text | ナノ

きみがそんなふうに微笑むから



 時折、ひどい自己嫌悪に囚われることがある。

 自分ひとつ大切に出来ない人間に他人を想うことなど出来るらくもないと、自分を嫌いだと思うのは即ち自己のうちに成長点を見出しているからに他ならない、と、僕は考えるべきなのだろう。在るべき「風紀委員」として、自他の阻みなく常に正道を保たんとする人材として、そのように考えるべきなのだろう。――而して、僕は何も、「風紀委員」になりたいが為にこれまで努力研鑽を積んできた訳ではないのだ。好き好んで、「うわ、出た」と非好意的な表情で迎えられたり「また説教が始まった、」と疎んじられたりしたい人間は居ない。傷つかない訳があろうか。僕とて人間だ。
 向上心を持ち努力することが好きだ。自ら学んで知識を得ることが好きだ。同窓の級友が集う場に秩序と安寧をもたらし、少しでも多くの友が心豊かに生活できることを望む。それは、何も肩書きを得たからという理由に関わらない、僕の根底にある思考だ。
 僕の、自分の在り方に対する迷いは時折ふと現れては此処を揺るがす。ただ規律を遵守し教員師範先輩各位に従い、努力で才能を上回るべく精進するというだけのために身体を鍛え勉学をこなすだけが僕の存在証明なのではないか、と。才能に驕り、地道な努力や支えてくれる他者のすべてを軽んじた結果もろくも堕落していった祖父への敵愾心に駆られ、自分の内に目標を持たない――ように、周りからは見えるだろう――僕は、ひどく空虚で中身のない「薄っぺらい」人間なのではないか、と。



 夜中に起きていても碌なことを考えないものだ、とはよく謂われる通説であり、同時によく言った通説であるとも実感した。詮の無い想像だと、杞憂であると分かっていても一度沈まされた心はそう易々と戻っては来ない。
 我に返るまでに随分と時間を要したようで、薄暗さにも目が慣れている。部屋全体の照明を落とした中で僕が着座しているデスク周りだけが煌煌と明かりを灯し、椅子に腰を下ろした今の姿勢では寝台のほうまでは見通せない。自然と、腰を上げていた。


「――白雪、」


 シーツの海に身を預けて深い眠りの中を揺蕩う、僕の愛しい人。堪らずその名を口にするも、閉じられた瞼は僅かも動かない。それが確認できるほどに近しい距離に居ても尚、焦がれてやまない紫水晶の瞳に出逢うことは叶わない。
 今日も一日、勉学に励み級友と語らい、きらきらと煌めきを振りまきながら白雪は忙しそうにしていた。地方遠征に向かう運動部から頼まれた厄除けの儀も、月に一度のクラス総出での教室清掃も、恥ずかしくも疲労困憊を色に出してしまった僕に手早く作って供してくれた夜食も、すべてが僕の中に印象深く刻まれている。きみの傍らで見る世界は、いつもあんなにも鮮やかだ。だからこそ、――時折、ひどい自己嫌悪に囚われることがある。

 無意識に伸べていた手が、滑らかで繊細な亜麻色の髪に絡む。柔らかな指通りを感じながら、僕はそれでもこの上なくきみを遠くに感じている。

 きみが眩しい。きみが持つすべてを僕は愛している。だからこそ、僕は君の傍らに立つ自分をうまく愛せないでいる。
 きみは僕でいいのか。僕は僕でいいのか。否、と答えられようものならそれこそ僕はどうしたらいいのか分からないしどうなってしまうかも分かりやしない――白雪、白雪、白雪。ああ。
 


「ぅ、――き…よ、くん?」


 か細い、それでいて存在感のある澄んだ声が耳朶を打った。
 未だ覚醒しきらないらしい中で僕へ発された幼げな呼称は、彼女の中で有栖川白雪――超高校級の"巫女"、としての自我が薄まっているとき特有のそれである。起こしてしまった、不覚だった。

「…済まない、白雪。気にせず寝ていてくれたまえ」

 指を絡ませたままだった髪を、あやすように撫でる。儚いもの、やわらかなものを愛でるための指遣いも、力加減も、彼女を通しておぼえたものばかりであった。
 常の理知的な光が未だ弱いままの目には半開き以上に力が入らないようで、僕に頭を撫でられながら白雪は少しのあいだ緩慢な調子で呼吸を繰り返したのち――幾分か掛けて、僕の手を取った。

 寝ている間に水分を失ったらしい僅かに乾いたくちびるが、静かに綻ぶ。
 もう意志を取り戻している紫水晶の輝きが甘やかに細まって、蕩けるような笑顔が花開いた。



「目を、覚まして…いちばん、最初に、貴方が見えたわ。
 ――あたし、とってもしあわせよ」



 ここにいてくれて、ありがとう。


 何故泣くのかしらと問われても、泣けるのだから致し方あるまい。寝台に上半身を完全に預けた姿勢で、というより半ば白雪に覆い被さるような姿勢で僕は言葉も無く伏してしまっていた。結局は完全に目を覚まさせてしまったことに申し訳なさを感じないわけでは無論ないが、それよりも溢れんばかりの愛しさで分別を失くしかけていた。僕の天使。僕の幸い。僕の、――白雪。


 彼女の言葉はいつだって、砂漠に落ちる一粒の純水のしずくのように、波紋を寄せずただ広く深く沁み通っていく。彼女の言葉はいつだって、千載一遇の良書のうちのまさに探し当てた一頁の一行を指し示すように、僕がほしいものを与えてくれる。いつでも、何度でも、僕が望むだけ。
 きみは僕でいいのだと。自惚れてよいのなら、僕こそが、きみに望まれているのだと。きみの傍らに僕が居ることで、きみを笑顔に出来るのだと。
 微笑みひとつで、きみは矮小な妄執に囚われた僕を殺し、また、容易く僕に新たな息吹きを取り戻させてくれた。


 きみを愛し、きみに愛される限り、石丸清多夏はその存在を有栖川白雪によって肯定される。
 僕は、きみに、生かされている。


 きみ自身が、僕自身を――その肩書きゆえでなく、また、誰でもいい訳はなく――その傍らにと、望んでくれる限り、僕は僕自身をもまた、愛していられるだろう。 
 そうして、僕は己が根底を築くことをもまた、貫いてゆける。可憐で、高潔で、聡明な"巫女"の彼女の傍らへ立つに相応しい僕であるために、僕は自分が信じる道を歩むことに尽力するまでだ。


 僕の方こそ、有難う。そう口にして漸く顔を上げることが出来た僕は、彼女が言うには、笑っていたらしい。くせになってしまう程に心地よい、彼女の髪を梳く感触を勝手に求めた指が動き出すのに任せて――安心したら、眠くなる。人間の率直な反応だろう――幾刻見つめ続けても飽きることは終ぞ無いと断言できるほどにいとおしい、儚くも確かにそこに在り僕に向かって咲かせてくれている微笑を、強く心に刻んだ。

 僕という人間は、決して強いものではない。そのくせ、背負ったものを投げ出せるほどに根性や自負のない男でもない。この性根はきっと、永きにわたって僕を苦しめるだろう。しかし、もう大丈夫だ。僕の隣にはいつも白雪が居て、白雪のことは僕が護るからだ。
 きみに赦され、肯定され、愛される。きみを慈しみ、護りぬき、愛する。そこにはひとつの義務履行も理由も必要とせず、ただ愛だけがある。

 じきに、夜が明ける。
 僕は明日も「風紀委員」として――正道を往く者として、凛と前を向くことが出来るだろう。それは決して強制ではなく、己が義務感でも、自分の存在を保つための手段としてのそれでもない。そこには確固たる意志がある。愛するひとへ、誇れる自分で居るために。
 
 もう、大丈夫だ。
 


・きみがそんなふうに微笑むから

20131128

 きみこそが、僕のすべてなのだと。