text (よめたま!) | ナノ








 ――それは、大きなしあわせへ歩んでいくふたりの、それ自体しあわせな道程。



♪たたたたーん、
♪たたたたーん、
♪たたたたったたたたったたたたったたt「うわああ済まない白雪止めてくれ……ッ、ぐ……ぅうううッ!」



「あらあらまあまあ――……大概、難儀なかたよねえ貴方も。学生時代から何かにつけつくづく感じていたことではあるのだけれど」
「ぐすっ……ぅ、だ、だって…ひぐッ、ぼ、くとてッなッ泣きたくて泣、いている……わ、訳では……ッ!」
「はいはい、落ち着いて頂戴」

 ついにはダイニングテーブルの下に潜り込んで盛大に嗚咽し始めた清多夏さんを後目に、どうやら今日のところは「特訓」も打ち止めておく頃合いであるらしいと判断した。
 据え置きのCDプレイヤーから取り出したディスクには、彼の筆跡――学生時代から変わらぬ、歪み乱れの僅かにもない筆致は、而して嘗てのように「遅刻厳禁」「清掃週間」などと四角四面の文言ばかりを綴っていた頃より遙かに広まる心をその基にして――で、「精神修養 涙腺強化用」と記された簡素なラベルが貼付してある。――さらに微笑ましいことには、ラベルの下に小さくこう付記してあるのが何とも、こう。


 「メンデルスゾーン、結婚行進曲」。


 それは、いま現在ダイニングテーブル下で団子になっているところの彼、半年後にあたし……改め有栖川白雪、との結婚を控えている存在、石丸清多夏さんにとって目下の克服課題――なんと清多夏さん、婚約してからというもの何時如何なる時でもひとたびこの曲を耳にしようものなら即座に感極まって号泣してしまうようになってしまったのだ!――であり、同時にまた、式には必ずこれを、と彼本人が強く希望を寄せたところの曲でもある。
 式場見学のときに発覚したそのゆゆしき事態(誰だって平穏無事な夕餉に偶然流れたテレビCMが切欠で突如として滂沱されたら驚くと思うの、)を重く受け止めたあたしは、以降ことあるごとに「楽曲を別のものにしたらよいのでは?」と至極建設的な妥協案を提示している。

"メンデルスソーンでなく、ワーグナーの結婚行進曲でエレクトーンをお願いすればよいのでしょう"
"……何か、違いがあったかね"
"ほぅら、もうひとつ定番の旋律があるでしょう。メンデルスゾーンがたたたたーん、たたたたーん……って出だしなら、ワーグナーはたーんたーかたーん、たーんたーかたーん……って。地味な入りをするほうよ"

"嗚呼、――……否、駄目だ。断固却下する"

 しかしながら、そのたびにやたらとはっきり拒否の返答を賜る。如何なる要素が彼に、このような非生産的な特訓までを強いた上で敢えてメンデルスゾーンを選ばせしむるのか。試しに、と渋る彼を宥めて聴かせたワーグナーには、予想通りまったく反応せず平然としていたというのに。


「はい、お茶。もうじきご飯ですからお茶請けはいいわね」
「むぅ……白雪が手ずから飲ませてはくれないのか」
「御免なさいね、丁度いいところなの。仮装大賞」
「……知ってるんだぞ、それは昨日の録画ではないか…不服だ」

 あら、出てきた。
 湯気を上げる湯呑みをダイニングテーブルの向かい――彼の定位置、に置いて頬杖を付けば数分も要さぬ新手のフィッシング。遠くのほうで環境音作りに一役かっている、惰性で流しっぱなしの特番になんとはなしに目を通しながら、ごそごそと鳴るテーブル下の衣擦れに思いを馳せた――かった、のに。


「構ってくれたまえよ、奥方」
「まあ! ……あらあら、稚気めいていらっしゃること」
「何とでも言うがいい」

 清潔感のある漆黒の短髪が覗いたのは、向かいではなくこちら側であった。いつの間にやらテーブルの下を潜ってあたしの足下にまで進撃してきていたらしい、彼において非常に珍しい不意打ち。
 座ったままのあたしの腰を強く抱き、懐くようにして離れない。お腹にぐりぐりと押しつけられる彼の顔は、いま一体どのようなお顔をなさっているのかしら。仕方なしに――なんて、冗談よ――頭をかいぐりして差し上げながら、あたしは既に形骸化しつつあるような気がしないでもない問いを今一度、呈してみることにする。

「ねえ、清多夏さん」
「……嫌だ、ワーグナーは嫌だぞ」
「あら驚いた、貴方が話を先読んでおられるだなんて」
「否、語弊があるな。ワーグナーが嫌なのではなく、僕はメンデルスゾーンの結婚行進曲がいいんだ。式の入場曲は絶対にあれにすると決めているんだ」

 はて。ご家族のご意向か何かだろうか。ことあたしが記憶している限り、彼のご家族が今回の式について拘っておられることはごく一般的な範疇のものを除いてそんなに無かったと思うのだけれど。それこそ、ゴンドラに乗って天井から入場だとか、ご当地のゆるキャラが乱入するとか、そんな手合いのものでなければ良かったはずなのだが。
 メンデルスゾーンなんて王道中の王道である。なにが彼をここまで拘泥させているのか。――ああ、そういえば、宥めたりすかしたり諭したり、と数限りなく試みてきたはずであったにもかかわらず、彼の言い分を訊ねてみたことは無かったのではないか、とそこで気付いた。

「どうしてメンデルスゾーンの結婚行進曲が宜しいの? 差支えなければ、教えて頂きたいのだけれど」
「……笑われそうだから話したくない。黙秘権を行使させて頂くッ」
「あらあ、可愛くないこと! 高校生の頃みたいな、なんでもあたしに教えてくださってなんでもあたしに聞いていらっしゃる直向きで可愛らしいあたしの清多夏さんはもう居ないのね……」
「白雪の事は今だって何でも知っておきたいさ。而して僕とてもう社会人だからな、相応に恥も畏れも知るようになったのだ――

済まないな、生憎と今ここに居るのは初々しさも可愛げもない、きみに与えてやれるものなど只管の愛と……僕の苗字、程度でしかないただの男だ」
「! まあ、」

 昔――高校入学後、運命的に貴方と結ばれてからあたしがずっと欲しかったものを、ピンポイントでくださるだなんて。こんなに素敵なことが、あるかしら。

「安心なさって、貴方は今でも十分に初々しくて可愛らしくてよ? 有難う御座います、ね。ここに居てくださって」


 ――そこまで言ったところで漸く顔をあげてくださった未来…ごくごく近い未来、の旦那さまへ、そう笑いかけた。
 あたし、貴方のお嫁さんになれてとっても幸せよ。



 これは、大きなしあわせへ歩んでいくあたしたちの、それ自体しあわせな道程。
 婚約してから――いえ、それにもかなり手間取ったのだけれど――実際に式を挙げるまで、こんなに大変だとは思わなかった。いかに世のフィクションがご都合主義宜しくのカット・オン・カットで作られているか痛感させられる思いである。
 而して、そうであるからこそ。其処には割愛しきれぬエピソードが生まれ、笑いが起こり、また穏やかな愛が育まれてきた。

 このお話は、そういった手合いのもの。惚気と言ったほうが適切、かしら?




 ずっと思い描いていた光景があった。
 それは何故か、平生の僕の思考回路からは大きく外れた趣向のもの。そうであっても――いつでも、その情景を想うだけで幸せに浸れた。

 古式ゆかしき白無垢姿ではなく、敢えての洋装。元来、儚げで少々幻想的な雰囲気を纏う白雪に、誂えたかのようにぴったりと似合う純白のドレス。顔の周りに繊細なレースが出るこのベールの名前は何といっただろうか――名称も定かではないくせに、僕の想像の中の白雪はいつでもそのベールを纏っていた。
 海が見える白い教会――嗚呼、僕も大概ロマンチストというか、少女趣味に毒されているのかも知れないな――で、潮風と陽光を柔らかくその背に受けて、この日一番、世界中の誰より美しいきみが、僕に微笑み掛けてくる。

『――あたし、貴方のお嫁さんになれてとっても幸せよ』

 参列席には、平生の僕がそうであるのと同じくらい滂沱している兄弟を皮切りに、希望ヶ峰学園78期生の皆。一人残らず、出席してくれていた。
兄弟と同じく感極まっているらしい舞園くんにハンカチーフを渡してやっている霧切くんの目元も薄ら紅い。いつも通り微笑んでいるのなんて、それこそ花嫁ひとりだけだった。

 フェイスアップの儀式を省略し、自然な流れで誓いのくちづけを交わそうとしたところで離席のタイミングを逃していたらしい苗木くんや不二咲くん、山田くん――写真を頼んでいたのだ――がカメラを手に駆けてくる。至近距離で白雪と見つめあったまま、静止した。ここは僕の想像の中で一度たりともスムーズに進んだためしがないため、恐らく本番でも同じことになるのだろう。
 きっと、当日もこうして苗木くんが絨毯に足を取られて転がってしまうのだ。

 そこには幸せだけがあり、僕の夢だけがある。いつしかそれが僕だけでなく、愛する彼女の夢ともなってくれたのだけれど。

 白雪と出会い、幸いにも結ばれ、そうして今に至るまで、ずっと温めていた幻想の背景にはいつも薄らと、ときに強くひとつの音楽が流れていた。結婚式にはこれだ、という僕の無意識が、想像の中にそれを強く焼き付けたのだろう。

 何度も何度も思い返した、きみとの理想の未来。
 それを実現できる今を獲得できたことを、心の底から幸福だと感じているよ。



 ――これは、大きなしあわせへ歩んでいく僕たちの、それ自体しあわせな道程。

 時に予想外の事態に狼狽え、些細にすれ違い、世の不思議に戸惑うことがあったとしても、そんなときでさえ、白雪が隣に居てくれるのであればきっと僕は笑っていられるに違いない。実際、彼女に求婚した――実のところ、そこについてもかなりの醜態を晒した経緯はあるのだが――あの日から今まで、僕はこうして身に余るほどの幸福を享受できているのだから。

 つまり、これからの話はそういった手合いのものだ。惚気と言われても致し方ないが、なに、此処まで付き合ってくれたのだから今更聞かないなどとは言わないでくれたまえよ?



・前略、しきれぬプロローグ

//20140224(Rewrite!)


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