text | ナノ







 手鍋に鶏がらと、それが浸りきる程度の水。それをくたくたになるまで、それこそ半日から一日のスパンで沸騰させずに只管煮込むと、それだけで絶品のスープが完成する。蕎麦つゆに使うのであれば、後の味付けはシンプルに塩のみとするのが望ましい。
 時折水を注ぎ足す程度の手間はあるが、あまり掛かり切りになるのも宜しくない。――何より、他にすべきことも残っているがゆえ。

「いい匂いだ」
「当然よ、血抜きも水洗いも徹底したもの。貴方のほうは、粗方片付いてしまったの?」

 暮れの厨房には、時間帯の故あってか他者の影も皆無。朗々とした明瞭な発声にて紡がれた歓声も、常のそれより穏やかに聴こえた。
 質朴剛健真実一路たる風紀委員長であるところのこのひと――石丸清多夏さんにも、傍目には気付きにくいがしっかりオンとオフの切り替えは存在するのである。気付いているのは本当に、あたし含めてごく少数ではあるけれど。

 神事を三箇日明けに執り行う関係で帰省を急がないあたしと、ご家庭に時節柄ノロウィルスが襲来したとかで今年は帰省を諦めたらしい彼――「不謹慎だとは分かっているが、両親の無事も確認できた今となっては正直……その、運が良いとさえ思ってしまうな」だなんて、おおよそ清多夏さんのものとは思えない科白を賜った!――が、こうして年越しを共にと思い立つのは自然の道理で。
 平生のこの日よりずっと張り切って支度をするあたしと、それを待っていてくれながら食堂の、厨房にほど近い座席を陣取って今年度の風紀委員会における議事録など雑多な書類を整理している彼の姿のみが、大晦日のいま、ここにあった。

「お陰様で、あとは総括を書くだけで纏まりそうだ。――きみが淹れてくれた林檎の葛湯、あれは美味いな」
「お気に召して頂けたなら幸いよ、またお作りするわね」
「ああ、是非お願いする。――それで、…ええと、あの」
「なあに?」
「……何か、僕に手伝えることは無いだろうか」

 何もかもきみにして貰ってばかりだから、なんて。いつも通り殊勝なことを口にしながらおずおずとあたしの返答を窺っているらしい清多夏さんには申し訳ないのだけれど、現状とくにお手伝い願いたいことに思い当たらない。というか、あたしの好きでさせて頂いているのだから、特にひとりでも支障は無いのだし。

「大丈夫よ、特に困っていないの。冬期休業中の課題にでも当たっては如何?」
「……終業式当日とそこから二日、ふたりで済ませてしまったではないか」
「あら……うふふ、そうだったわね。でも、まだ英作文日記が残っているのではなくて?」
「それは措く。年始にきみのご実家にお邪魔するときのことを書く予定だからな」
「まあ。いらしてくださるの? ……もう」

 この厨房で、こうして背後から抱擁を受けるのももう幾度目か数えることに飽くくらい。
 手にしていた菜箸を奪われ、傍にあった俎板の上へ放られた――あ、あたしがではなくて菜箸が、ね。
 すっかり灰汁を取り終えて、澄んだ水面がただ凪ぐばかりのスープはそろそろ頃合い。時間としても。新年を迎えるまでに軽く摘むように、と拵えておいた鱈すり身の湯葉揚げと鶏肉と茄子の揚げ浸しもうまい具合に整っている。

 温かい拘束から離れがたければ、なんとはなしに体勢を半身にして、頬をその逞しい胸板に預ける。
 こんなふうに昼と夜となくお互いを求めていることに幸せを感じられるのなんて、今のうちだけなのかしら。そのうちこの日常が普通になって、「所帯染みる」がプラスの意味ではなくなって、そうして褪めてしまったり、するのかしら。
 ――それもまた、いいものなのかもね。

「僕はつい先刻、今年の風紀委員会の業務を無事に終了した」
「はい、存じておりますわ」
「――故に、この冬は学生の当然の権利として確と休日を謳歌するのだ!」
「あらあら、以前からは考えられない科白だこと…そういえば腕章、外しておられるのね」
「食堂に置いてきた。……まだ部屋には戻れそうにないかね」

 そろそろ貴方がしびれを切らすころかな、とは思っていたの。
 丁度タイミングよく鍋があぶくをひとつ立てたので、腕を伸ばして火を止めた。

 これで、あとは数時間後、蕎麦を投入する頃合いになってから部屋のカセットコンロで再び火を通せばよい。ふたり、今年の想い出など語らいながらトッピングの山芋を摩り下ろすなりさつま揚げや蒲鉾を切るなりしてみるのもまた、味なものかも知れない。実家から取り寄せた生蕎麦も、彼の口に合えばいいのだけれど。
 このスープにお醤油を垂らすだけで美味しいお雑煮に仕上がるのよ、と告げながら片づけをすべくそっと身体を離すと、珍しく少年のようなわくわくを隠さない表情の清多夏さんに出逢えた。貴方の「冬休み」、あたしに頂けたってことでいいのかしら。

 華やかでない、只管しんみりとして且つ、とてもとても穏やかな、この暮れ。
 それでも、貴方とふたりで過ごす今日が、明日が――これからが、とても楽しみで、とても幸せよ。

 今からこんなことばかりしていたら数十年後までネタが持たないかも知れないわね――なんて冗談めかして苦笑してみせたら、生憎と僕は同じネタで繰り返し楽しめる手合いの人間なのだ、と珍しくも平然と返された。オフの清多夏さん、実はあたし、まだ見慣れないのよねえ。



「年越しの番組はなにを観ようかしら」
「舞園くんのステージは年が明けてからになると言っていたからな」
「その場に立ち会えたら素敵だったのだけど」
「僕たちのクラスからは苗木くんしか当たらなかったのだったな」
「もう妹さんとコンサート会場にいらっしゃるのでしょうね――ふふ、今ごろ皆さん思い思いに過ごされているのかしら」
「……僕ときみも、な」
「ええ、違いないわ。ところで清多夏さん……あたし、さやかさんのコンサートを観終わったあとは『年の初めはさだまさし』を視聴する心算なのだけど宜しくて? うち、年越しは例年これなのよね」
「駄目だ」
「まあ意外、何かご覧になりたい別の番組がお有りかしら。お笑いとかお好きですものね……だったら貴方に合わせるわ」
「否、舞園くんのステージが終わったらTVは切るぞ」
「あら…どうして?」
「――む、そろそろ部屋に戻らなくては紅白歌合戦が始まってしまうな。確か澪田先輩たちは出順が早いのではなかったかね」
「! そうだったわ、急がないと。確か紅組のサポーターに盾子さん、白組のサポーターに桑田さんがいらっしゃるのだったわよね、きちんと追い切れるかしら……」


・20131229

 蕎麦に免じて姫納めだけは我慢しよう。なに、僕は忍耐の利く男だからな!

Back