text (風紀巫女SS) | ナノ
夕暮れに佇むは


 委員会活動を終えて帰寮しようというところで、不覚にも教室に忘れ物をしていたことに気付く。夕暮れの斜めに差し掛かる紅い陽に染まった廊下を足早に戻り、ホームルームの教室の扉を開くと――、なんという偶然か、其処には未だ白雪が残っていた。
 決して物音を忍ばせた心算は無く、普通に扉を引く音を立てた筈なのに、彼女は此方を向くことをしない。そう鈍いたちではない白雪にしては常にない様子。華奢な手指を組んで頬杖をついたまま、窓の外を眺め遣っているのだろう。開け放した窓から流れ込んでくる温い夏の風が、彼女の柔らかな亜麻色の髪を揺らしている。


「――……白雪」
「っきゃ……ぁ、……清多夏さん。御免遊ばせ、気が付かなくて」
「……何かあったのかね」


 失敗した。聡い彼女のことだ、僕が気を揉んでいたらしいことが分かってしまえば「なんでもないのよ」と誤魔化してしまうに決まっている、のに。漸く此方を振り向いてくれた白雪の、常の如く優しい光を湛えた紫水晶の瞳から、いま彼女が抱えている感情の正体を読み取ることは叶わない。
 而して、困ったように微笑んだ白雪は当初僕が想像していた返答までを口にすることはしなかった。

「考え事をしていただけ、なの」
「こんな時間まで、この場で?」
「ええ。……ご本を読んで、考えさせられてしまって」

 そこで初めて、彼女が着席している机の上に閉じられた一冊の書籍があることに気付いた。和柄のブックカバーが掛けられているためそれが如何なる類の本であるかは此方からは知れないが、兎に角、白雪がそれを読んで何をか深く感じ得ることがあったらしいことは分かった。しかも、それはおそらく快のほうの感情に基づくものではなかろうということも。
 それきり僅かに目を伏せて口を噤んでしまった彼女の、直ぐ傍まで歩み寄る。こうして白雪と二人きりで居る時分に沈黙が下りるということ自体は決して珍しいものではなく、空気を繋ぐために会話を要さない間柄であることは僕にとって好ましいことではあるが、――この沈黙はそういった部類のものではない。

 きっと逼迫した事案ではない。そうであるなら賢い白雪は、それが多少痛みを伴うものであろうと情報を開示してくれる。そして、これはきっと僕のほうに関わることではなく、彼女の内心に関わるものであるのだろう。だからこそ、白雪はここまで口を開かずにいる。
 ならば、僕がすべきことは一つ。彼女が吐露してくれるまで、只管待ち続けるまでだ。

 放課後の教室に満ちる静謐を、而して未だ以て苦々しいものに思えないのは、このような時間であろうと僕にとって白雪の傍に居られていることに変わりはないからなのだろう――と詮の無い感慨をあらためておぼえていたころ、漸く白雪が「もしかして、聞いてくださるのかしら」と小さくおどけたようにひとりごちた。ただ首肯だけを返す。

「究極、突き詰めて考えて」
「……?」
「あたしは最終的に、貴方に停滞しかもたらすことができないのではないかと、思えてしまって」

「…………す、まない。意味が分からない」

 本気だ。
 基本的に白雪の話は語彙が豊富であることを差し引いても難解であるときがあることくらいは流石の僕も心得ているが、それでも平生は斯様に理解が追いつかないことはない。僕とて"超高校級"。並みの高校生以上に思索活動に長けている自負はある。
 ただ、今回ばかりは意味が分からない。僕が希望ケ峰に入学し有栖川白雪と出会って得たものがどれだけ数多でどれだけ意義深いか、まさか白雪本人が把握できていないなどということが有り得るのだろうか。「それはあたしがもたらしたものではなくて、貴方がご自分で得られたものでしょう」とでも言う心算だろうか。
 そうであるなら論破は簡単だ――而して、今回の白雪の発言の真意はそこではないかもしれない。本を読んだことが切欠だ、と言っていたからだ。口を挟みたくなる情動を抑えて、白雪の花弁のようなくちびるが再び綻ぶのを待つ。

「でしょうね、御免なさい。あたし自身、まとまっていなくて。でも、……なんだか気落ちしてしまって」
「気落ち?」
「……あたし、この先、貴方の前に新しい誰かが現れることがあったら、そのとき、きっと貴方から選ばれないようなことが有り得るのじゃないかと思ったの」





「……は?」
「え、以上だけれど」
「意味が分からない。すまない、意味が分からない、まったく分からない」
「だから、ご本を読んだの! それで、」

 僕にも分かる言い回しにはなった。そしてますます彼女が何を言いたいのかは分からなくなった。
 待ってくれ、白雪はいったい何を読んだのだ? 山田くんから聞いたことがある、昨今ちまたに出回っているらしい"超高校級"の学生――僕たちのことだ――らをモデルにした創作物か何かか? 世間的に知名度があるわけでもない僕自身が取沙汰されることはないに等しいが、白雪を題材にした作品もあるらしいことは僕も聞き及んでいる。それか? 否、そうであるなら彼女の選語はここまで一般論めいたものにはならないだろう。では、何を――?
 つい数瞬前までロケーションも相俟って少々感傷的な空気を纏っていた場であることも最早忘れ、取り敢えず僕は白雪の両肩に手を置く。触れて落ち着かせることができるとまでは思わないが、少なくともこれで逃がすことだけはないだろう。

「……あたしは貴方に、大方きっと貴方が想像できる程度のこの先しか差し上げられないから」
「ぴんとこない。もう一声頼む、白雪」
「えええ……? あの、……ううん、ええと、その、意外性……とか? 刺激、とか、そういうの、……基本的にあたし、貴方に対しては常に現状持てるカードを一枚残らずすべてオープンにしている状態だから、きっとこれ以上はどうあってもひっくり返すことは、できないのね」
「まだ難解だぞ……? 

……否、待て。まさか白雪、きみが読んでいたのは」


「……別に大仰な書物なんかではないわ、ただの恋愛小説」


「やはりか! ――だよな、……そして、……何だね、白雪、きみはそれを読んで、…察するに恐らく結末までしっかり読んだうえで、――……嗚呼、その、……選ばれなかったほうのヒロインに感情移入を」
「――……ぐすっ」
「きみの地雷が分からない!!!!!!!!!!!!!」

 なにを難しいことを言い出したかと思ったら着地点はそこか!
 至近距離で潤んだアメジストの瞳を瞬く白雪は本日も恙無く相も変わらず美しい。ただ理由が問題過ぎた。他者の身の上に立って物事を考えることが大切であるというのは確かに白雪が僕に教えてくれた肝要な事実である。だが、何事にも例外は起こり得るということもまた、きみが僕に教えてくれたのではないか!

「勝てない…あたしじゃ勝ちヒロインには勝てないよぅ……!」
「白雪、……その、だな」
「お勉強とかお料理が多少できなくても愛嬌があってちょっと隙も垣間見せるような可愛らしい女の子がいつか現れて、そのうちほっとけない存在になっていって、あるとき何かのきっかけでときめいちゃったりとか、するんだわ」
「……誰が」
「貴方が」
「……誰に?」
「その子に」
「いや誰だね?! ――……はー…、白雪」

 そのうちあたしとの面白みがない関係が色褪せて感じられるようになって――……などと滔々と言葉を紡ぎ続ける彼女のくちびるを、縦方向に摘んで強引に噤ませた。
 成程、件のブックカバーに覆われた書物の中身は閲覧せずとも大体把握できた。つまりそういった内容なのだろう。慎ましくも安定した恋をしていた主人公があるとき鮮烈で個性的な新たなヒロインと出会って真実の愛を得る……とか、そういった手合いの。


 なるほど、――聡いきみにしては滅多にないレベルの愚かさではないか。


「大した話ではないようで僕はいたく安心した。さあ、帰寮するぞ」
「た、たいしたはなしなの、あたしにとっては……! それであたし、すっかり動けなくなってしまって」
「ううーん……僕でも分かることが白雪に分からないというのはなかなか常にない流れだな。まあいい、一先ず帰ろうじゃないか」
「うそ、貴方、きっと分かってくれてない」
「確かに、或いはそうかもしれないな。なにせ僕たちが生きているのは創作物の中ではなく確たる現実世界であるし、そもそも僕はその"彼"ではないのでね」

 僕にとっては至極簡単に打ち捨ててしまえる議論であったということが分かった以上、もう此処で白雪と非生産的な問答に興じる必要はない。あとは恙無く彼女と帰寮し――勿論、僕の部屋に――、常の如く、二人の時間を満喫するだけだ。そう、常の如く。
 先刻白雪は、日常の安寧を、慎ましい小さな幸せを――其れ即ち、僕にとって決して揺るぐことのない一生涯における無二の財産を、言うに事欠いて「停滞」などと軽んじて寄越した。よりによって、僕の中で唯一絶対の価値を持つところの存在であるほかならぬ有栖川白雪自身を、「貴方に何ももたらせない存在だ」などと。これだけ此方が平生から想いを表出しているというのに、未だ彼女にとっては十全でないということなのだろうか。
 
 動けないというのであれば、動かしてやるしかないだろう。端的に「部屋まで抱えてお連れしようか」とだけ伺えば、ちいさく震えて――首を横に振ったのだろう――辛うじて否の意思を示してきた白雪は徐ろに帰り支度を始める。未だ僕の横暴に納得しきれていないらしいことが表情に滲む彼女に、然らばと情報を開示してやった。

「僕が欲しいのは、どういった経験だとか如何なる心情であるとか、そういった顔のないものではなくて」
「……?」
「常に白雪、きみ自身だということだ。白雪と過ごす時間であるから価値があるのだし、白雪によっておぼえる感情であるから大切だと感じられるのだ」
「……分からないわ」
「僕がきみから心変わりをすることなど万に一つも有り得ない、と誓うことは実に容易い。それこそ言葉の上であれば常にそうしている心算だし、――実のところ、それを誰の目にも、勿論白雪、きみ自身の目にも確固たる誓いとして認めさせ得る手段だって執ろうと思えば幾らでも執れるのだ。きみが僕を信頼してくれている、と僕は考えているから、現状そこまではしていないというだけであって」
「ゅ……?」

 そこまでで"今は"やめておく。
 常にない気落ちと詮の無い熟考、それから先の僕の発言に対する咀嚼でキャパシティを一杯にしてしまったらしく少々素の幼さが発露した白雪の頭にぽんと手を置いて、「そろそろ出よう」と告げる。
 依然としてすっきりしない表情をしている白雪は、唯一鞄に入れないで出したままにしていた件の本を僕に突き付けてきた。

「僕は結構だ、白雪」
「清多夏さんは真面目で優しい良い子だから、たぶん読んだらあたしと同じ気持ちになってくれると思うの」
「……嗚呼、白雪にとって僕は未だ斯様な評価で通っているのだな」

 固辞し続けても退かないであろうことを察し、一先ず本を受け取る。読むかは保証しないぞ、と保険は掛けたが。恐らくこれ――そもそも白雪を落ち込ませた時点で僕にとってこの本は仮想敵に他ならない――を僕が読んだところで、どれだけヒロインが魅力的に描かれていようが心情が揺れることはない。精々デートシーンだけ拾い読んで白雪と外出する際の参考にする程度が関の山である。
 生憎と僕は白雪に持ち上げてもらえるほど道徳的なものでもない――少なくとも、白雪自身に関わることについては。

「つまり、きみが僕について心配するということは、だ」
「うん」
「きみ自身、それこそ今後他の輩に心変わりをすることが有り得るという前提があるわけだよな」
「えっ、…えっ……?!」
「とはいえ安心してくれたまえ、僕は白雪が先刻気落ちしていたように、嘆いたり憤ったりすることはしない」
「あ、あたし、そんなことしないもの」

 なにせ、この先きみが誰ぞに想いを移すことがあったとして、そしてそれこそが本当の愛なんぞというものであったとして。
 そうであったとしても、僕が白雪を手放すなどということはたとえ仮定の話であっても有り得ないことだからだ。それこそ、如何なる手段を以てしても此方へ縛り付ける大義名分を得ることに躊躇いなく踏み切る自信がある。倫理を問われようが、己の肩書を思い出してみよと謗られようが、きっとその時ばかりは何をも擲つだろう。疑いようなく有栖川白雪こそが、僕にとっての超法規的存在であるからだ。
 
 ――などと、敢えて今のうちから告げる必要もないだろうから、そこまでは開示しないでおくとして。

 二人で今一度戸締りを確認して、夏の夕暮れらしいしっとりとした空気が満ちる廊下へ踏み出す。
 先の僕の言葉を最後にまた軽く思索の海に身を浸しているらしく僅かに俯いたままの白雪を眺めているだけでも、僕はこのうえなく満たされる。なにせ今、彼女は他でもない僕のことを考えてくれているのだから。もっと言うのであれば、今回白雪がふとしたきっかけから気落ちしたのも、(起こり得ない仮定を持ち出されたことについては甚だ遺憾ではあるにしても)僕が彼女から離れていく可能性について真剣に憂えてくれたからなのであれば。


 愛を、感じるではないか。
 正しく、彼女からもきちんと僕を想ってくれているのだと思えるではないか。
 饒舌にもなるだろう、どうあっても嬉しいのだから。


 世間一般の目から見れば、平生のこの僕の思考をすべて開示した場合、おそらく僕はおかしいと判じられるのかもしれない。
 だから表にこそ出さないが、――根本にあるのは至ってシンプルなもので、つまり僕は純粋に白雪ひとりを愛しているし、だからこそ白雪から愛してもらえていると分かれば純粋に嬉しいのである。この部分だけを表出していれば、なにも問題はないように見えるだろう。

「この先も僕が望むとおり、白雪が傍に居てくれて、常の如く幸せな日常が続くことを仮に『停滞』であると表現するのであれば、だ」
「ん、……?」
「僕はその停滞の中にきみをずっと囲ってしまいたい位だ」

 これだけは、言っておく。

 多少強い物言いを用いたのは、それで平時の僕と区別をつけてもらうため。平生から滔々と巡らせている思考のうちで其処だけをオープンにしたのは、これを以て白雪の冒頭の杞憂への回答にできる部分であったからだ。

「……ぅ、なんか、ごめんなさい」
「何がだね」
「いきなり訳の分からないこと、自分でもよくわかっていないこと、ぶつけてしまって。戸惑わせてしまったでしょう」
「構わないさ」

 彼女が何処まで僕の本気を汲み取ったかは知れない。ただ、望まれれば望まれるぶん、こちらにはいつでも開示する準備はできている。
 今回は切り口が切り口だったので少々取り乱したが、蓋を開けてみればなんとも愛らしい感情の発露であったし、現に今の白雪は顔色も持ち直していた。よかった。――彼女が早まったことを言い出して、僕が日常を取り繕えなくなる前にきちんと収拾がついて、よかった。

 吃驚させてしまったお詫びに夕食はうんと頑張って作るわね、と息巻く白雪。嗚呼、僕は最初からその言葉が聞きたかったのだ。
 

//20160802


 少なくとも学生である間までは、きみを自由にしておいてあげたいと考えているのだ。
 くれぐれも不用意な発言には留意するように。

 夕暮れに佇む冗談と言霊の境界線。踏み外すときは一瞬なのだから。


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