パーフェクト・デート
往々にして、女性が交際関係にある男性に求める要素の上位に君臨するのは経済的事由である。それくらいは、平生皆から散々と朴念仁と呼ばれ扱われてきた僕にだって理解できている。だからこそ有栖川白雪、さん――全国各地に大いなる支持母体を持つ教団の"巫女"であるところの彼女に初めて思慕の念を抱いたときから、この想いの行先は十中八九絶望的なものになるだろうという予感はなんとなく、出来てしまっていた。
――だというのに、よもやこのような事態になるなどと、当時の僕に如何すれば予想出来るというのか。否、出来まい。
「理想の、デート」
最後の授業を終え、帰りのSHRまでの時間は誰にとっても一日の疲労を纏った緩い時間と化すらしい。かくいう僕も、きょう一日の授業の要点のみを簡潔に浚いながら不覚にも僅かな睡魔に誘われ軽く目を瞑りかけていたところであった。眼前でふわりと揺れた亜麻色に、広がる甘い匂い。彼女は滅多に――神事などでない限りは――香水などを好んで纏うようなひとでないからして、単に僕にとって彼女の匂いが甘く感じられるというだけの話なのだが。
席替えの運に恵まれてか現在ちょうど僕の真前の席に座してくれているところの彼女――僕の最愛、は、隣で雑誌を広げて歓談している朝日奈くんと舞園くんに話を振られていた矢先であったらしい。
「そうだよー、有栖川ちゃんにもなんかこー…あるよね? あそこ行きたいーとかこれやりたいーとか」
「とか、こうしてほしいなー…とかとか! ふふっ、後ろのひとはぐっすりお休み中ですから言うなら今ですよ白雪ちゃんっ」
誰がお休み中なものか。ばっちりと合った視線にも舞園くんは平然と笑んで寄越してきた。アイドルとは怖いものなのだな、苗木先生。寝ている(、という事になってしまった)僕への気遣いなのか舞園くんへの篤い信頼ゆえなのか――後者な気がするのが我ながら切ないが――振り返りもしない白雪が、「それなら決まっているわ」と淀みない声を挙げる。
「図書館でお勉強、一択ね」
「えー、定番じゃん…つまんないよう」
「定番で何かいけなくて? あれはあれで味なシチュエーションなのよ、葵ちゃん」
「ただ座って勉強するだけじゃないのー? そんなの全然アジじゃないっ」
朝日奈くんに「そうかしら? 困ったわね」と苦笑混じりの声を向ける白雪の表情までは、背後の僕には分からない。きっと、眉根を軽く寄せながらもあえかに笑んでいるのだろう。仕方ないんだから、と半ば口癖のように零しながら浮かべてくれるその笑顔も、僕の好きなそれのひとつだ。
「勉強している、ってだけで少なくとも周りは気を遣ってくださるわよ? 四人掛けの机に向かい合わせて座っていても相席には殆どならないわ、つまり二人だけの空間になるということ」
「わお、白雪ちゃんの語りが始まりましたよ。無駄にディテール細かくて怖いですー」
「さらに。校内で堂々とふたりきりでの逢瀬をしているというのに教職員各位から咎められることは先ず無い、どころか好意的に見守って頂ける地盤も養えるわね。互いに切磋琢磨し合う関係とは何たる健全な異性交遊の在り方か、…なあんて、ね。如何かしら、これって大きいと思わなくって?」
「で、でもぉ!」
「それより何より。――教科書片手にペンを走らせる清多夏さん、とっても格好良いのだもの」
――これにてめでたし、となって良かったのではないかと僕は思う。
これが小咄で僕が作者であるならここにエンド・マークを打っている。しかし生憎とここは現実世界であり、先刻僕を軽々と天国へと誘ってくれた彼女の反則級の殺し文句――格好良い、などと!――も朝日奈くんの「はいはい有栖川ちゃんにとってはいつでも石丸はかっこいいんでしょーが」との一言の前には空しく霧散してしまったらしい。大丈夫だ、きみの言葉はしっかり僕が覚えているから問題ないぞ。
「あ。白雪ちゃんこの特集見てくださいよ、ほら! ナイトクルーズなんて憧れちゃいませんか?」
「いっそ旅行とか! 私行ってみたいなー……有栖川ちゃん、温泉デートとかどう? 素敵じゃない?」
姦しく女性二人が挙げたのは、確かに女性誌にはよく取り上げられているであろうデートの内訳。華やかなそれらがもし、白雪の好むところであったならば。――それに応えられない僕は、どれだけ彼女に謝らなくてはならなくなるだろう。学生という身の上である、という最大の免罪符を抜きにしても、僕には到底彼女を喜ばせるに足る経済力の後ろ盾など有りはしない。
いっそ寝入ってしまえればよかった、と後悔するも遅く、先ほどから舞園くんがちらちらと此方を窺っている以上はそれを装うのも難しいようであった。
「……ディナークルーズは一生勘弁願いたい、わね。響子さんに相伴して馳せ参じたことがあるけれど――後にも先にも毎日一体ずつ毒殺死体が増えてゆく、なんて体験はあの船上でだけだわ」
ところが、白雪の反応はおおよそ予想されていた返答とは大きく異なるものであった。
「温泉も却下。婚前の男女が行くべき場所じゃないわ、――というのは建前八割だけれど、…実はそちらも」
「鉢合わせちゃったんだね、事件と…」
「霧切さん、ずいぶんと白雪ちゃんのこと頼りにしてたんですねー」
癒えぬ心の傷があるというのは労しいことであり、ゆくゆくは癒えるようにしてやらねばならないとは思うけれども。一先ず、恋人は華やかな施しを求めてはいないらしいと分かったことで僕は大きく安堵した。
「じゃあじゃあっ、何ならいーのっ!」
「ええ? だから図書館で「だめーっ! たまには新規開拓、しないとマンネリしちゃうよ!」……あら、あたしはマンネリって悪いと思わないのだけれど。刹那的な恋愛感情に踊らされるのなんて御免だもの」
「むー。白雪ちゃん、わたし今回ばっかりは断然朝日奈さん派ですから! 白雪ちゃんの理想のデート、聞くまでわたし帰りませんよ!」
帰らなくていいじゃないそもそも貴女きょうは清掃当番でしょうに、と答える亜麻色の頭がアイドルの細腕にはたかれてかくんと横に軽く傾いた。その発言が逃げであり、揚げ足を取って誤魔化そうという魂胆が隠れていることくらいは流石の僕にも分かる。意外にもこういうところに器用ではないところが僕の白雪の玉に瑕であり、美徳であり、僕が彼女に付け入ることのできる数少ない隙の在り処であった。
困り果てたような声色でちいさく「だってあたし、彼とふたりなら本当に何処でも」と漏らし――不意打ちは卑怯だ、とあとでじっくり説いてやらねばなるまいな――、さらにひと呼吸おいて、彼女はぴ、と片手を上げひとさし指を立てる。
「じゃあ、超芸術トマソンを探訪して歩きたいわ!」
「…は?」
「…へ?」
…ん? 白雪は今、何と言っただろうか。
「なにか異存があって?」
「い、異存とかって以前に、有栖川ちゃん……ゴメン、意味が分かんなかった」
「なんかよく分からないですけど…えっと、芸術鑑賞がしたいんですか?」
悔しいが、僕もさきの言葉には聞き覚えが無い。超芸術、トマソン。超現実ならサルバドール・ダリの名くらいは知っているし、僕たちは世間一般に言うところの超高校級だ。而して、超「芸術」。――己が不勉強を猛省する思いだ。
「――超芸術トマソン。住宅街や商店街、将又うらびれた道路脇にも時折目にすることがあるわね」
「あ、響子さん」
「どうも、白雪を数々の死体に行き合わせて豪華なデートを楽しめなくさせた犯人がおでましよ。――どこに通じているかも分からないドア、屋外に露出した蛇口、三輪車程度しか入りそうにないガレージ。白雪はそういうのが楽しい人なのよね」
そのとき、解説役は満を持して彼女の正面に現れた。余程気配を薄くすることに長けているようで、会話から一歩退いていた僕ですら気づくことができないうちに霧切くんは三人の会話を聞ける距離にまで肉薄していたらしかった。
成程。建築物に付随するものでありながら実用的価値のないもののことをいうのだな、超芸術トマソン。ひとつ、いい勉強になった。…ええと、それで? 時間の進みが平時より幾分も緩慢に感じられるこの座に粛々たる進行の要も無く、霧切くんを迎えて尚もデート談義は続くらしい。いい加減解放して貰いたそうにさらさら左右に揺れる亜麻色の毛先をずっと視界に捉えながら、今更他事に気を遣るでもなくなってしまった僕はせめてもの手慰みにとボールペンを手に取っていた。インクの残りが少ない。帰りに購買部へ立ち寄らなくては。
「なんでそんなのデートで見に行かなきゃいけないのー? 全然ろまんちっくじゃないよう」
「……白雪ちゃん、屋上にある古いはしご見て目きらきらさせてましたもんね。趣味は人それぞれ、とは言いますけど確かにデート向きではないかも知れないです。彼氏さんも楽しめないといけないじゃないですか」
「だって何処にも続いていないはしごよ? 明らかに存在意義のないものでありながら、あんなに雄々しく立っているだなんてもう感動を禁じ得ないと思わなくって? あたし、もう五枚も写真を撮ってしまっていてよ」
「公園なんかにも時々あるわね、野外に打ち捨てられている旧式便器とか明らかに設置場所のミスとしか思えない水道とか。そういえば駅前にも白雪が喜びそうなものがあった気がするわ、ここまで言えば石丸くんも分かるでしょう?」
「ああ、文具店の裏に石段があるな。しかも三段のみだ」
「なんですって、三段上り終えたらそれでおしまいだと仰るの?」
「いいや違う、きちんと下りも付いているッ!」
「素敵! まるで何のために存在しているのか分からない…しびれるほどの趣を感じていてよ、あたし――……ところで、清多夏さん…いつから起きておいでだったの?」
あ。
しまった、霧切くんがあまりに自然な流れで此方に話題を振ってきたものだからつい口を――否、言い訳はよそう。話が見えて、安堵してしまったのだ。触れたくともてんで掴めない彼女の「世界」に、漸く近づける思いがして気が逸ったのだ。
正直なところ、超芸術トマソンとやらの芸術的価値については僕の理解の及ばないところにあるような気がするが、それでも、白雪がくれた新しい世界のひとつであることに相違はない。彼女の傍でそれに触れていくことは、きっと僕に対して害になるものではないだろう。彼女の傍で、同じものを見て感じることが出来るのだから。
「いやだわ、あたしったら…恥ずかしい、貴方の前でこんなに熱くなってしまって。はしたないって思わないで頂戴ね」
「……共に、見に行こうではないかね」
「え?」
あーわたし昨日のDVD学習の感想文のシメを書いてないんでしたー急がなきゃー! わっ舞園ちゃんナイス私も全然書いてないや今日の放課後が最終締め切りだったよね? …そういうことだから私も席に戻るわね。
僕の申し出にきょとんとした顔になる白雪の後ろで、舞園くんの白々しい――と僕に悟らせるくらいなのだから彼女にしては相当大げさに演じてのけたのだと推察されよう――声に続いて朝日奈くんが慌ただしく雑誌を片づけ、霧切くんはこの座にやってきたときと同じように静かに去って行った。
「その、…僕も、きみの好きなものであるなら、一緒に見てみたいのだよ」
「……思い切り楽しんでしまえるあたしが言うのも何なのだけれど、きっと楽しめないわよ? 特に貴方は万事に意味を求めてしまうひとじゃないの」
「それでも、だ。…なに、どうしても楽しめないときには、楽しんでいる白雪を傍らで眺めているだけでも僕は十分楽しいからな!」
そうして、たまには購買部から足を伸ばして文具店でボールペンを購入するのもいいだろう。いま僕の眼前で綻ぶ花のように笑みを広げた白雪に、世間一般に云うところの豪華な施しなど僕にはしてやれるらくもない。しかし、揃いの文具を持つくらいのことなら、今してみてもよいのではないだろうか。白雪なら、それでもきっと喜んでくれる筈であるからだ。
「まあ! あらあら、本当に三段だわ、何処にも続いていないっていうのに! なんて遊惰な造形なのかしら……!」
「白雪」
「なあに? 清多夏さ――…あら! ……ふふっ、携帯電話のカメラ機能、覚えたのね。不二咲さんにでも習ったの?」
今はただ、ふたりで同じところに立ち、同じものを見て、同じ空気に触れていよう。そして、きみの好きなこと、新しい表情、様々に移る気持ちを知ってゆきたい。
身の丈に合わせるというのも悪い事ばかりではないのだ、と。裏通り特有の薄暗さを背景にしても依然損なわれない白雪の笑顔の輝きを未だ慣れないファインダーに収めながら、僕はささやかな幸せを噛み締めた。
・パーフェクト・デート
20131127