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文学少女と四行詩の夕べ



 ひとすじの乱れをも許さず、黒板を拭きあげたときの爽快感は、日直業務を果たすときにのみ味わえる特権めいたそれ。

 放課後の教室は、平生であれば級友が居残って休み時間さながらのまったりした空間になるだろうところだけれど本日は珍しくも全員が委員会だの部活動だの個々のお仕事だの、で既に無人と化していた。未だ「彼」が委員会を終えて迎えに来てくださるまで時間があるので、ついでに黒板消しクリーナーの中身まで綺麗にしておくことにする。
 黒板に付属した形式のラーフルクリーナーの粉受けを取り外して――ちなみに黒板消しをラーフルと称しているのは一部地域だけであるらしい――、チョーク粉をビニール袋に空ける。新しいフィルターを取り出してきながら、ぼんやりと日頃は考え付けないようなことを考え始めてしまった。


 白墨を手に取る姿が、一介の学生以上にさまになるひと。

 この、今の教室のこれと同じ、汚れのひとつもない黒板に淀みなく書きつける文字は、「清掃週間」「遅刻厳禁」「一致団結」エトセトラ。彼のその人となり・立ち姿と同じく、凛として且つ整然たる文字には疑いなく、彼の熱が籠るのだ。
 今こうして、あたしが日直業務をこなしている間にも、この学園の違うフロアで、常のように手にした白墨を――そういえば彼って結局、両利きなのかしら――高らかに鳴らして今月の遂行目標など披露しておられるのだろう、高潔で純朴な「風紀委員」の御方。

 今日は時間が合わないから一緒に寄宿舎に戻るのは無理みたいね、と口にしたあたしに、彼らしくもない我儘。委員会が終わったら絶対に迎えに行くから、どうか日直の仕事を終えても暫く教室で待っていて貰いたい――なんて、ただ片道十数分の道を歩いて戻るだけのことなのに、そんな真剣な顔をして仰るからつい笑ってしまった。仕方がないひと、と思いながらも、嬉しかった。
 愛、って、いつか褪めてしまうものかしら。彼――清多夏さんが、あたしのことを強く想ってくださるこのときも、風化してしまうのかしら。あたしが、彼を強く想っているこの気持ちは、何処かに行ってしまうのかしら。


 しゃがんで粉受けを覗き込んでいたところに深く溜息を吐けば、そこからチョーク粉が噴き上がるのは自明の理であった。途端に陳腐なメランコリーは吹き飛び、暫くその場で咳き込んでしまう。ああ、あたし莫迦みたい。
 完全冷暖房完備とはいえ、いち教室には授業時しか暖房が入らない。放課後暫く経ったこの教室も今は、じわりと底冷えする空気が席巻している。粉塵を扱うので、と黒板の清掃に取り掛かるより前から開け放していた窓から十二月の冷たく澄んだ風が、細く長く吹き込んでくる。てのひらで、受けた。


 ないものにも掌の中の風があり、
 あるものには崩壊と不足しかない。
 ないかと思えば、すべてのものがあり、
 あるかと見れば、すべてのものがない。


 不意に記憶の底から立ち上って来た一節の詩を、暗誦する。

 愛には形があるように見えて、無い。無いように思えて、確かにある。望むらくもない、と感じながらも、喪いたくない、と望んでしまうからだ。


「……何よ、『ルバイヤート』?」

「あら」
「ふ、ふん…放課後の教室で古典の詩を口遊む、なんて今時ハーレクインのヒロインだってやらないわよ……有栖川なら、まあ多少は絵になるでしょうけどね」


 風は時を同じくして、この季節をその名に抱く少女を呼び寄せたらしかった。棒のように細い脚。立ち上がって教卓越しに、扉に手を掛けたまま此方を見ている彼女――腐川冬子さんが、先刻あたしが暗誦したところの引用元を呈してくれる。
 自身が名著を生み出すというだけに留まらず、「文学少女」の名を冠しているに相応しく彼女は古今東西の文学に造詣が深かった。クラスでは専ら、十神さんに不毛な懸想を続ける妄想小説家――と桑田さんがたなんかは仰っている――というイメージが強いのだけれど、その内実にはきちんと、文筆業に身を置いている人間としての矜持なり地盤なりが備わっているのだ。

「冬子さん、如何なさったの?」
「忘れ物…取りに来ただけ。わ、悪かったわね邪魔して」
「気を付けて、この教室に忘れ物をするな――」
「……有栖川って意外とくだらない事言うのが好きなのね…莫迦じゃないの」
「あら、心外だわ。ユーモアは世界を豊かにするわよ? ――それに、あたしはこの教室だって広義の『旅籠屋』であると考えるけれど」


 この永遠の旅路を、人はただ歩み去るばかり。
 帰って来て謎をあかしてくれる人はない。
 気を付けて、この旅籠屋に忘れ物をするな。
 出て行ったが最後――二度と再び帰っては来られない。


 ひとは、幼年期を過ぎれば幼年期には戻れない。少年期を過ぎれば少年期には戻れない。そして、この青春のひとときを過ぎたなら、二度とこのときには帰ってくることができない。何をか喪っても、何をか取り戻したくても、もう何処に行ってしまったやら分からない「旅籠屋」に、戻り得る術はないのだ。
 たとえ、今こうして「彼」と慈しみ培っている暖かで柔らかな愛が、今このときに置き去りにされてしまうものであっても。一度過ぎ去ってしまえば、もう取り返すことは叶わない。


「――平たく言うと、時折ふと考えることがあるのよね、という話なの」
「な、何よ…あんたでも迷うことなんてあるのね」


 排他的、というか、内に閉じこもりがちであると評されがちな彼女だけれど、文学を愛する人間がそうそう他人に無関心で居れようものか。現に、忘れ物であると思しき文庫本を既に手にしながらも冬子さんは教室を出てゆこうとはなさらなかった。両手に提げていた鞄を自分の机の上に下ろしたのは、もしかしなくともあたしの与太話を聞いてくださる算段なのかしら。
 教卓に頬杖を付きながら、「一寸だけお時間、頂くわね」とだけ微笑んで、続ける。


「愛って何なのかしら」
「ひいいぃいっ色ボケ巫女が何か言い始めたわ! 不純よ不潔よッ」
「――本当にあるのかしら、気の迷いなどではなくて」
「あたしの小説に出てくるヒロインみたいな事言わないでよ、あれはフィクションだから許されるのよッ……というか、あるに決まってるわよ、無かったらどうするのよ、世の中の恋愛作家は揃って路頭に迷うことになるじゃない」
「本当は無いものにこそ抱く憧憬なのじゃなくって?」


 あ、痛い。何か飛んできたわ、――飴玉。


「…薄荷、だなんてレトロ極まるわね」
「き、嫌いなら檸檬もあるけどっ……あんた、ちょっと落ち着きなさいよね」

 瞬間的に、桑田さんも吃驚なコントロールであたしの額に飴の包みを命中させた冬子さんは、ふん、と鼻を鳴らしながらも腰に手を当てて此方を見据えていた。ノンフレームの眼鏡越しに揺れる墨色の瞳に宿る光は、盲目的な偏愛のそれでなく、静謐な理知のそれ。
 彼女は――超高校級の"文学少女"は、「こんなことも分からないの?」とでも言いたげな素振りで、こう続けた。


「明日のことは誰にだってわからない、」

「! あら、」
「――あんた、気は確かなんでしょうが」
「……百三十五節、ね。…成程」


 明日のことは誰にだってわからない。
 明日のことを考えるのは憂鬱なだけ。
 気が確かならこのひとときを無駄にするな。
 二度と帰らぬ命、だがもう残りは少ない。


「あたしは十神くんが好き。この愛は確かなものよ、……あ、あんたたちは莫迦にするけど、あたしの中では確かなものなの」
「……莫迦になんて、しないわ?」
「知ってる、あんたはそうよね。…だって、あんたも同じように、愛してる奴が居るもん――だから、」


 愛がそこにあるとかないとかイタい事考えてる暇があったら、そのぶんちゃんと愛しなさいよね。確かな気がしないのなら、自分で確かなものにすればいいのよ。 


 最終的には、どの詩の引用でもなく、どの書物からの引用でもなく、「文学少女」はひとりの恋する少女として、あたしをそう戒めてくださった。
 詩の一節に囚われて、確かにそこにある――培ってきたものまで疑いかけたあたしを。詳しく説明こそしなかったのにそこまでを「読んで」きた冬子さんは、流石のベストセラー恋愛小説家であらせられるのだった。


「食べなさいよ、飴」
「有難う、頂くわ――まあ、懐かしい味だこと」

 柄にもないことを言った、と言わんばかりの冬子さんが照れ隠し丸出しで指を差してくる。ちょうど疲れた身体――詮の無い考えごとだって消費するものはするのだと――に糖分を欲していた身の上であれば、透明なビニールを裂く手も逸ってしまう。
 ころりと舌先で転がすと、水飴の甘さとすっと柔らかな清涼感が咥内に広がってゆく。今更ながら薄ら寒さを感じ、開けていた窓を閉めてしまおうと窓際へ歩み出す頃、背後から「っていうか、有栖川さあ、」と追撃が来た。


「あんまりそういう事ばっか言ってるとアイツ…石丸が何するか分かんないんだから止めなさいよね」
「清多夏さんが? 何故かしら」
「アイツ、他の何よりあんたに嫌われたり離れてかれたりするのが一番ヤな奴じゃない……」

「けれど彼はとても頭のいいひとだもの。何をするか分からない、なんて事はないわ? きちんとご自身でコントロールが「本当に出来てるの? よく考えてみなさいよ」……ま、まあ、ケースバイケースな側面は否定しがたいけれど」

「ほ、ほら…やっぱり。いい、あんたは絶対アイツの前で『愛って本当にあるのかしら』なんて言っちゃ駄目なのよ。巷のやっすい恋愛ドラマなんかじゃ狂愛に駆られた女なんかそりゃもう枚挙に暇なく目にできるけど、狂愛に駆られた男なんて需要もないうえただただ気持ち悪いだけなんだからねッ」
「あらあら…冬子さん、意外と演説家な一面もお持ちでおられるのね」
「ウィトゲンシュタインも言ってるわ、『語り得ないものについて人々は沈黙すべきだ』って! 有栖川、あんた自分でも分かってないもんについてグダグダ言うべきじゃないわッ…黙るの。ね、あたしだって十神くんからよく命令されるもの黙ってろって!」
「おおう…二十世紀哲学の雄を某御曹司の暴虐と同じ次元で語ってしまうのね……」
「別にあたしは超高校級の"哲学者"とかじゃないんだから別にいいのッ! そもそもゲイはお呼びじゃないんだからッ――って、そうじゃなくて」


「――やあ、腐川くんもまだ残っていたのかね!」


 文学と哲学の狭間を二人とも微妙に中途半端な知識で彷徨いながら――所詮はあたしたち、特定分野を除いてはただの高校生でしかないのだし――戸締りしつつ侃々諤々(?)の議論に興じていたところに、朗々と響いた声。
 大量の資料類はすべて風紀委員会のものなのだろう、寄宿舎にまで持ち込むらしいそれをどこか誇らしげに両腕に抱えながら、ここまでの経緯をご存じない清多夏さんは真っ直ぐ教卓裏のあたしのところまで歩んできてくださった。


「あ、あたし、明日の教科連絡写して帰るから…先に帰っていいわよ、有栖川」
「あら…宜しいの?」
「ふんっ…別にいいわよ、とっとと帰りなさいよね其処の冬なのに暑苦しい旦那と! あぁ暑苦しい暑苦しい……ッ」

 そういえばこのおふたり、「冬」と「夏」なのね。すっかり帰り支度を整えていたはずだった机上の鞄から、さもわざとらしげにご自身のスケジュール手帳を取り出しながら、冬子さんはあたしたちに手を振ってくる。無論、別れのジェスチャーたるそれではなく野犬を追い払うときのそれで。しっしっ、と。あらあら、ごめん遊ばせ。

 扉が閉まる直前、不意に冬子さんと目が合った。
 さっきと同じような険しい威嚇の顔をしていながらも――なんとなく、その口元には呆れたような笑みを見つけたような気がした。


・文学少女と四行詩の夕べ

20131209

 まったく、莫迦じゃないの。なにが「愛って確かなものなのかしら」よ。
 アイツの声が聴こえた瞬間に目ぇきらきらさせちゃって。そこにあるのが愛じゃなくて何だっていうんだか。