text | ナノ

百点満点減点不可



「――あら、まあ。如何されたの、濡らしてしまっていてよ?」


 水琴鈴を柔らかく揺らしたような、澄んだ声色。思わず、授業後の復習にとペンを走らせていた手が止まった。
 否が応にも僕の集中を耳から根こそぎ奪ってゆく悩ましいリリカルソプラノを追って目を遣ると、昼休みに入って数分と経たないうちから既に机を寄せ合い昼食を摂っていたらしい女生徒の姿が、三つ。そのうちの一人、僕の目当てであるところの「彼女」は先刻の調子――おどけたようでいながら気遣いが前提となったそれ――を表情にも纏わせながら、「さやかさん、ちょっと足元失礼するわね」と断るが早いか机の下に潜り込んでいた。緩やかに波打つ亜麻色の髪が、その瞬間僅かに風を孕んでふわりと揺れる。繊細で柔い、僕の亜麻色。

「白雪、私の鞄がどうかしたかし…あ、」
「ほんとですね、鞄の底のほう濡れちゃってます。白雪ちゃん、よく気付きましたね」
「明らかに色が違うんですもの、あたし何事かと思って。響子さんでもドジってお踏みになるのね」
「……迂闊だったわ、水筒の中蓋が開いていたのね」

 衣替えを済ませたばかりの冬服のブレザーに袖を通した「彼女」の華奢な細腕が引き寄せたのは、未だ着席したまま頬杖の姿勢で珍しくも苦々しげな表情を覗かせている霧切くんの通学鞄のようだった。中を覗き込むなり「まあ、」と息を呑むや、その次の瞬間には胸ポケットからちり紙を取り出している。
 鞄の中から引っ張り出しているのは教科書ばかり数冊。それ以外のものも当然収められているだろう鞄は、徐に立ち上がったのち本人へと返却された。超高校級の"探偵"として機密の多い立場である彼女を慮った「彼女」の心遣いは、而して察しのよい友人らへは一言も口外されない。阿吽。言わずとも、伝わるからだ。

「乾かしましょうね。午後いちばんで数U、あるもの」
「あ…有難、う」

 普段の霧切くんであれば、他人の援助など受けるらくもなく自分が動いている場面ではある。しかし、今は軽く腰を浮かせかけただけで、「彼女」から鞄を受け取ったのちは礼を口にするのみに留まり腰を落ち着け直している。心なしか表情まで照れ臭そうにしているように見えた。その傍らで、濡れそぼった教科書にちり紙を当て水気を拭う「彼女」にしても、ひとつも恩着せがましい風はなく只管穏やかな笑みを湛えながら昼食後の授業の睡魔を誘うこと如何ばかりか、の他愛無い話題で座を和ませている。
 秋も深いにしては日差しがあるし、きっと直ぐに乾いてよ――「彼女」が朗らかに声を上げながらその座を離れると、今度は一連の流れをいちご牛乳のブリック・パック片手ににこにこと見守っていた舞園くんがこれまたさも自然な流れで机の上の途中になっていた昼食群をわきへ片づけ、霧切くんが作業をできる程度のスペースを確保していた。これもまた、阿吽か。
 基本的に和を保っているこのクラスの中でも、彼女たち三人は一等仲がよい。それは、友人二名の尽力によって確保された空間で、目下鞄の中の貴重品類を救助している霧切くんが多少なり嬉しげであることから察せられよう。

 ――人心に疎い、と平素から兄弟はじめ多くの級友から指摘されていた嘗ての僕が、このように他者を捉えることができるようになったのもまた、「彼女」のお陰に他ならなかった。遠くから、近くから、「彼女」はいつも僕を支え、奮わせ、癒してくれる。日々、その存在に、僕の世界に佇んでいてくれる幸いに感謝する。なによりも、この想いが不毛な一方通行に尽くことがなかった、その事実が悦ばし過ぎて正直なところ僕は未だに現実を受け止めきれていない。もし、勘違いだったら、それは途方もなく、寂しいことだから…だ。

 それまで座していた廊下側から、こちら――窓側の列にまで歩んで来ようとする「彼女」と不意に目が合う。否、訂正しよう。今の今まで凝視していたのだから不意も何もない。
 いたいけに純な眼差しで数秒、こちらを見つめていた「彼女」が、ふと唇を綻ばせた。紫水晶の輝きを秘めた魅惑的な瞳が僅かに細まって煌めく、蕩けるような笑顔。くらりときた。――嗚呼、今日もここに、僕の視界に、居てくれて有難う。


「やー、やっぱ三人揃うと目の保養極まれりだよなー」


 ――なに、興を殺がれて苛立つほど僕は器が狭い男ではない。
 思うところがあったのか、僕の視界の中で歩みを止めて手にしている教科書をぱらぱらと捲り(風を通しているらしい)乾かす下準備を整えているらしい「彼女」のほど近くの席から疾しい発言が飛び込んできた。

「孤高のクールビューティー霧切響子殿、正統派アイドルの舞園さやか殿、そして可憐な森の妖精さん有栖川白雪殿…綺麗どころ揃い踏みじゃないですかやだー! なんなの? 二次元から三次元に召喚された奇跡の存在なの? しぬの? 薄い本が厚くなりますな」

 訂正を要求する。森の、ではなく僕の妖精さんだ。――違う、そこじゃない。何だ、その薄い本というのは。

「こないだ三人で二階のプール使って遊んでたらしいべ、悔やまれるぞ…もしあの三人のプライベート写真なんてゲット出来てたら一体どんだけ稼げてたことk「おいばかやめろバ隠お前ここ何処だか分かってんのか」え? 何処って教室だべ? …あ゛」
「桑田怜恩殿に激しく同意ですぞ…僕ぁ正直、舞園さやか殿の所属事務所関係のお人がたよりも霧切響子殿ご本人よりも何より石m…否、有栖川白雪殿の、その、ごく身辺のかたが恐ろしくて堪らんとです……!」
「げっ…は、把握したべ」

 これまでの――「彼女」に出逢い、惹かれ、結ばれるまでの僕であったなら。ここで声高に厳然なる風紀を主張してこれ以降続くであろうと予想される下卑た話題を遮断することに躊躇はなかっただろう。而して僕は、少し変わった。否、「丸くなった」のだろう。探るような山田くん以下二名の視線を感じはするが、それよりも数メートル先で今、ぱたんと教科書を閉じた愛らしい恋人の姿を視界に収めることに余念がなかった。


 麗しいきみ。
 誰より崇高で無垢で清冽で、――いとおしい、僕の、きみ。


 「彼女」。人心を汲み、癒し、至上の安らぎを与える超高校級の"巫女"、有栖川白雪。僕が一生を懸けて想いを捧げると決め誓い、そのうえ光栄極まりないことにその誓いは一方通行には留まらず、彼女からも同じく気持ちを向けて貰っている(筈、である)ところの間柄であった。
 その白雪――僕は級友には等しく敬称を用いるようにしているが、流石に彼女は僕にとって特別が過ぎる。彼女だけは、たとえ例外を設けてでも直に名前を呼びたいのだ――は、流石の鋭敏さでか桑田くん・葉隠くんたちの会話を聞きつけていたようで、「あら。あたしは寧ろ買う側に回りたいわ、お幾らなのかしら…」と先刻まで下世話な話題に興じていた三人組へと寄っていく。ああ、だめだ。近寄るんじゃない、きみが汚れてしまう。

「ひぃい有栖川っち、許してくれぇ! まだ未遂だべ、まだ!」
「オレたちだってやっていいこと悪いことくらい弁えてるからさ! だから頼むから旦那にチクらないでくれ、なっ」
「まあ、うふふっ! なにを仰せかしら。別に誹謗中傷を行った訳でもなし、咎めだてされるでも無いでしょうに。というか寧ろ興味があってよ? 響子さんとさやかさんのプライベート・ブロマイドなんて、あたし言い値で買い求めてしまいそうだもの」

 華奢な手指を口唇の前に遣り、少しの険もなく笑ってみせるのはそこに他意が微塵も介在していないからだ。同級の女生徒の中では一番低い――男女合わせても不二咲くんの次だ――150cmという幼げな体躯ながら、白雪が纏わせる空気はいつだって清浄で、且つ静謐だ。「いや咎め立てされるから怖いんですがな、主に貴女のセコム的な意味で」と震え上がっている山田くんに不思議そうなきょとんとした表情を――あどけないきみもまた、素敵だ――向け、本懐を思い出したらしい白雪はごく自然にその場を離れる。
 あ、いい匂い。呆けたように呟く葉隠くんの気持ちは分かりすぎるほどに分かるが、生憎と僕も目下未熟ないち人間であるからして、なんというか、多少腹立たしかった。そんなこと、報告されずとも僕のほうが重々把握しているとも。彼女が纏う、清潔な石鹸の香りと甘い紅茶の薫りは、その身体を背後から強く抱き込んだときに最も芳しくなるのだ。
 小さく開いた窓から秋の涼やかな風を吹き込ませながら、先刻教科書のページに風を含ませていた白雪は今一度、教室奥の霧切くんたちのほうを見遣りながら肩を竦めさせている。机の下に潜り込んだとき同様、ベランダ入口にしゃがみ込んで教科書を干す準備を整えているらしい。

「響子さんたら練成の問二、真っ白じゃない。確か当たるんじゃなくて?」
「その程度なら即興でどうとでもなるもの。前もって解いておく必要はないわ」
「まあ、流石は"探偵"の御方。その知性は日常に於いても遺憾なく発揮されておられるわけね」
「……万年学年二位を事もなげにキープしてる貴女に言われても反応に困るのだけど」
「えへへー、お陰でわたしは安泰ですよ。理系は霧切さんに、文系は白雪ちゃんに頼れるなんて盤石ですっ」

 ところで霧切さん、件の錬成問題なんですけどわたし(3)の証明が上手に書けなくて…。両掌を合わせて軽く拝むように肩を竦めた舞園くんに霧切くんが解放のヒントを口にし――霧切くんと白雪が規格外であるだけで、元来真面目な舞園くんも学業成績は比較的優秀なのである。解答そのものを教えずとも、糸口を与えればあとは自分でなんとかしてしまう――ながら、貴重品の救助が終わったのか先刻の昼食風景を復旧し始めている。
 宿題として課されていた問題の中でもさきの一問は確かに難題であったため、舞園くんのみならず教室内のほとんどの生徒がそちらに目を遣っていた。例外は、読書中らしい十神くんと、僕――難題とはいえ日々の研鑽と努力とによって培われた学力に超えられぬものではなかった!――、それから依然としてベランダに居る白雪くらいか。学年二位、それ即ち僕の隣に常に座し続けるところの彼女にとってもやはりあの程度の問題は敵でなかったようだと嬉しくなる。お揃い、は、嬉しい。これは彼女と共に居るようになって初めておぼえた感情であった。

 採光のよい、明るい日の下に佇む白雪。神聖で、清浄な、"巫女"との肩書に相応しいその居姿に漏らす言葉も無い。
 折り目正しく、丈も適正の膝丈を慎ましく保っているスカートを惜しげもなくコンクリートの地面に付けて膝立ちになった姿勢で、胸ポケットから今度はちり紙でないものを取り出している。ふわりと広げられたそれは、僕も見知っている品であった。
 純白の、レースハンカチーフ。生地とレースが一体で縫製されている瀟洒なそれは、彼女本人を模したかのように清楚で可憐な趣である。平生から当然の嗜みであると言して持ち歩いているそれを白雪はあろうことか、無造作に地面に敷いた。コンクリートの、清潔であるとはお世辞にも言えないただの地面に。それが友人の教科書を直接コンクリートに触れさせないための気遣いであることは、鈍いと言われる僕であっても容易に察せられるものである。きみは、どこまで、天使なのか。どこまでも、愛すべき心栄えを持っているというのか。誰も、僕しか、見ていないというのに。



「……白雪、」
「はい、清多夏さん。どうかなさったの?」

 ベランダから室内へ戻ってきた彼女の姿に、思わず呼びかけていた。衒いなく返ってくるあえかな微笑。僕だけに向けられる呼称――同性異性の線引きを幼少よりきちりとされてきた彼女は、同級の友人であっても殆どの男子生徒を苗字で呼ぶ――が、僕の心をまた満たす。
 如何しようか。呼びかけてはみたものの、別段なにを言うでもなかった。否、言いたいことならば常日頃から溢れんばかりにはあるのだが。愛しているとか、愛しているとか、愛してくれだとか。なにも自身の持ち物を投げ出す必要まではなかったのではないか、とでも言おうとしたところに状況から察したのか当の白雪から言葉が続けられた。

「もしかして、ご覧になってあそばした? 今の、あたし」
「……今の、も何も。先ほど目があった時からきみばかり追ってしまっていた」
「まあ! 嬉しくはあるけれど少ぅし恥ずかしいわ」

 言葉に違わず上気している頬に添えられた細い指が、やわらかく沈む。みずみずしい白桃のような彼女の頬は、その印象を裏切らず滑らかで柔らかな手触りである。これは実体験を伴っているので断言できる。
 彼女がさきの一幕に話を向けてくれたため、その流れで「無いと困るのではないかね」とだけ告げる。何を、は察しのよい白雪であれば自然と解するだろう。日頃は説明責任を怠ることなく明確な文意を以て話すことを良しとしている僕だが、こと彼女との会話においては、伝えたいままに伝えられることが心地よくてたまらない。一瞬きょとんとした目の前の天使が、ややあって殊更甘やかに破顔した。

「あらあら。お気になさらないで? ただの点数稼ぎだから。…貴方への、ね」

 つまり、衆人の目が無いところでも献身的で心優しい自分、を僕に印象付けたかったのだということか。――……なめるな。幾らなんでもこの程度、僕にだって論破出来る嘘なのであった。
 つい数分前に「ご覧になってあそばした?」などと聞いてきたのは何処の誰だと言うのか。端から僕の目すら意識していなかったことなどそれで知れてしまう。第一、「点数稼ぎ」だというならわざわざここで僕本人にばらしてしまう訳がなかろうに。
 即ち、やはり、彼女の気遣いは正真正銘の真心に他ならないというのだ。…ただ。


「…心得ておきたまえ、白雪」
「はい? 何かしら」



「既に満点であるものに、加点することは不可能なのだぞ」



 紫水晶の瞳が揺れ、目元が赤く色づく。「そんな言い回しが出来るかただったのね、貴方」と口元を覆いながらも笑顔で居てくれるきみは、いつだって僕の百点満点減点不可、だ。

 いつのまに数学の講釈を終えていたらしい霧切くんから「わたしの教科書をダシに使って惚気るの、やめて頂戴」と心なしか平時より冷たく感じられる声が飛んできたのはそれから数十秒後で、而してそんな霧切くんもベランダを確認したが早いか事情を察したらしかった。…稼がれてあげるわね、点数。あ、わたしの点数も上がりましたよ白雪ちゃん大好きです! 僕を揶揄おうとでもいうのか、廊下側で白雪の帰りを待っているふたりの発言にも最早僕は動じることなく、彼女を送り出すことが出来る。――加点できるような余裕が心中にある時点で、僕の敵ではないからだ。
 あとに残された僕が為すべきは、このあと放課後までに白雪が何らかのトラブル――たとえばこの数分後に舞園くんのいちご牛乳が彼女を急襲するとか、霧切くんが箸を滑らせてとんかつを彼女の膝へ落とすとか、現在三人の隣でデザートらしきヨーグルトの蓋を一生懸命開けようとしている苗木くんがいつもの不運…いや幸運か、を発揮して辺り一帯に中身をぶちまけるとか――に見舞われたとき、速やかに自分のハンカチーフを白雪へ差し出すこと。それだけだった。



・百点満点減点不可

20131125