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指先で解く恋の魔法




 喩えるなら、宝石箱をそっと開いて上から覗いたときの高揚感。
 深海の青、コスモスのような甘い紫、ほっくりと温かい黄金色は食欲をそそる安納芋の焼き芋みたい。それじゃあこちらの小瓶はとろりと蕩ける苺のシロップかしら――なんて、どんどん食べ物方向に想像がいってしまうから、よくないわね。流石は秋。

 膝の上に「それら」を拡げて一人悦に入っていたあたしは、ついぞ自分が今どこに居るのかを失念しかけていた。はっきりとそれに思い至ったのは、自分の身体がお腹からひょいと抱えあげられてから。ぱたぱたと小さなお楽しみたちが柔らかい布地――寝台のシーツの上に落ちる音を聞きながら、あたしの身体はより定位置に収まることになった。

「もう、清多夏さんたら。ばらばらになってしまったじゃない」
「……む、済まない。きみが此方に背を向けていたから、てっきり何も持っていないと思っていたのだ」
「割れ物じゃないからいいのだけど。一緒にご覧になる?」
「僕が見て分かるだろうか」

 平生の凛と通った姿勢よりうんと崩した座り姿の彼の上に乗り上げている。この所謂お膝抱っこが清多夏さんはいたくお気に入りでいらっしゃるらしかった。こうして彼のお部屋で余暇を過ごす折には半ばお決まりのようにこの体勢で、一緒にお勉強をしたりご本を読んだり、何をするでもなくゆったり寛いでみたりとするのが日々の癒しであるのだ、とか。
 無言で睦みあう折には向かい合わせのことが多いのだけれど、今日はオーソドックスに後ろ向きのまま。背中に快い熱を感じる。緩くはあれど決して解けることはない両腕の拘束から免れた片手を伸ばして、散らばせていたそれらをもう一度拾い集める。

「化粧品、か」
「ええ。秋の新作なの、さやかさんや盾子さんが教室でお話していらっしゃるのを聞いたらなんだかあたしも欲しくなってしまって。うふふ、つい」
「……ふむ」
「あらあ、もしかして難しいお顔をしておられる? あたし、今この体勢だからよく見えないのだけれど」
「否、していない」

 嘘だわ。
 声に硬質のニュアンスを感じる。このようにふたりで居る折には滅多に顕現することのない、超高校級の"風紀委員"が元来帯びている空気だった。

 質朴剛健を自らの信条としている清多夏さんは、「学生として相応しい身形」というものにも確固としたご自身なりの美学をお持ちでおられる。打ち解けてきちんとお友達になったとはいえ、未だに桑田さんや葉隠さん、ひいては大和田さんでさえ彼から指導を受けている姿は日常的なものだった。女子であれば盾子さんやミス・ルーデンベルクかしら。大体総じて聞き流しておられるけれど。
 女の嗜みとしてあたしも実は多少の薄化粧は欠かしていない。肌を清めて整えて、紅をさしてお粉をはたく程度は。而してあたしとて曲がりなりにも女子であれば、やはり季節の化粧品に惹かれてしまうのは致し方ないことであって。

「魔女っ娘アニメとか意外に好きだったのよ、幼少期のあたし」
「……ん? 急に話が飛んだかね」
「いいえ、飛んでいないの。往々にして斯様なアニメで女の子の変身アイテムって、ステッキを除くとペンダントや指輪みたいなアクセサリーか、リップやコンパクトみたいなお化粧品の形をしていることが多いのね」
「ほう」
「女の子も自然に好きになっちゃうのよねえ。ほら、ケース一つとってもきらきらしていて可愛らしいでしょう。きっと小さなころから刷り込みをされているのだわ」

 膝に乗せ直したコンパクトや小瓶の数々から、マニキュアのボトルを指先で持ち上げて軽く揺らしてみる。

「……子どものころから好みが変わっていないということか」
「嗜好のレベルが育っていない、という意味ならちょっと怒るわよぅ? ……なんて、殊あたしに限っては当たらずとも遠からずなのかしら。あたしがお化粧品集めるのが好きなのって大半見た目が愛らしいからだし」
「実際に使おうというわけではなく?」
「まったく使わないというわけではないけれどね、勿論」

 身を起こしている必要は最早なかろうとばかり温かい両腕の拘束がやおら強まり、瞬く間にこの身は彼の捕らえるところのものになってしまう。
 風紀委員どのに、必要十分以上の化粧品の所持を認めていただくには如何すればよいか――なんて、基本的に清多夏さんは指導こそすれ非難はしない美徳をお持ちの御方ではあるのだけれど――俄かに思案しながら、マニキュアを持ったままの指先をそっと彼の目線の高さにまで持ち上げてみる。

「それは?」
「爪を彩るものね。さまざま種類はあるけれど――これは胡粉といってホタテの貝殻で作る顔料を用いているの、天然素材で優しいのよ」
「ふむ……」

 長く節のしっかりした殿方の指が、あたしの手から小瓶を奪ってゆく。「桜色か、」と色味を口にしながら暫く矯めつ眇めつしたのち、

「……成程な」
「え、気が済んだなら返して頂戴な」
「ああ、後で」

 ぽす、と軽い音。先刻も聞いたような音。あたしの手に戻ることがなかった小瓶はどうやら彼の傍らに安置されたらしかった。……暗に「没収」されているのかしら?

「どれくらいで剥がれるのだね」
「ええ……? ぇと、此方のさじ加減で直ぐに落とせるし長持ちさせることもできると思うけれど」
「白雪の爪はいつだってきれいな桜色だ。今も」

 何も持たなくなった彼の手でそっと捉えられる今のあたしの手指はまっさら。日常的に水仕事をする身の上としては、そもそも学校生活で用いようというよりは休日のちょっとおしゃれをしたいお出かけにでも彩りを加えようという程度の動機であったわけで。

「これは、何か塗っているのかね」
「今はなんにも」
「ではこのままで問題ないだろう。……僕はこの、きみのままの爪が好ましいと思う」

 ……その物言いは、確かに嬉しくはある。あるのだが。
 ここで譲ってはいけない。なにしろ初秋の散財の成果は未だ幾つも残っている。一つ駄目でも次を試す根性が肝要だった。離し難く深く指の交ざりつつある片手を放棄して、空いていたほうの手で次鋒を繰り出した。

「これは?」
「この秋限定の配色なの、アイシャドウね」
「……目に塗るものか」

 よもや常人以上の学識をお持ちの彼が、曲がりなりにも斯様な日常の雑貨を全くご存知でないなどということはまず有り得ない。彼にしては珍しいことに、敢えて知っていて惚けておられるのだ。
 まぶたに陰影を付けたり明るさを足したりするものだ、と注釈をしながら掲げたままでいたその小さなケース――フリルのスカートを模したように何層も重なったシャドウのデザインが愛らしい、今秋いちばんのお気に入りだった――が、先刻と同じように無理のない程度の頑なさを帯びた彼の手指に取り上げられてゆく。

「白雪の瞳の美しさは、何に飾られる余地も無く明らかだろう」
「瞳を飾るのではないわ、瞼だとか目尻だとかに施すものよ」
「むぅ、……而してやはり、僕としてはその天然の紫水晶に手が加わるのはどうにも抵抗が」
「……前々から思っていたのだけれど、清多夏さんて時々妙に詩的な語彙をお持ちでおられるわよね――って、もう! だから、返してったら」

 後で、って、何時よ。
 両手をとられてしまうわけにはいかない。背を預けたままの体勢で、その表情までもは分からずともそこは彼とあたしの間柄、すでに「没収」された物々には関心もないとばかりに清多夏さんの視線はこちらに向いているのは分かり過ぎるほどよく分かった。

 あたしが片手を遠ざけたことが気に入らないのか、未だしっかりと結ばれたままのもう一方をそのままに、この模範生たる有栖川白雪の僅かながらの遊び心を根こそぎ奪ってゆかんとされる風紀委員どのの指は、手慰みとばかりあたしの首をぺたぺたと撫でたり顎を軽く持ち上げたりと気紛れな猫でもあやすかの如く緩慢に動く。
 そのうち、平生は要指導対象を敢然と指し示す剛毅な人差し指が、あたしの素のくちびるを端から端で柔らかくなぞっては戻り、としはじめる。聞き分けのない子どもを宥めているお心算なのか。生憎と、此度折れていただくべきは其方のほうだ。きちりと切りそろえられた爪が清潔感と安心感をおぼえさせるその指先を、乾いたくちびるで食んで動きを止めた。

「此処に塗るものも有るのだろう」
「んむ、……当然。血色をよく見せようと思ったら、特にこれからの時季は必需品なのだから」
「その小さい筒状のものかね――……それこそ女児向けの玩具のように見えるな」
「保湿にも欠かせないし、荒れを防ごうと思ったら恒常的に塗っておくほうがいいのよね。折角だし今ちょっと塗っちゃおうかしら、清多夏さんそれ返して頂戴」

 というか、それと言わずさっきから貴方がちょっと遠くに隔離している「没収物」は全部ぼちぼち返していただきたい――と続けようと思ったところで、あたしの科白は呼吸と同時に立ち消えた。

 彼にしては多分に強引な所業。くちびるに触れていた指先で一際強くあたしの顎を攫ったかと思えば、もの寂しい想いをおぼえる間もないそこへ覆い被さるようなくちづけが降ってきた。
 押し開かれる合わせ目から侵入を許した舌が咥中で己のそれと深く絡まったのち、大きくくわえられるように捕らえられた上下の唇を交互に吸い上げられる。僅かの渇きも存在し得ない断続的な潤いを与えられた其処は、未だ加減を覚えてくださらない彼の情熱的な接吻により、霞む視界のなかですら先刻と比して赤く腫れたように感じられた。

「……ぃ、いきなり、なに……?」
「血色が良くなった。暫く渇きとも無縁だろう」

 十数分ぶりに仰ぎ見た清多夏さんの表情は、いっそ憎らしくなるほどに平生の凛とした日本男児のそれ。どうやら先のくちづけ、彼としては何も衝動的な行いではなかったらしい。
 くちびるから顎に伝うどちらのものとも知れぬ銀糸をこともなげに拭うこんなときばかり器用でいらっしゃる指が、発端となった薄紅色のリップグロスをあたしの膝上から直接「没収」していった。小筒とあたしの顔とをちらりと見比べ、そこで少々ご満悦そうな笑みを口端に浮かべておいでになる。

「うん、――これを塗るよりずっと綺麗な紅色だと僕は思うぞ」
「! いやだわもう、それとこれとは別でしょう」
「去年の冬は斯様な華美なものでなく、確か味のついたリップクリームのようなものを使ってやしなかったかね。白雪、今年もあれではいけないのか」

 そうして当然のようにリップグロスもあたしの微妙に手の届かない距離に追いやられた。そののち彼が「そういえば」然として呈してきた話題は、昨年の冬にあたしが採用していた蜜飴の色つきチューブに関して。括りはれっきとしたスイーツではあるけれど色がついていて、保湿もできる優れものであったのだ。あったのだが。

「……清多夏さん、あなた今あたしになさったことを踏まえてそれ、仰せでおられるの?」
「うん? 僕は何か白雪によくないことをしただろうか」
「ご説明しなくてはお分かりになられない? あのねえ、――あたしがあれ塗るたびにあなたが全部舐め取っちゃうから今年はちゃんとお化粧品にしたの!」

 平生そこまで甘いものがお好きだというわけでも無かろうくせに、昨年はとにかくその一件であたしは非常に苦労したのだった。お部屋で塗れない。教室でも若干危なかった――なにかと口実をつけてさも下心など介在し得ないという素振りであたしのくちびるを指で拭ってゆくのだ――し、二人きりで居る折などは最早塗ったそばから直接舐られた。とはいえ響子さんやさやかさんとお揃いで買ったものであったため端から使用しないなどというわけにもいかず、という恥じらいのジレンマが今年のあたしに無難且つ確固とした化粧品を選ばせしめたのだった。
 被害者側の背景などいざ知らず、「嗚呼、そうだったな!」などと快活に頷いて寄越す加害者どのの表情はいやに明るい。納得したぞ、では済まないのだけれどねえ。一連の流れの間に少々力が弱まっていた拘束から体勢を崩し、押収されていた化粧品たちへ一生懸命手を伸ばすのだがやはり届かない。残念、あと50センチほどあたしの手が長かったなら。

「……お化粧が、お嫌いなの?」
「うん?」
「どうしてお化粧品を目の敵になさるの」
「それは誤解だな、白雪。僕は何も世の女性がたが化粧をすることについては否定する心算など無いぞ」

 なにを勘違いしているのだ、と言いたげなきょとんとした声色をよそに、しっかりと指を絡めているのと反対の片腕はこれまたしっかりとあたしの手から一層獲物たちを遠ざけていく。50センチではきかない、あと1メートルくらい手が必要そうだった。

「それこそ舞園くんがステージに立っている際の姿は僕たちが日ごろ教室で見ている彼女とはまったく異なる華に満ちているし、江ノ島くんが一度に幾つもの雑誌の表紙を務めていたときには化粧一つで印象が驚くほど変わっているのに率直に感嘆したさ」
「! あら、本当に否定なさらないのね」
「ただ、学校はあくまで学業を修める場なのだ。それぞれの才能を活かす場であれば例外もあろうが、少なくとも日ごろの教室では僕たちは学生に相応しい身形を整えることが求められよう。それだけだ」

 お化粧も、お化粧をする女性も、彼は否定なさらないということだ。そういえば彼が風紀的指導を行うのは基本的に教室内、学生として活動する平日であることがほとんどで、休日の折などには余程目に余る場合を除いては多分に寛大でおられるのだったと思い出す。
 つまり、あたしもお休みの日などには目いっぱい着飾って彼のもとへ訪れてよいのだろう。合点がいくと同時に意地を張る必要もなくなった、とばかり元の通り彼の腕の中に納まるあたしもなかなかに現金だと思う。

「……とまあ、建前はそのような塩梅なのだがね」
「たてまえ?」
「これはあくまで個人的な、有栖川白雪の伴侶たる石丸清多夏として言わせてもらうが――……好きなときに好きな箇所に好きなようにくちづけられない、躊躇われるなり我慢を強いられるなり、というのは、純粋に僕が気に食わないのだ」

 たとえば指先。たとえば瞼の上。そして多くの場合はこのくちびるに。

「触れたいときに触れられる、というのは二人きりで居られる折には最大の幸いであり大前提なんだ。僕の我儘かもしれないが、……なんとか分かってもらいたい」
「き、きにくわないって」
「僕と白雪のあいだに隔てるものがあってほしくない、ということだ。そうだな、……少なくとも、こうして僕の部屋に居る折。あるいは、きみの部屋で過ごす折にもだ。最低でもそのときばかりは、そのままの白雪を愛でさせてくれ。……いいね?」

 これは亭主関白なのだろうか。而して、それと定義するには何かが過ぎているような気がしなくもない。いつでも素肌にくちづけたいので、化粧は控えるように、と。……斯様な動機での制限をされる女性が、この世にあたしを除いて如何程おられるものだろう。
 ことの斬新さに思わず詮の無い思索活動に陥りかけていたあたしは、返事がなかったことに不服でいらっしゃるらしい清多夏さんの「聞こえないぞ、白雪」との呼びかけがあるまで未だ腫れぼったいような気のするくちびるを半開きにさせながら暫し呆けていた。とはいえ、とはいえ――結局は最初からこのときまでひとたびと放すことなく繋いだままの手で、返答など知れようものだとは思う。

「沈黙は肯定と見做す――などと紋切り型の提言を適用しても差し支えないかね」
「……一つだけお約束して、清多夏さん」
「きみばかり縛っては平等ではないからな。何でも言ってくれたまえ」

「今年のリップグロスは香りしか付いていないから、舐め取ったりなさらないで頂戴よ」


 ――待てど暮らせど是の返答がないことに、今度はあたしが不服を示すべきかしら。


・指先で解く恋の魔法


20161119


「ファンデーションと白粉くらいはいいわよね?」
「それが一番だめだ。特に粉のがいけない」
「……ときどきあたしの頬にくちづけて噎せておられるの、もしかしてそれが原因?」