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きみに、ひとつぶ




 穏やかな午後であった。
 職員研修に伴い短縮時制となった本日は昼食休憩すら挟まぬまま放課を迎え、降って湧いた「平日の午後」というフリータイムを希望ヶ峰の学生は享受している。3月14日。よもや市井のイベントに合わせて理事会が空気を読んだらくも無かろうけれど、なんとはなしに浮ついた空気が漂うのはたとえ”超高校級”との修辞を伴う彼らであろうと同じことであった。

 寄宿舎の食堂、開放された厨房でいつものようにフライパンを振るう有栖川を、これまたいつものように厨房近くの二人掛けテーブルにて待っていた石丸は、三月も半ばとなった本日の麗らかな陽気の中それぞれに時を過ごす級友の姿を何とはなしに眺め遣る。

 窓際、一際採光のよいカウンター席で一心にキーボードを叩いているのは不二咲であった。何を隠そう本日の「お誕生日さま」であるところの彼は、日中ホームルームである本科78期生の全員から両手に抱えられないほどのプレゼントを渡されていた。日付柄気を遣ってか菓子の類いを避けた男子勢に「えへへ、皆分かってるねぇ」と悪戯げに笑んで寄越した不二咲はいつもより少しだけ――とはいえやはりその形容を不二咲千尋に対して用いるには抵抗が生じるが――男臭いような、気がした。
 律儀で丁寧な不二咲は、本日受け取ったプレゼントについて逐一、「もう一人の彼」ことアルターエゴに報告する心算だと述べていた。恐らく現在進行形でその作業が為されているのだろう。石丸が渡した図書券も、有栖川が渡していたコーヒーサイフォンも、ノートパソコンの奥に鎮座ましましていた。早く終わらせなくてはならないな頑張りたまえよ、と石丸は心中で声援をひとつ送る。自分が送ったプレゼントであるトレーニンググッズで早速彼を鍛えてやろうと息巻いてやって来る大和田に捕獲されるまで、恐らくもう数刻も残されていないだろう。

 その対極に位置した、室内において最も陽の差さない壁際の丸テーブルで此方も作業をしている姿がある。原稿用紙に向かって流れるように筆を走らせているその横顔は、平生の卑屈さが少々なりを潜めた静謐な表情を湛えていた。紛れもない著述家の――超高校級の”文学少女”の表情である。
 腐川冬子もまた、今月に誕生日を迎えたひとりであった。有栖川や舞園、霧切が千代紙や縮緬の端切れなどを使って製作した小さな雛飾り――日付にちなんでいるらしい。勿論、お雛様はお下げ髪で眼鏡をしており、お内裏様はヘーゼルの髪色に碧眼の尊大そうな顔つきをしていた――に「バッカじゃないの、白夜さまはもっと素敵に決まってるじゃない……ッ」などと毒づきながらも後にその人形を崩してしまわないようなケースを倉庫へ探しに行く姿を石丸は目撃している。他にも78期の面々から贈られた品々(あの十神でさえ準備をしていたのだからこの学級の結束には驚かされる。とはいえ眼鏡拭き一枚ではあったが、腐川の歓びようは最早記述するには及ばないだろう)はひとつ残らず大切に使用され、あるいは丁重に保管されているようであった。なんだかんだで人の情を無碍に出来るような人物ではないのだ。
 その腐川が現在何をしているかと言えば、誕生日にファンから寄せられたプレゼントに応えるべく、返礼としてそれぞれに送付する掌編を紡いでいるのであった。加えて腐川にはバレンタインデーにも彼女の著作に登場するヒーローたちへ熱いラブコールと共にチョコレートが押し寄せている実績があり、しめてこの日に掛かる”文学少女”のノルマは並大抵のものではないことが窺える。


「――お疲れさまね、冬子さん。不二咲さんも」
「あっ、有栖川さん」

 水琴鈴をやさしく転がすような澄んだ声色は、僅かに笑みの色を帯びている。
 待ちに待ったその声に石丸が顔を上げると、ちょうど厨房から有栖川が姿を現したところだった。緩く波打つ亜麻色の髪をざっと適当に――というのは本人の弁であり、石丸としてはそんな有栖川も”いい意味で”所帯じみていてたいへん好ましく感じられるではあったが――ひとまとめにした彼女は、木製のトレイ(厨房の備品のひとつである)を手にしている。硝子製の透明な湯呑の中に、淡い紅色を湛えた茶が湯気を挙げていた。春色の水面に揺蕩うているのは、和菓子などの上に乗っているのをよく見かける、桜の花の塩漬けであるらしかった。そのひとつを不二咲のところへ――湯気に弱い精密機械の傍を憚って、すこし離れたところへ――置き、残ったもうひとつは石丸へ……供されよう筈も無く、有栖川はさも当然のように腐川の陣取るテーブルへと歩み寄ってゆく。

「な……によコレ、た、頼んでないわよッ」
「ええ、頼まれた覚えはあたしにも無くてよ。いえね、ずいぶん根をお詰めでいらしたようだから、時間もいい頃合いだし休憩されませんこと? と思って――桜のお紅茶なの、茶葉はヌワラエリア。耐熱ガラスの御湯呑ですからホットで召し上がって頂戴」
「わ、有栖川さんコレすっごく美味しいよぉ……! とろみがついてるねぇ、葛湯みたい」
「然様で。少ぅし葛粉を入れているのよ。自然な甘みは和三盆ね」

 ややあって、恐る恐るといった体で一口啜った腐川が非常に微小なボリュームで以て「……ありがと」と零したのをひどく嬉しそうな表情にて甘受した有栖川が、そこで漸く厨房近くのテーブルにて己を待ち受けている存在のほうへ目を寄越してくる。笑みの形に細めた目をそのままに、「御免なさいね、もう出来ているからあと少し待っていて頂戴」と目的語を省いた形で伝えられる内容に、石丸は鷹揚に頷くのであった。幾ら僕でも流石に、級友を労う彼女にまで自分を優先しろなどと我儘は言うまいよ。心の内に留めておくだけだ。

 再び厨房に引っ込んだ有栖川を待つこと暫し、今度は甘い桜の香りではなくまろやか且つ芳醇なクリームの匂いが立ち込めてくる。先刻と違い迷いなく石丸のほうへやってきた有栖川は、「お口に合えば幸いなのだけれど」と前置きしたうえで、揃えた銀食器と白磁の大皿を彼の目の前にトンと置いた。
 白みがかった桜色は、春の足音を感じさせるこの時期にぴったりのそれ。作り手をして幾度か練習を要したと語るそのクリームが、歯切れよいアルデンテに茹で上がったパスタに絡まる食べ応えある逸品である。鮭といくらをふんだんに用いた一皿は、実の所本日の日付とは何ら関係のない、ただただ例によって例の如く、午後一番で放課となった折に発された「白雪の手製の昼食が摂りたい」という石丸の強い要望により拵えられたものであった。

「素晴らしいッ! 嗚呼、どうしてこうも僕の恋人は料理が堪能なのだろうか……ッ!」
「言うほどでも無いのよ、というかパスタを料理に数えるのは恥ずかしいから止めて頂戴ね茹でて絡めるだけなのだから。――鮭ねえ、スモークサーモンだけでは寂しいかなと思ったし清多夏さんがお好きだからと思って塩鮭もほぐして入れてみたの。うふふっ、見目も華やかになって良かったみたいねえ」
「はああ…僕は幸せ者だ、平日の昼間からこうして最愛の女性の手料理に与れるだなんて。学生の身の上でありながらこのような贅沢が許されて然るべきなのだろうか」

 大袈裟よ、と眉を下げ苦笑する有栖川を傍らにしてきちんと手を合わせる石丸はやはり躾の行き届いた模範生であり、その様子を心から愛しげに見遣る有栖川の表情は穏やか且つ甘やかなものであれば、耐熱ガラスの湯呑を両手でしっかと持つ不二咲は聡くもことの成り行きの妙を感じてしまう。――これ、お茶って、もしかして、僕や腐川さんに野暮な突っ込みを入れさせないための予防線というか賄賂というか、そういった類の意味合いが籠められている感じなんじゃないのかな。もっとも端から不二咲にも腐川にも二人の仲を裂く真似をする意志は無い訳であるが。現に腐川などは石丸たちには目もくれず原稿作業に没頭しているようであった(片手に握られた湯呑が、有栖川の献茶を彼女が気に入ったらしいことを告げている)。
 美味だ、最高だ、僕は幸せだ、と彼にしてはたいへん貧相な語彙で以て石丸が告げる賛辞を、有栖川は慣れた様子でいなしている。口調ほどには聞き流している感が漂わないわけは、目を細めてやわらかく口角を上げた、それこそ幸せそうな表情を有栖川がしているからに他ならない。自分のぶんは作らなかったようで手ぶらのまま石丸の向かいへ腰掛けた有栖川は、珍しくもテーブルに両手で頬杖を突くラフな体勢にて、正面で己の拵えた昼餉に舌鼓を打っている愛しい男を眺め遣っている。而して一挙一動をじっと見つめているわけではなく、時折ちらりと目線を注ぐだけであとは重ねた手の甲に片頬を預けてゆっくり目を閉じていたりと有栖川なりに寛いでいるようであった。飽きもせず洩らされる男の歓声へ、「そう」「ええ」「良かったわ」と逐一相槌を打ちながら、有栖川は己の考え得る最も平穏で安らいだ昼下がりを満喫していた。


「はい、食後のお茶と、お菓子ね」
「な……ッ、白雪、こ、これは、その、……何故だッ?!」


 わざわざ腐川・不二咲に淹れたのとは別の茶を用意していた――彼女ら彼らには作業疲れを癒すための糖分が必要だったが、食後の石丸にはそれは必要でないため――有栖川が、石丸の食事が終わるのを見計らって三たび厨房から運んできたのは、先刻より一回りほど小さな木製の盆。そこには、爽やかな風味が魅力の萌黄色に澄んだ緑茶のグラスと、小皿に盛られた純白の丸っこい洋菓子がちょこんと載せられていた。無垢でやわらかい小兎の背のようなまろい稜線を描くその菓子――マシュマロを仇の如く指差すなり、何故か唐突に石丸は動揺して立ち上がる。ついぞ執筆作業に埋没していた腐川が「ひっ」と薄い肩を跳ねさせ、思わず不二咲もそちらを見遣る。(――ちなみに。それまでも存分に「いちゃついて」いた”石丸夫妻”に腐川らがひとつの注視もくれていなかった理由はただひとつ、既に78期の面々にとってはふたりの睦まじさが日常の一幕と化してしまっているからである。)
 怒鳴った側である癖に自分が泣きそうな顔をしている石丸と、怒鳴られたというのに微塵も動揺の色を見せない有栖川との対比を見るにつけ、不二咲は観客の頭で判断を下す。即ち、――あ、これ、よく事情は分からないけど多分石丸くんの独り相撲なんだねぇ。いつもの事なんだけど。

「きッ……きみは、白雪、この日に僕にマシュマロを贈って寄越すということは、つまり、……ああああ」
「……あのねえ」
「僕が何も知らないとでも思っているのかね白雪ッ……これでも僕は晴れてきみとの交際が叶ってから此方、世知の疎さゆえきみに呆れられてしまわないよう勉強しているのだッ! 勿論、由緒ある”恋人たちの日”であるバレンタインデー、果てはこの日ホワイトデーに至るまで僕は既にきみと過ごすに十分な知識を得ているのだぞッ! そ、それによれば、……ま、マシュマロを贈るというのは…いうのはだな……ぐッ、僕の口からこれを言うのはあまりにも苦痛が過ぎる……ッ!」

 あ、こいつ莫迦なのね。腐川は既に執筆に戻りながらそう心中にて評した。多少声にも出ていたかもしれない。
 途中に挟まれた有栖川の相槌が、先刻まで自分の昼餉に付き合っていたときと変わらぬ平静を保っていることに違和感を覚えた石丸が言葉に詰まる。それを見計らうように有栖川は深くひとつ嘆息した。呆れのそれというよりは、聞き分けの無い子どもを宥めるような只管に穏やかなニュアンスを纏って、まるで先刻までパスタを介して交わしていた歓談と寸分違わぬような語り口で有栖川は滔々と語り始める。

「斯様な俗説がある事くらいは世間さま何方もご存知よねえ。無論、あたしとて存じておりますもの」
「……」
「ただ、……貴方はそうねえ、もう少ぅしメディアリテラシーを身に付けるべきだとあたしは思ってよ」
「ど、ういう事…だね」
「貴方、ホワイトデーの起こりが由緒あるものだということはきちんと歴史的背景から裏付けを取ったのでしょうに、どうして”マシュマロは『あなたが嫌いです』を意味する”だなんて話は無根拠に信じておしまいになったの?」
「……だ、って」
「ネガティブキャンペーンもいいところだと思わなくって? でたらめな俗説で風評被害を招いているお人たちは即刻石村萬盛堂に謝罪すべきよ――ああ、1977年にこの日をマシュマロデーと定めたのが石村萬盛堂、福岡のお菓子屋さんなのだけれどね。先刻清多夏さんが仰っていた俗説を続けるのであれば、確か”『私もあなたが好きです』のしるしにキャンディーを贈る”よね?」
「あ、…ああ、」
「そちらは全国飴菓子工業協同組合ホワイトデー委員会がこの日をキャンディーの日と定めたことが由来になるのだけれど、それって何年のことかお分かり? ご存知ないでしょう、1978年よ。つまり元来ホワイトデーの贈り物として市民権を得出したのはマシュマロが先なのよ」
「……うぅ」
「勿論早いもの勝ちだなんて動物的な理論を執る心算はあたしにもさらさら無くってよ、数字の後先なんて人情の前には意味を為さないもの――だけれど。つまりね、あたしが言いたいのは、贈り物の意味合いに貴賤を付けたくはないわよね、ということなの。何はともあれ、この日に自分へ宛てて何かを返そうとしてくれた、先ずは其処にこそ感謝をすべきだとあたしは思うの」

 嗚呼、ちなみに3月14日って数検が制定した”数学の日”でもあるの……なあんて、うふふ。今は関係ないわねえ。有栖川がそう茶目かしたことで、最近なりを潜めていた早合点が久々に浮上してしまった風紀委員は――結局のところ、人間は地の部分をそうそう改められないわけで――立ち上がりかけていた姿勢から力なく再び椅子に腰を下ろした。
 過剰に反応してしまって済まなかった、と石丸が垂れた頭を有栖川がよしよしと撫でてやる。久々に有栖川の完全記憶能力が火を噴いた末に起こった一部始終であったが、腐川も不二咲も正直なところ、石丸がマシュマロに条件反射で食って掛かったあたりから彼の背中に煌煌とさんざめくデス・ノボリが樹立されているのは確信できていたところだった。

「いいえ、――うふふ、いえね、あたしのほうこそ、今ここにお出ししているのが丁度石村萬勢堂のマシュマロだったものですから、半分はただの薀蓄コーナーの心算だったのよ」
「……頂きます。――む、中にチョコレートが入っているのだな」
「コンセプトは”バレンタインデーに君から貰ったチョコレートを、僕の気持ちでくるんでお返しするよ”とのことよ。確かにこれを”返品”のニュアンスで解釈するのであればさきの貴方が仰っていたような意味にも受け取れようけれど、――未だ、そう思っておいで?」
「否。……美味い」

 その言葉に漸く肩の力を抜いて笑みを零した有栖川が再び着席し、小皿に残った菓子を指しながら茶菓子について補足を始める。マシュマロデー誕生時から売り出されている品であるとのことである。
 ちなみに何故ホワイトデーにもかかわらず有栖川から石丸に菓子を供しているのかというと、ひとつには単に平生彼らが揃って食事を摂るときには何かしらデザートを伴う場合が多いのだという事実と、もう一点として今年のバレンタインデーに何故か所謂”逆チョコ”を思い立った彼――とその親愛なる兄弟である大和田――の手によって拵えられた力作トリュフチョコレートが、彼女――と現在ここで鋭意作業中である不二咲――に贈られていたからだという背景が存在している。何を失敗したのか文字通り超高校級に(高校生の味覚に堪え得るレベルを遙か超越し)苦い何か、カッコ但しカカオの芳醇な薫り有りカッコ閉じ、という固形物に成り下がっていたことは確かではあれど、石丸が己のために時間と労力を割いてくれたのだ、という一点だけで有栖川がその供物を平らげるには十分であった。勿論バレンタインデーのプレゼントは有栖川から石丸へも供されたのだが、元来男性側からの返礼の日という俗識である本日にまでお返しを――あの菓子と呼んで然るべきか否かすらも危ういあの物質に対する、である――律儀に用意している有栖川の義理堅さはなかなかのものであると思われる。
 実はそれなりに値の張るものであることがのちに発覚するチョコマシュマロを神妙な顔つきで口にする石丸は、嗚呼やはり僕はまだまだ未熟だ、と心中にて深く反省した。而してそれと同時に、有栖川に対していっそう彼女の神性を見出し、思慕の念をも抱く。白雪は僕を諌め、正し、且つ何時如何なるときでも僕を受け入れて赦してくれる。僕の無知を窘めるときでさえ、彼女は僕を愛してくれている。毎度の如くそれを実感しては幸せを噛み締めている男は今回もまた自らの伴侶に惚れ直し――漸く本懐を思い出すのであった。先刻の遣り取りを考えると、その声色は少々恐る恐るといった体になってしまうのは仕方のないことか。


「……白雪、これを」
「あら、飴ねえ。うふふ、このところ毎日頂いている気がするのだけれど――有難く頂戴するわね」


 またか、と不二咲も腐川も思う。実はこのところこの場面――石丸が有栖川へ飴をひとつ渡す光景が日常の至る所で散見されていたのである。具体的に言うと一日一回、必ずである。菓子類の持ち込みが禁止されていない希望ヶ峰においては何ら咎め立てされるらくもない行為ではあったが、毎日同じ遣り取りが展開されていれば流石に少々異色ではあった。とはいえ78期の面々からすれば「また石丸か」であり、「有栖川がなんとかするだろう」であるゆえ特別取沙汰されることもなく今日のこの日に至るのであった。

 有栖川は石丸から受け取ったそれを華奢な掌でころりと転がす。薄く透明な膜――食べられる包装紙、オブラートというものであるが――で丁寧に包まれた小球はほんのりと桜色に色づいていて、春らしい香りを運んでくる。咥内に迎え入れるなり、呼気まで華やかになるような思いだった。蕩けるように甘い。

「――今日は、桜。ね」
「嗚呼、そうか。きみはすべて憶えて……」
「無論よ。一日たりとも同じ味はなかったわねえ、林檎に始まって、葡萄、桃、梨、蜜柑、紅茶――紫蘇や黒胡麻だなんて変わり種もあったわ。貴方が望むならばすべて羅列して差し上げることも容易くってよ。そう、最初の――2月15日のぶんから、すべてね」

 バレンタインデーの、翌日から。
 一日たりとも欠かすことなく、石丸は有栖川に一粒ずつ飴を渡していた。

「――白雪は、先刻ああ言ったが」
「ええ」
「僕は、この日には飴を贈るのだと一か月前から決めていたのだ」
「……そのようね」
「た、ただ! 僕は単に俗説に溺れたわけでは無いのだッ! ……世間には僕と同じく、きみに”そういった意味合い”で飴を贈る者たちが他にも大勢いるのだろうと、そこまで考えたのだ。きみは全国有数の宗教結社の巫女なのだからな」
「ええ、確かにそうね」

 ころころと咥内で飴を玩んでいた舌を休めた有栖川が相槌を簡素に留めるのは、今は石丸の話を促すことが肝要であると判断したが故か。平生学級や委員会で熱弁を振るっている姿は何処へやら、口調ほどには威風堂々と出来ずにいるらしい石丸は目元から耳まで紅く染め、声量も今一つ張り切れていない様子である。それでも今回の「一日一飴」運動には彼なりの拘りというか思う所があるらしく、語ることは止めない。静かに凪いだ紫水晶の瞳に、熱く滾るピジョン・ブラッドを翳すようにして目を合わせる。

「流石に僕とていち学生だ、きみに寄せられる贈り物を厭う権利は無いしそうするだけの力も持ち合わせない。きみが皆から慕われているという事実自体は、きみにとっても…勿論僕にとっても誇らしいことでもあるしな――だから僕は、大和男児宜しく正々堂々と勝ちにいこうと考えたのだ」
「……んん?」

 暫く聞き流している間に話が変な方向に行っちゃってる気がする、と不二咲は電子の世界から片耳だけを三次元世界に下ろしてヒアリングを試みた。飴をあげよう、わあ嬉しい、で軽く片付かないのが石丸清多夏という人間であり、その石丸に付き合ってどこまでも面倒臭い問答にご一緒しようと考えてしまうのが有栖川白雪という人間なのである。ちなみに、頭のいい人たちってこれだからなぁ、と無意識下で自分をしっかり棚上げして再びオブザーバーに戻っていくこの天才プログラマーが不二咲千尋という人間である。
 兎に角。それまで興じていた「ホワイトデー」という如何にも恋人同士に相応しい会話題材の中に唐突に登場した「勝つ」という語彙にさしもの巫女も議論の先取りが叶わず小首を傾げている。我が意を得たりとばかり(一切得ていないが)誇らしげな表情になる石丸がここにきて漸く本調子を取り戻し、声にも張りが戻った。

「白雪」
「はい?」
「今年、きみのもとにはたくさんの飴が届けられることと思うのだが、」
「……ええ、そうねえ」

「僕が調べたところによると、市販されており且つ贈り物の類に向くような飴類もしくはそれに準ずる菓子の総量は一品につき最多でも18粒! 家庭用などの個包装の飴であれば――勿論そのようなものを敢えてホワイトデーに贈ろうなどと考える者は皆無だとは思うが――25、6粒のものも発見したが、それでも尚ッ! 僕がこの日まで一日一粒きみに渡し続けた飴の数、しめて28粒には及ばないのだ。つまり!

 ――僕が! この僕がきみに贈った飴の数を凌ぐ者は現れないだろうと断言するぞッ!」



 ななめうえだ。

 力なく半開きのまま震える有栖川のくちびるが音を為さない形だけの六文字を紡ぐ。斜め上だ、このひと。分かっていたけれど、まさかここまで大凡の予想を斜め上に爆走する人物だとは思ってもみなかった。
 調べただと? どうやって? 彼がインターネットの濁流を華麗にサーフィン出来るとは思えないがまさか市場偵察にでも出向いたのか? 市井のスーパーマーケットなりコンビニエンスストアなりデパートの特設会場なりを練り歩いてああでもないこうでもないとメモを取る怪しい希望ヶ峰の学生、が昨今街に出没していたりしたのだろうか。家庭用や業務用の大袋を己に贈って寄越すような人物は確かに想像しがたいけれど、そうでなくとも包含量28粒を超えるような飴ももう少し検索すれば――それこそ、先述のメディアリテラシーに長けた人物の手によってすれば発見され得るのではないか、とも思ったりはするのだが。

 それでも、次の瞬間には有栖川はぴっと居住まいを正して、無邪気に破顔してのけるのであった。


「清多夏さん。――それは、どこ情報?」
「ぅ、……申し訳ないが、また根拠は無いのだ。出所も、無い。僕が、誰よりも飴を多く贈ればよいのではないかと勝手に考えて、……資料も無いので、自分で調べただけだ。信憑性は怪しい」
「まあ。…やっぱり、そうなのね」
「駄目、だろうか」

 ――莫迦を仰い、と笑み混じりに掛けられる声は、而してこのうえなく甘やかな飴を転がすような、至福と慈愛に満ちたものであった。


「貴方が考えてくださったからこそ、良いのじゃない。先刻もそう申してよ? 信憑性、だなんて、それこそ必要ではないの――貴方の想いが、そのままあたしの真実なのだもの」


 一日一日とこの日まで積み重ねられていた、俗説が言うところの”愛の告白”――そして己の伴侶が言うところの”愛の証明”――をまた一度舌先で転がせば、先ほどまでより一層、その芳香と甘みが増したように感じられた。噛み締めるように告げた「有難う」がことのほか涙声に響いてしまい内心少々焦った有栖川であったが、それを石丸に悟られることはついぞ無かった。
 というのも、不二咲と共にここまでよくぞ耐えたと思うほどに背景と化していた腐川が先刻の有栖川の発言を受け「ああああああ言わせておけばアンタ達どっこまで痒いわけ?! 不純なのよッ純情過ぎて一周回って逆に不純なのよフィクションの住人なのアンタ達は……ッ?!」と遂にしびれを切らし此方に詰め寄ってきたからである。その腐川が、当事者である石丸からの「……腐川くん、少し空気を読んで貰えないだろうか」という全国お前が言うなコンクールにおいて最優秀賞を受賞しそうな発言により危うく素の状態でハサミを取り出しかねない事態に陥った、というのはのちに食堂の片付けを担った不二咲の弁である。

 かくして。有栖川白雪の今年の「恋人たちの日」は、石丸清多夏の逆チョコ・テロによって幕を開け、石丸清多夏の一日一飴運動によって幕を下ろしたのであった。
 これを「めでたし」の四文字で好評することが出来る有栖川の頭のほうがめでたいのではないか、という指摘は残念ながら風紀違反として取り締まられる流れになっているのでご承知いただきたい。


・きみに、ひとつぶ

20140316

 飴を渡すときには、必ず「この場で舐めきってくれ」と言うこと。
 きみが僕の想いのすべてを溶かしきってくれるのを見届けるために、必ず。

 28粒、きちんと叶えた。
 小さな咥内の何処にも残っていないか、確かめた。