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Tgでは珍しい王道風邪ひきシチュ



 前方を往く、華奢な後ろ姿。ふわりふわりと揺れる亜麻色の髪から光の粒が零れているような錯覚すらおぼえる。
 その足取りは軽く、何処か覚束なげで、人間の棲む地に初めて降り立つことと相成った花の妖精を思わせる。傍らには学級でも見目麗しいと名高い二人が控えているが、寸分も見劣りしないそのさまにはまっこと感服の一言である。


 「あらやだ、さやかさんたら――」と口元に手を添え優雅に微笑した僕の天使が、その穏やかな容貌を少しも乱すことなく唐突に膝を折ってその場にくずおれたのは、僕が改めて彼女の美しさに陶然と嘆息した、その瞬間であった。


 血相を変えて彼女の名前を叫ぶ舞園くん、咄嗟の事態にも関わらず冷静にその場に屈み、呼吸の有無・脈拍の異常・舌を噛んでいないかなど検分を始める霧切くんの姿を認め漸く我に返った僕は、二人から「早く部屋へ運んで!」といつになく厳しい調子で促されるまで微塵も動くことができなかった。



“――仕方ないわ、清多夏さんは不測の事態にアドリブの利かないかたなのだもの”



 霧切くんの見立てでは現状において命にかかわる事態ではないらしいが、単純に「無事でよかった」と片づけるわけにはいかない。
 いつだったか彼女が冗談交じりに苦笑しながら寄越してきた科白に目の奥が鈍く痛むのを堪え、細く軽い身体を抱き上げた。



 * * * 




「――三十七度、七分」
「先生がインフルエンザでは無いって仰ってくださったわ、だから大丈夫」
「ッ何処が!! ――っ済まない、…何処が大丈夫だというのだね」

 病床に就き儚くなる最愛のひとの手を、傍らで握る。そんな経験、滅多にしたいものではない。今わの際に一度だけで構わないというのに。
 荒げかけた声を必死に留めれば、「だって、今日じゅうに熱が下がってしまえば明日には普通に登校できるということでしょう」と発熱のせいで少々ぼうっとしているせいかいつもよりやや緩慢な動作で首を傾げてこられた。いたいけな仕草。

「いかにも、貴方がお好きな精神論じゃなくて?――ふ、ゎ」
「……布団は肩までしっかり覆うように被っておきたまえ」
「有難う。うふふっ、まるでお父さんみたいね。何と言うのかしら、……落ち着くわ、とても」

 ちょこんと布団を握る、その両手までも冷えてしまわないか心配でたまらない。このような状態の恋人に対して、皆勤出席の意義を滔々と説くような行いが果たして正しいのか。――今の僕なら、その答えなど考えずとも分かる。
愛しいきみひとり護れずして、なにが風紀か。

「きみのことだから、早く治そうと躍起になるのだろう。――許さないからな」
「え?」
「冬期休業が間近で授業のカリキュラムは止まっている。大きな校内行事も年内には行われないのだし……いい機会、なのではないかね。ゆっくり休むといい」

 窘められるとき、宥められるとき、いつも彼女が僕にそうするように、額から柔らかい前髪の生え際をたどり、掌をそっとあてる。多分に、熱かった。自分の身体から発される救難信号にも気づかずに、きみは一体なにを。
 予想通り、「そんなわけには」と眉を八の字に下げてみせる愛らしい病人に、ぺちりと軽い叱責を加えてやった。上がりかけの熱を持った身体であるにもかかわらず、その額は上質の絹のようにさらりとして僕の接触をいなしていく。――まるで、僕のこの手は求めていないものだとでも言うかのように。
 先刻、下校中に彼女が倒れた時分においても咄嗟に身動きのひとつも取ることが出来なかった僕では、彼女の支えにもなってやれないのだろうか。心優しい彼女にまた、甘えて気を遣わせてしまう――分かっていながらも、つい本心が零れた。

「…きみからしてみれば、僕などでは頼りにもならないかも知れないが、――きみのために、僕に出来ることがあれば何でもする心算なんだ、だから」
「――違うわ?」

 そんなことないわ、程度で、よかった。他の誰に許されなくとも、彼女の肯定さえあれば支障はない。誰からの全肯定よりも、彼女からの非・否定のほうがずっと欲しいものなのだから。
 ただ、喘ぐような呼吸の中に確かに挟まれた言葉には、いつもの彼女の穏やかな微笑の成分が籠っていた。


「清多夏さんだから、頼りにしているのよ?」


 あたし、貴方が思っているより、なんにも出来ないわ。
 ご覧のとおり、体調管理すら碌にできない醜態だし。他にも色々、情けないところも足らないところも、沢山あるの。
 すごくすごく恥ずかしいから、普段は必死に隠しているのだけれど――貴方にだけは、こんなあたしも分かって頂きたいって思うから。
全部分かったうえで、それでも受け入れて、愛して頂きたい……って、我儘になってしまうから。
 御免遊ばせ、ね。



 身体の節々が熱を持って痛むの、と寝かせた時点で申告があったにも関わらず、つい堪らず布団ごと掻き抱いてしまった。流石に響いたようで平生とんと聞かない彼女の悲痛な呻きなど頂戴してしまい、慌てて寝床を整えてやる。
 ぐず、と鼻を鳴らす恋人はいつもよりずっと幼く見える。タオルかハンカチーフのようなものを手元に握らせておいてやるほうがよかろうか、そこまで考え至るようになったところで僕は漸く、彼女をこうして咄嗟に運んできた先が自分の部屋であったことに気付いたのだった。……無意識とは、怖いものだ。


 彼女に、応えられるような僕で在りたい。
 いつでも、彼女のために動ける僕で在りたい。
 たとえ、一瞬足を止めても。
 次の瞬間には駆け出して、きみに触れていられる僕で在りたい。

 きみのことを考えていれば、自然と頭も身体も動く筈だから。


「タオルを濡らしてみた! これで冷やすといい」
「広げて顔を覆うのではなく畳んで額に置いて頂ける? あたし、未だ貴方に看取られたくはないわ」

 仕方がない、などと。そのようなこと、もう言わせるものか。
 僕とて一男児。惚れた女性の世話ひとつ焼けず、伴侶が務まるわけがないのだ。

「……お粥を、」
「ええ。お気持ちも努力も確と感じ取れてよ、ただ――食感だけが感じ取れないわ」
「う…出来るだけ柔らかい方がいいと思って、その」
「ミキサーに掛けたのね。……清多夏さん、これはお粥ではなく重湯といいます」
「おもゆ……うぅ」

「でも、ちゃんと美味しいわ。――有難う」

 未熟な僕に出来ることはひとつ。地道な努力、これに尽きるのだ。
 愛するきみのため、頼れる男になると誓おう。なに、継続力には自信があるのだ。今に、看病だってそつなくこなせるようになる筈だ。



「あ」
「口元が汚れてしまったな、顎まで伝って――よし、きちんと拭き取ったから問題ないぞ」
「……あの、清多夏さん。それ、」
「布巾だ。無論、新品を卸したばかりの清潔なものだから安心したまえ」
「布巾じゃないから斯様に申しました。…広げて、よぅくご覧になって」
「――……ッ?! な、え、僕はどうしてよりによってこれを、ああああ」
「ふふ、足を通すところがある布巾だなんてレアリティが高いわねえ…お気になさらないで、慌てていらしたんだって分かっているから」


 だって貴方、アドリブに弱いひとだものね。


 ――訂正しよう。少々、この印象を払拭するには時間を頂戴することになりそうだった。一先ずは、土下座から入りたい。


//20131223〜1229