、せめて自分の心に位は蓋をしておきたいものです。畢竟それがあたしにも彼にも、きっといい」



「アリス。――それ、アイツが聞いてたらお前、明日には確実に手篭めにされてンぞ」

「へ?」

 目の前の和服の男は――時に女性顔負けの色香を放ちつつもこのような時に決まって漢気の華を開かせる彼だ――私を暫しでも硬直させた事に気を良くしたかのように鼻で笑って見せる。「寿命の差、ねェ。アイツがンな事構うようなタチだと思うかァ?」との言葉にも私は返答しようが無い。本当は彼が構おうが構うまいが、否、私の話はいい。
 「そもそもよォ、」と既に幾杯めだか数えることも忘れてしまっていた杯を舐めながらイゾウさんは、さも物分かりの悪い子供に対して教鞭を取るかのような柔和ながら根気よい眼差しにて私に何をか説いてくださる様子であった。



「海の男が、惚れた女と雖も『永遠に添い遂げよう』なんて御伽めいた事望んでる訳ァ無ェだろうが。いつだって肝心なのは次の一瞬、思い立った一瞬にでも、想い合ってンのが分かる事だ。互いが視える視え無ェでもありゃしない、此処さえ熱きゃあ、な」



 合わせを直して尚ちらりと覘く引き締まった肌が覆う胸元が、とんと叩かれる。粗野とも思えるその仕草すら美しかった。己に言われた事として納得できるかは一先ず置いておいて(ああ、ひねくれ者の可愛くない女です、どうも)、彼の言に感じ入った事は確かであった。何と言うのだったか。……あの形容が、正しい。確か彼の国の言葉で、難しい観念だった。

「成程。――粋、ですねえ」
「ン?」
「使い方、間違っていました? 酸いも甘いも噛み分けたような、瀟洒な感情です。あたしや彼に其の境地に至れるか否かは兎も角、ですが――うふ、取り敢えずイゾウさんにはちゃちな言い訳などお見通しであることは、分かりました」

 然るところが、彼は私がその人――此処でお名前を挙げるも申し訳の立たぬ気がする、高貴な青い鳥の戦人某氏について、さもご本人を言い訳の出汁にしているようであることが気に入らなかったのだろう。別段ふたりの篤い友情ゆえであるとかいうのではなく、恐らくは、私を含め今後の行く末をイゾウさんなりに歯痒く思って気を揉んで下さったのだ。その程度分からぬ体ではない。「ご迷惑をお掛け致します」と笑んでみせれば、何やら酒に虫でも飛び込んでおったかという苦い表情になった彼は「てんで堪えていやがらねェ」とこれ見よがしに長い息を吐いた。御冗談を、これでも結構揺れましたとも。
 ようやっと二杯めが空く。親の敵かの如くに直ぐ様なみなみと満たされた杯に、少々酔って情けない所をお見せする位がよかろうか、と要らぬ気を遣いつつ、私と彼の間に図らずも暫し穏やかな沈黙が流れた。お互い常からそう口数の多いほうでも無いにもかかわらず、何故だか静けさに安堵する自分を何処かで感じていた。船室の窓の外はとっぷりと陽が落ちて薄暗く、甲板に溢れていた喧騒も少しずつ船内廊下を経て食堂へと流れていくようだった。

「言い訳、って処まで認められンならさ、あと一息だぜ」
「このうえ何をも隠して居りましょうか」
「何、だってェ? 簡単な事だろ、――ま、認めちまうとお前にゃ障りが出んのかも知れねェが」

 ちょうどこの部屋の前を通過してゆくのであろう一際大きなクルーらの歓声に、彼の問いかけは紛れるようであった。途切れ途切れであったのは間違いなく事実である。――だから、私は、この尋問については「聞こえていなかった」こととし、回答を放棄してしまおうと思う。逃げ続けて十年だ、こうなったら此方も意地の部分でどうこうしようとしてしまっている部分もあるのだけれども。一層腹立たしい程の笑顔で、申し訳ありません聞き取れませんで、と言いたかったのに、何故だか一音も声にはならなかった。思いのほかその尋問に動揺した自分が居たのかも知れない。



「マルコの事、好きなんだろ?」



・酔ひ待つ宵


//20101108(20160825 Rewrite!)


 あのオッサンさ、柄にも無く純情なんて抱えてやがるんだよ。
 お前にとっちゃあ瞬き位ェの時間が、アイツの全てなんだ。分かってやってくれや、アリス。



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