text (よめたま!) | ナノ








 大切な話、だと。そう石丸は切り出してきた。

「……どういった手合いのお話なのかしら。そんな深刻げなお顔をされるほど大切なの?」
「当然だ。――少し前に実家に帰った際、両親に相談してみたのだ。……やはり、きちんと筋を通さなくてはならないと言われたぞ。まずは先方にご挨拶に伺うべきであろう、と。無論、僕もそう思う」
「うん? 筋を、通す?」

 汗をかいたグラスの中で、透明な炭酸水に浮かんだ氷がカランと音を立てる。
 眉間に深く皺を寄せて、唇を堅く引き結んだ彼の表情は学生時代の未だ"風紀委員"であった頃のそれに酷似していた。場違いにも懐かしさを覚えながら、有栖川は知らず己の唇に指を触れさせていた。乾いている。無意識のうちに己にも彼の緊張が伝わって来ていたらしい。

 学生時代――厳密に言えば希望ヶ峰入学後間もなく、か――から数年来、成人してからも尚続けてきたこの甘やか且つ穏やかな関係。而してそれは、今や最早古びた言い回しのようにも思えるけれど、所謂「永すぎた春」と形容され得る可能性をも秘めていた。そういえば交際を始めて丁度5年くらいなような気もしないではない。自分の少々レトロめいた趣味嗜好を呪い始める有栖川白雪であるが、もちろん三島由紀夫や伊勢正三を恨むのはお門違いであると理解しているようである。ちなみに件のシングルが発売されたのは某超高校級の幸運たる少年の誕生日でもある。『ちびまる子ちゃん』のブー太郎の誕生日でもあるらしい。閑話休題。
 ショックが大きすぎてかどう考えても今この場に必要でない雑学までもを脳内の膨大な知識量から垂れ流しかけていた有栖川、そこで漸く我に返る。「――きみにとっても、無論、これは他人事ではないのだ」と念を押すように此方に僅か乗り出す石丸を真正面に捉えて、平生自然にゆるゆると浮かべている微笑――殊に彼といると猶更である――を抑えた。



「あたし、……やあよ」



 許容と抱擁のひと、有栖川白雪。
 斯様に拒否の意を口にすることはそれこそ竹の花が咲く程度には珍しいことであった。

「……は、…へ、白雪、いま、きみ、何だと」
「いやよ、絶対に嫌ですからね」

 鳩が豆鉄砲(モデル:12cm30連装噴進砲)を喰らったような表情、とは丁度いまの石丸のようなものなのかもしれない。流石に鳩にロケットランチャーをぶちかました経験なんかはこの超高校級の"巫女"にも無かったりするけれど。兎に角。
 有栖川が今回の「大切な話」を二つ返事で快諾することを当然であると考えていたらしい石丸、そこで盛大にのけぞる。うはほぅ!って貴方。直前まで如何にシリアスな空気を作っていたとしてもそのリアクションの前にはすべてが無力であった。なんとはなし、有栖川の肩の力も抜ける。

「な……ッ、否、待て、待ちたまえよ白雪、嫌だとは何だね嫌だとは。今更どうしてそんな無体なことを」
「今更、……?」

 もっと早ければともかく、今となっては遅すぎる、という意を表す――以上、大辞典より抜粋。小柳ルミ子は関係ないだろうから恐らくは文字通り解釈してしまって差し支えなかろう。今更になってふたりの愛がしゃぼん玉であっただなんて冗談にしてもタチが悪すぎる。
 今更、とは。つまり、石丸は本日ここで邂逅するより前の時系列に於いて――ひらたく言えば、以前に――既に有栖川に対して今回の話、即ち別れ話を切り出していたというのであろうか。そしてことも有ろうに有栖川、それを別れ話と認識していたにしろいなかったにしろ、承諾してしまった事実があったのだろうか。だとすれば石丸清多夏という男、社会の荒波に揉まれてどこまで大人になってしまったというのだろうか。よもや人心掌握のプロ――などと言うと途端に自分に陶酔している感が出てきて非常に香ばしいものである――であるこの"巫女"有栖川白雪に対して、如何なる搦め手を以てしてさりげなく、何をかにかこつけてか別れ話を切り出したというのであろう。己の気付かず内にして。最早感嘆の念すらおぼえる。

「え、……え、白雪、……そんな、だって、きみは元来ずっとその心算で居てくれていたのでは無かったのかね? 少なくとも僕は今日までそう思っていたというのに」

 そしてどうして別れ話を切り出した側が泣きそうな顔で慌てているのだろうか。心なしか幼さを帯びたような言動は、学生の時分からさして変わらぬ石丸の心から困ったとき特有のものであった。そのような折、有栖川はきまって大の男である筈の彼の頭をかいぐりしながら「しかたのないひとね、だいじょうぶよ」と優しい声音で呪文のように唱えてやるのが定石になっている。この幾年でもう数えられないほど繰り返されてきているその応酬は最早条件反射レベルであり、この場に於いてもやはり有栖川は片手を伸べつつ一瞬腰を浮かせ――そして、はたと気づく。

 いえ、可笑しいわ。一寸、お待ちになって。
 ――どうして別れ話を切り出された側が、切り出した側に気を遣わなくてはならないの?

 脳裏に広がる無限大の彼方を縦横無尽にひた走る思索回路は半透明のチューブ型をしており、その間をスケートボードに準じる何かで爽快に滑り抜けてゆく――などという実際スタイリッシュな思考方法を執らずしても、その言い分はいとも簡単に心中に降りてきた。主人公でもないのにロジカルダイブが使用できる筈もないことはさしもの”巫女”とて承知しているし、そもそもスノーボードにすら乗れないのにイマジネーションに成功し得る訳がないのである。チッうるせーな反省してまーす、でおなじみの某スノーボーダー氏は舌禍を転じて今では立派な人物となり得たらしいが、どこかの世界線でどこかの誰かはうっかり「死体なんか」とか「お前らのでっちあげなんだ!」とか言っちゃって結構ホンネの部分は下衆いんじゃないですかね疑惑を噴出させているとかなんとか。何の話だったか。閑話休題。
 完全に混乱したところからなんだか久々にふつふつと沸いてきてしまった怒りを湛え、有栖川はキッと顔を上げる。対面している先の石丸が「ひ」と小さく洩らして僅かに身を退いた。ひ、って何なのよ。何なら屋上に行こうぜ、久々にキレちまったよ……とでも言いたくなるのを持ち前のレディライク・スピリットでからくも抑え、軽く睨みを利かせてやる。どこからかBGMがフェードインしてくるかのような高揚感、♪議論-HEAT UP-である。

「――清多夏さん、貴方がいけないのよ」
「ぼ、僕が?! 何故だね、僕はきみに不義理は一切していない! 天地天明に誓ってもいい!」
「あら仰るわねえ……確かに"そういう話"に気付けなかったあたしにも非はあるわ、ですけどねえ、元来"そういった話"って至極デリケートな話題じゃない、それをあたしがそれと感付かないように敢えて婉曲した貴方のほうが余程宜しくないとあたしは思ってよ?」
「か…感付かなかっ……た……?」
「当然じゃない! でなければこんな日までずるずると情けない真似を晒してきているはずがないじゃない……あたしが殊あたし自身に関わる問題に関してはまっこと鈍いタチだって、清多夏さんはご存知で居てくださっていると信じていたのに! 何年の付き合いだと思っておられるの……?!」
「な、ぇ、白雪……? きみをそこまで常になく激昂せしめてしまうほどの所業を、僕は知らず知らずのうちにきみに働いてしまっていたというのだろうか……済まないがまったく、その、身に覚えが」
「と、いうか、"そういう話"を貴方があたしに切り出した、あたしの意識が伴っていないという前提はあるにしろあたしが何故かそれを受け入れた、だとするならその日から今日までの貴方のあたしへの態度は一体どういう訳なのかしら」
「はあ?! そ、その…いけなかった、のだろう…か……?」
「配慮に欠けているわ、思いやりに欠けているわ! 仮にも貴方はあたしに……ええそうよ、長年ここまで連れ添ってきたあたしに対して"そういう話"を切り出した立場なのだから、それ相応の誠意は見せてくださって然るべきなのではなくって? そう、言うなれば『最後の思いやり』とでも言うべきものを!」
「さ、……最後、の? 思いやり……? ぼ、僕は僕なりに白雪を大切に思い慈しんでいた心算、だったのだが」
「それがいけないと申しているんでしょう!」
「ええ?!」

 カウンターの奥でカップを磨いている店主、有栖川の机ドンにも石丸のオーバーリアクションにもまるで動じる素振りもなく溜息をひとつ零す。まーた彼氏が何かやらかしたのかな、学生時代からいつもこれだよ。
ランチ・タイムも終了し、流行りの夜カフェサービスを始めるまでの一番客足が遠のくこの時間帯、幸運にも――店主にとっては哀しき快哉(嬉しい悲鳴、の対義語的な意味で)と形容すべきであろうか――店内に居るのはこのふたりと己のみであった。花の十代を爛漫に咲き誇らせていた折から僅かの翳りすら差さない瑞々しい美貌を悲嘆に歪ませながら、亜麻色の髪の乙女はレトロ映画のヒロイン宜しくかぶりを振って涙の滴を煌めかせる。

「どうして貴方、"そういう話"を切り出した相手にまで優しく振る舞ってしまったの! だ、だってそんな……恋人であった女性に”そんな話”をしたあと、今までと変わらない態度で接し続けたら相手側がどう思うか清多夏さんにはお分かりにならないの? あたしが滑稽だとは感じなかった?」

 さて、ここで。
 話の筋はまったく追えないものの有栖川の発言にウィーク・ポイントを見出したらしい石丸が漸くその紅蓮の瞳に闊達とした炎を灯した。なんにでも噛み付いてはいけないわ、という目の前の彼女からの長年の教えは残念ながら現在余裕ゼロの状態ゆえポイされている。

「し、しかしだな! 僕としては、幾ら"そういった話"を交わした間柄であるとはいえ、急に態度を変えてしまうというのも如何なものかと思ってだな、」
「そうね、清多夏さんは昔からずっとあたしには優しくしてくださっていたわよね――でも、それは明らかにこの状況下に於いて可笑しいことだって考えなかった?」
「っむぅ……! いや、だが、でも! "そうと決まった"からと言ってホイホイと掌を返すような真似をすれば白雪に幻滅されてしまいかねないと僕は考えていたから、」
「その優柔不断さが男らしさに欠けているのだ、とはっきり申し上げないとお分かりにならないかしら?!」

 男、石丸清多夏。白詰襟や上等なブレザーをスーツに着替えても未だ変わらぬその姿勢の良さですっくと立ち上がれば。
 女、有栖川白雪。さながら数多の信者たちの前に立ち教え導くときのように凛とした空気を纏い音も無く離席して。



「別れ話を切り出した相手に下手に優しく振る舞うのは罪だってなんでわかんないんだよぅばかばかばかばか!」
「結婚が決まったからといって『釣った魚に餌はやらない』だなんて横暴を、白雪に対して僕が行えると思っているのか―――ッ!!」



 次の瞬間、ふたりの咆哮はこれ以上ないほど綺麗なタイミングで重なることになった。

 ……ご両人、ほんとに仲良いのな。
その場に降りた完全なる沈黙の間を、店主のますます深くなった溜息が通りぬけてゆく。



「……別れ話?」
「……け、っこ…ん?」



 示し合わせたかのように再び重なる声色。放心すると共にへなへなと脱力し、元通りチェアへ腰を下ろす頃合いすら同じ。石丸の紅い瞳はますますぐるぐるしだしたように思えるし、さきほど繕いきれていない素が思いっきり露呈していた有栖川のほうは完膚無きまでにパニックに陥っているのか薄笑いすら漏れ出している。あらあらうふふ? 知らない子ですね。
 なんと、今回いち早く理性を取り戻したのは石丸のほうであった。「ま、待て、待ちたまえ、頭が痛い」と眉間を指先で押さえて暫し、「待ってくれ、整理したい」と絞り出された声色は最早疲労困憊の色に染まり切ってしまっている。

「…白雪。有栖川白雪くん」
「ひゅい」
「……お返事はきちんと、だ。旧姓、有栖川くん」
「きゅっきゅうせ、ひ、ひぇー! んにゃあああ、ああああああ」
「あああ済まない錯乱させてどうする僕の莫迦! ……兎に角、だ。白雪」
「は、ぃ」
「きみは今、……その、僕の聞き違いでなければ、だ。"別れ話"と、言ったのかね?」
「ん」
「僕が、きみに、別れ話を切り出したのだと」
「んぅ」
「……ええと」
「きよくん」
「な、何だね」
「……は、いま、けっこんってゆったよね」
「落ち着きたまえ。『昼』のきみに戻って貰いたい、今の間だけでもお願い出来ないかね」
「し、つれいあそばせ、……うぅ、清多夏さん。先刻、確か貴方、"結婚"って、仰っていたわねえ」
「ああ」
「…結婚が、決まった、って」
「そうだ」
「誰と、誰の? 響子さんとさやk「僕ときみの、だ」」
「……パードゥン?」
「〜ッ! 僕、石丸清多夏と! きみ、有栖川カッコ旧姓カッコ閉じ白雪くん、の! だッ!」
「きゅ、きゅうせ、」
「いい加減に携帯電話じみたバイブレーションを止めたまえ石丸夫人カッコカリ!」
「な、









 ――なんでそうなるんだよぅ!!!!」
「僕のほうこそ聞きたいぞ、どうしてあんな滅茶苦茶な勘違いが出来たのだね?!」


 未だかつて、結婚をモチーフに構えた物語において「プロポーズから始まらない」どころか、「既にプロポーズが済んでいた(らしい)」などという幕開けが存在していただろうか。
なにが完全記憶能力者(笑)だ、と有栖川白雪は今でもこのエピソードを語るだに自嘲する。だって、よりにもよって自分の人生において指折りのドラマティックなシーンであるであろうプロポーズの瞬間を、自分はまるっきり覚えていやしないのだから!


・石丸夫人、カッコカリ

//20140421

「……んにぃ」
「もとに戻っているぞ、白雪…一先ず僕の部屋へ引き上げよう」

 亜麻色の髪を、指先で梳くようにして優しく撫でて先を促す。
 伝票を差し向けてきた仕草こそ平生の丁寧なそれであるものの、石丸の目がいやに据わっていたことには店主のみが気付けることであった。

 まあ、そこまで含めて「いつものこと」ではあるのだけれど。


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