text | ナノ

いつでもここは



「……まさか、この安全且つ堅牢たる学園内寄宿舎に於いて拉致される日が来ようとは流石のあたしも読めなかったわ。ええ、今あたし、とても驚いていてよ?」

 整然と、只管に勉学に打ち込むに申し分なき環境に誂えられているこの部屋で、而してこの対外的には生真面目一辺倒たる「風紀委員」の彼がごく個人的な事項に時間を割いてくれる。しかも、その事項の恐らくとても多くに、あたしという要素が絡んでいる。――とても、とても、面映ゆく幸せなことであった。
 寝台に腰掛ける彼の膝の上にて――この体勢のまま一緒に本が読めたり、勉強が出来たりするから、彼は所謂この「お膝抱っこ」をとても好んでいるので――、あたしは先刻から段々と力が籠り始め苦しいほどの腕の締まりと裏腹に一言も口を利かない彼へ言葉を続ける。背中にぐ、と顔…とくに目元、を押しつけているらしい。じわりと湿ったように感じるのは、まさかまた泣いておられるのではないのか。きちんと整髪されている短い黒糸は、僅かに彼が身動ぎするたびにちくりと刺さる。まるで、あのとき響子さんとさやかさんで週末の話をしている間じゅう感じていた、それこそ彼の視線に刺されていたときのように、ちくりと。

「白雪は、」
「はい」
「……白雪は、――僕の、白雪なのに」

 最近気付いたことだが、彼はあまりに自分の内的な事情に関わることになると、日頃の勉学によって培われたボキャブラリーの大半を喪失してしまうらしかった。なにを言いたいかは、分かり過ぎるほどによく分かる。だからこそ、「清聴せよ!」の一言など無くとも今こそ清聴せねばならぬ時なのだと察せられる。彼の本心を、聞き洩らしてはならない。
 すまない、わかっているんだ、と物分かりのよい科白が、ぜんぜん割り切れてはいないのであろう焦燥した声色に乗って届けられる。ねえ、どうか、ご無理をなさらないで?

「今日は、…僕だって、空いていたんだ」
「そうだったの、ね」
「……当然のように、きみに逢えると期待してしまっていたんだ」
「…そう、」

 背に押し付けられていた顔が、離れる。それから徐に、少し泣いたぶん水分が失われているのか乾いた唇が、あたしの髪を掻き分けて首筋に降ってきた。首への接吻は、――欲望のそれ、か。外気温との落差著しく熱い舌が唇の軌道を追うように這ってゆき、また帰ってくる。チョコレートなど塗っていない。甘さも何もないであろうただの薄い皮膚を、彼は執拗に貪っている。
 あのとき必死で遮ったさやかさんの提言通りのそれとまで行かずとも、結局こうして彼に首筋から鎖骨のあたりまでの領域侵犯を赦してしまいながら、あたしは手慰みに、未だきつく胴を拘束する腕――ねえ、貴方はこんな休日にも制服で――へと指先を絡める。

「白雪、きみは、……」
「……大丈夫、よ。清多夏さん、ゆっくり仰って。あたし、ちゃんと、聴いていますから」
「きみは、…僕が、どんなに白雪のことを好きか、きっと知らないのだ」

 秋も深まるこの時分、暖房をセットする隙もなくこの寝台へと下ろされていた身の上では些かに肌寒く、ましてや今しがたまで首回りを彼の好きにさせていたせいで唾液でぬらりと湿った肌が猶更に冷えて震える。それを察してか腕というより全身であたしを抱き込むような体勢に移行しながら、彼が続ける。

「本当は、きみが僕のことをいやになるくらい、縛りつけてしまいたい」
「まあ!」
「…こんな考えは不道徳だし不健全だ、なによりも非現実的だ。きみの自由を奪い、きみの意志を認めず、ただ僕の存在だけを注いで充たす。――そんなことが、許される筈がない。分かって、いるんだ」
「……そう、」
「僕は平生けっこうな朴念仁だと揶揄されてはいるがね、それでもやはり男なのだよ。――こと、白雪、きみのことに関して僕は自分でも呆れ返ってしまえるほどに様々な邪念を抱くことを禁じ得ず、それを抑え込んでいるのだからな」

 たとえば、それこそ、この寄宿舎の、僕の部屋の寝台に、括り付けてしまうとか。
 有栖川白雪は石丸清多夏のものだ、と、身体の何処かに所有元を書きつけておくとか。
 
 たとえば、たとえば、――いっそ、のっぴきならない既成事実を築いてしまう、とか。

「でも、貴方はそれをしない。……優しいひとだもの」
「――、僕は、白雪が好き、だからな」
「嬉しいわ。」
「在るべきこの日常のなかで、煌めくきみもまた、僕の愛しいきみだから。級友と戯れ、この国に少なくない者たちの心に深く根付くきみのことを、僕は見初めたのだった」
「まあ」
「それでも。――それでも、時折、僕は、未熟なゆえに、ひととして決して正しくは無い欲に駆られてしまう」

 今こうして、きみを半ば捕らえてしまっているように。

 後ろ頭をなぞるようにしてゆっくり滑る堅いものは彼の凛と通った鼻梁だろうか。ひそめるような呼吸音ののち、ごく、と彼の喉仏が鳴る音がいやに大きく聞こえた。

「ねえ、」

 あたしには、彼の真摯さに真正面から答える義務がある。
 このタイミングであたしが振り返るなどと思いもしない彼がそこ――あたしの頭うしろ、に自分の顔を寄せており、そこにあたしがほぼ180度で振り返ると何が起こるのか。

 ほら。
 たった数瞬、くちびるがくちびるを掠めて重なるだけでも、貴方はそうして身体を震わせて動揺するばかり。誰があたしを閉じ込めるですって? 名前を書くですって?


「――あたし、貴方にだったらいつ閉じ込めて頂いたって、少しも、いやじゃないのよ?」
「白雪、」
「名前だって、好きなだけ書けばいい。それと、あと、何だったかしらね。そうそう、"既成事実"も。もしくはそれより程度の過ぎたことであっても、――清多夏さんにだったら、あたし、何をされてもいいの。もとより、その覚悟でいるのよ」

 あたしは、とうにあたし自身のすべて、隅端に至るまですべて余さず、貴方に委ねてしまっている心算でいるのだから。
 少し前までなら、接吻などと距離を近づけただけでも精一杯と言わんばかりであった彼が、実際くちびるを触れさせてしまっている現状においてなお、変わらずあたしを抱き込んでくれている。彼の欲が、感じられる。それがとて
も、幸せだった。だって、愛するひとに求めて頂けることのどれだけ奇跡的なことなのか! 
 あたしは、知っているから。彼と一緒に、知ったから。

「わざわざ閉じ込めて頂く労など要さないの、だってあたし、もとよりすすんで貴方に囚われているから」
「……そんな、僕はそんな心算は」
「ええ。貴方はとても正しいひと。心のうつくしいひと。だから、この学び舎で共に級友と学ぶことを、あたしにも良しとしてくださっている。友人と絆を結ぶことだって、許してくださっている――今日みたいにね」

 けれど。だから。

「覚えていて。貴方はあたしを決して失わない」

 どうか安心して、あたしの手を放していて頂戴。

 貴方は、学業や研鑽を放り投げてまであたしに執着する必要は無い。あたしとはまた異なるニュアンスで篤い絆で結ばれている友人を遠退ける必要も、非道徳非人道と妄執とのジレンマに囚われながらあたしを囲おうとする必要も、無い。

 
「白雪、――きみは」
「ええ」
「何処までも……何時までも、僕のもので居てくれるのだね」


 愚問だわ。
 貴方の腕の中だけが、あたしが望んだ最も狭く甘い檻なのだから。


・いつでもここは(The sweetest confine)

20131130

 この広い世界のすべてが、愛するきみのための檻だと知った。