text | ナノ

深夜バスのはなし


※無印全員生存で未来機関設定


 深夜バスは料金が2倍になるから少し面倒だ、ということを知ったのはこの世界が「こんなこと」になる前。今こうして傍らに居る彼がまだ銃の扱いも権謀術数も知らないただの清廉潔白な風紀委員だった頃、そんな彼への恋慕など叶うらくもないと行き擦りに言い寄って来た誰某と少しだけ交流を持っていた、そんな時分であった。
 そんなことを、ふと思い出して目が細まる。あの頃はまだ、学生だったな、と。


「ん――眠いのかね、白雪」
「いいえ。少しばかり懐古に浸っていただけ、だわ」
「…よもや僕以外の者のことを考えていたのではあるまいな。否、恐らく図星だな、きみの事ならなんとなく分かるのでな」


 長い懸想の応酬を続け、長い絶望を経て辿り着いたこの安寧。「あれ」から随分と酸いも甘いも挫折も成長も、待ったなしの時流に味わわされて逞しくなってしまったこのひとは、執着を滲ませる科白を口にしながらも而して次なるアクションを取ることもせず、常の厳しく己を律するかのような表情を少しだけ歪めて眉を上下させた。そのあと顎をしゃくって此方に何事をか促してくる。詳しく話したまえ、とは確かに口出せずとも知れようもの。…だから、そういうのじゃないんですってば。
 
 アルコールを入れることを見越して、今日は彼は車で出社していない。彼が所属する支部のミーティングが終わるのを待って、外で一緒に遅い夕食を摂り、帰ってからでも出来るだろうに他愛ない雑談を交わしているうちに終電を逃してしまっていた。今はこうして、ひさびさの深夜バスの、いちばん後ろにふたり並んで掛けている。
 飲み会の帰りだろうか、酔いの回った背広姿のおじさまがたがしあわせそうに寝息を立て、恐らくはあたしなんかよりずっと夜遊びに慣れているのだろう若い女の子たちが前方の座席で声を潜めておしゃべりをしている、どこかひっそりとしっとりとした空気。――この世界が「こんなこと」になって、再び「こんな風」になるまで、長い時間と少なからぬ犠牲を要した。この時代に生きている人々なら誰しもそのような思いを抱えているのだろうに、結局はいま現在が穏やかであればよし、ということなのだろうか。
 そんな取りとめのない思案が緩く頭を巡る。少し、飲み過ぎただろうか。舌の動きも心なしか緩慢なように感じる。

「語弊があるわ、だって思い出していたのは彼個人のことでは無いのだもの」
「……彼、と言ったな。わざわざ僕の前で話を出すということは余程楽しい話題であるのか……それとも、」


 ――嫉妬を煽ろう、とでも?


 急に耳元に低い声が触ったから驚いてしまって、大声は出せないと咄嗟に声帯を縮めたら、ひゅっと細い息だけが漏れた。そんなのじゃないわ、と再度繰り返して僅かに身体を彼とは反対側に傾けた。

「……かえりみちのはなし、なの」
「ん?」

 一通りあたしを揶揄って満足したらしい彼は、左腕の時計に目を落としていた。あら何なのかしらねその薄い反応はつい先刻まで気にしてたのは貴方のほうだったじゃないの畜生この数年で当時の純朴さと初々しさを何処に遣ってくれたのかしら一回希望ヶ峰に帰れこの野郎。

「前…うん、"前"に少し、プライベートで交流を持った殿方がいたのだけれど――やだ怖い顔しないで最後まで聞いて頂戴よ、何もなかったわ勿論!――それで、そのかたと遊ぶ折にはいつも帰宅が深夜バスだったなあと、ただそれだけの話、なのよ」
「……」
「ええっ相槌くらいくださっても宜しいのでは! ……ええ、それで、あたしはバスだったのだけど彼は原付でしたから、いつもバスが来るまで一緒にバス停で待っててくださったのよね、なーんていうささやかな話なんです。これ以上でも以下でもなく」

 自分から釈明を求めてきた割には淡泊な様子であたしのひそひそに耳を傾け、成程な、と漸く納得したのだかそうでないのだか低く唸ったのち、足を組み直して(スーツに着られていた時分からすると、このごろの彼はずいぶんと行儀が悪くなった)再度ねめつけてきた彼の表情は明らかに拗ねた時のそれだった。早いところフォローを加えないと後になって少々面倒な事態になることは明白で、さらに言葉を続けようとしたとき、


「……それならば。これから外出するときは僕も共に白雪の帰りのバスを待とうじゃないか」
「うん?」


 いや、貴方ご自分のお車をお持ちじゃない。

「きみを見送り、然るが後に先回りしてきみを迎えよう。どうだね、僕のほうが気が利いているだろう!」
「……清多夏さん、今日、そんなに呑んでおられなかったわよね?」

 先刻のエピソードからどのように思案を巡らせてそんな突飛な発言に結びついたというのか、凡人たるあたしにはまったく理解できず、しかし彼があまりに真面目に言うものだから笑うのも躊躇われ、結局は心配をするに留まってしまう。あたしにも飲める程度の甘口のスパークリングワイン程度で彼が酔う筈もないことは、他でもないあたし自身がいちばんよくわかっていた。

「成程な、在りし日のきみはそのような男が好みだったのだな」
「……あ、そういうことなの? 合点がいったわ。あのね、それは違うわ。最後まで聞いて頂戴よ」

 そんなところで張り合ってくださらなくたって、あたしは端から比べるようもなく貴方のことが好きなのに。

「遅くまで一緒に居てくれたとて、別れなくてはいけないことそれ自体には如何すれど寂しさを禁じ得なかったわ。あのときあたしが二人掛けのシートでひとり感じていた感情たるや筆舌に尽くし難い、とでも言いましょうか。けれど、…今は違うの」
「何故だね」
「あら、それを聞いてしまわれる?」

 わかっておいでのくせに。
 軽く竦めてみせたあたしの肩に彼が腕を回してこようとしたのと、アナウンスが到着を告げるのが同時だった。二人並んで席を立つ。

 振り返って、それではさようなら、――などと言うはずもない。大人二人、という彼の声を後ろに聞いてタラップを踏む。
 見上げる高層の一室に、明かりは点っていない。これから点すのだ。
 

「答え合わせは部屋に帰ってからじっくり、させて頂くとするよ」
「ふふ、その必要はなくてよ」

 それが答えだから。


・深夜バスのはなし

20131125

 ふたりで帰る家だから、見送る口惜しさも見送られる寂しさも其処には存在し得ない。