text | ナノ
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Ma belle langue de chat



 純白の、脹脛(ふくらはぎ)までを覆うワンピースの裾が、北風を孕んで時折ふわりと翻る。
 夏に見飽きる程見て結局飽きなかった「彼女」に似合いのサマードレスとも似たそれは、而してきちんと冬用のそれであったらしく生地をたっぷり使用しているようで、少々裾が持ち上がったとてみすみす露出を赦すでも無いようだった。秋も深まりきって冬へと移行しつつある近日の気温を憂いて袖を通しているらしい淡い伽羅色の羽織物は、確かカーディガンではなくニットボレロだとかいう名称であったと記憶する。女性の装いには生憎と詳しくないが、目にも温かそうなそれが、白雪の繊細で儚げなさまをやわらかく包んでいるのは非常に優美な構図であるということくらいは僕にも分かった。
 全体的に薄い配色の、ひらりふわりと頼りなげな羽衣のような輪郭を纏って僕の傍らで呼吸し、言葉を紡ぎ、笑顔を咲かせる白雪は冬の陽に愛された天使の如く無垢にきらめく。

 午前中は図書館で課題をこなし、午後は買い物に――何かしらその時の需要に合わせて揃いの文具を求めるのが、すっかり月初めの恒例となりつつある。くすぐったくも、嬉しくもあるような変な感じだ――と週末を有意義に過ごせている。今は丁度、明日の予定など話し合うため何とはなしに目に付いた喫茶店へ入店し、一息ついたところであった。
 喉を潤そう、という流れになるまでずっと交わしていた取りとめのない雑談に関わらせて二言、三言と口を開きながら白雪が取り出すスケジュール手帳に目新しい「それ」が貼り付けられているのを見つけ、思わず声を挙げる。

「成程、それが所謂プ…リクラ、というものか」
「最早ブームも下火なのだけれどね。かつては若い女の子を中心に老若男女、ファミリーからおひとりさままで幅広く、きっかけさえあれば撮影に興じていたと言うから驚いてしまうわ」
「……ひとりで、あの機械に。それは如何なる精神修養の為の苦行なのかね」
「生憎なのだけれどあたしにも到底それは解せそうに無いわ。お力になれず御免遊ばせ」

 縦長の、数センチ程度の写真シール。弾けんばかりの笑顔でVサインをとる舞園くん――心なしか、メディア各方面で見るそれより幼いように見えるのはそれだけ衒いがないからなのか――と珍しくも微笑を浮かべてやや所在無げに傍らの二人へ寄り添っている霧切くん。中央に収まって――さきの二人は共に160センチ台なので実は白雪が最小なのだ、普段の三人の様子からはあまりイメージが湧かないが――その二人とそれぞれ腕を組み、胸の前で両手指を使ってハートのマークを組んでいる白雪。あ、これは。まさか「あれ」なのか。

「ふふ、やはり使用料が必要だったかしら? 忘れろビーム」
「な、な、……口に出ていたかね」
「エスパーですもの。…あ、これはますます駄目ね。さやかさんに怒られてしまいそう――そうではなくて。ふふ、貴方のことならば多少はあたしにも分かってよ?」

 いつも傍で見ているのだもの。などと事もなげに言い放ち口元を押さえて笑んでみせる、たおやかな姿に見惚れるのは今更のこと。悪戯げに瞬く紫水晶の瞳はその次の瞬間には室内に大きくとられた窓のほうへ向けられており、ややもすれば白雪は未だ開かれてすらいない手帳を机に立て、その上に軽く顎を乗せて僕のほうを見上げてくる。珍しく崩れたその姿勢は、気持ちが安らいでいるさまをありありと思わせるのんびり屋の猫のような具合だ。「めっきり寒くなってきたわよねえ」と此方を見上げてくる上目遣いの愛らしい視線をただ無言で絡め取れば、猶更いとおしさが募った。嗚呼、日常の中に当然のように刻まれるきみの存在のなんと尊いことか!

 今度は是非、僕と二人で写真を撮って貰いたい――そう言い損ねたな、と気付いたのは、僕たちの会話が止むのを見計らったかのような頃合いで店員某氏がテーブルへやって来てからのことだった。ご注文はお決まりでしょうか。いつも耳にしながら若干の違和感を覚える「コンビニ敬語」でないことに却って新鮮味を覚えながら、視線を向かいの白雪へと戻すと片手指先を桜色のくちびるに当てて思案に耽っているところであった。
 そうねえ如何しようかしら、と首を傾げる姿をこうして間近で眺めることが日常になったのは、何時頃からだったろうか。何気ない一時に幸せを感じるようになったのは、一体。ややあって「じゃあ、」と未だに名残惜しげに響く白雪の声に我に返る。


「あたし、モカ・マタリ。ストレートで、――はい、ホットでお願いしますね」


 僕はそれを聞いて、漸く注文の品を決めた。



 * * *


  
「意外。レモネードなんてご存知でいらしたのね」
「……白雪は僕を何だと思っているのかね」
「うふふっ、失礼遊ばせ。――あ、はい。珈琲が此方です、レモネードが其方」

 然程閑散としている訳でもなく適度な客入りがあるにも関わらず、なかなかに迅速な品の提供スピードである。其方、と白雪のほっそりと華奢な手指で以て示された僕の手前に、透き通った檸檬色の中に泡が弾けて混ざるタンブラーがことりと置かれた。
 やっぱりちょっと疲れたわね、などと白雪が苦笑したのを皮切りにどちらともなく飲み物に手を付ける。細い線が刻まれた縦長のタンブラーを一口啜ると、爽やかな柑橘の薫りと共に清涼感が咥内を駆け巡った。日頃、炭酸飲料など飲みつけないのでそのぶん、新鮮であった。時節柄少々寒かろうかと危ぶまれたが、店内は当然のことながら暖房が効いているため何ら問題はなかった。
 白雪に目を遣る。カップを受ける小皿――ソーサー、というらしい。セレス君に教えられてもいっこうに覚えなかったそれを白雪が手にしているのを見るなり一瞬で記憶に焼き付けることが出来たのだった――を片手に、優雅にカップを傾けて、すぐに下ろす。湿ったくちびるをなぞる舌の紅さが憂いを帯びているようにも見えた。言うなら、今か。

「白雪、」
「……如何か、なさって?」


「ぅ、…僕には少し、炭酸が強いようだ。……暫く、その、替えて貰えるかね」


 きみの、其れと。
 駄目押しの如く、彼女のほうに一口ぶん減ったタンブラーと使い忘れていたストローとを押し遣れば、白雪は僅かに固まったのち、眉尻を下げふわりと微笑んだ。

「まあ! うふふ、もしかして味覚は幼くていらっしゃる? 新発見ね、貴重だわ――はい、どうぞ」

 しかたのないひと、と言いたげな慈愛に溢れた眼差しつきで、目当てのものを手にすることに成功した。見下ろす先のカップに、一か所ほのりと燈った赤い跡は、今日の日のために白雪が施して来てくれたらしい薄付きの口紅のそれであろうか――迷わずその部分に口を付け、淹れたてらしい珈琲を一口頂いた。存分に熱い。白雪は珈琲は無糖のものを好むのでこの一杯にも砂糖やミルクなどが加えられていた様子は無いが、口を付けた箇所が箇所であったためか、僕には幾分か甘いように感じられた。
 向かいでは、片手にストローの袋を持ち暫し逡巡していたらしい白雪が結局袋を開け、真っ新なそれをタンブラーへ差し込んで銜えていた。僕のささやかな邪心の部分が残念がっているのを感じなくもないが、それより、次にストローを口から離した白雪から発された一言が胸を打った。


「今朝、待ち合わせのとき言いそびれてしまったのだけど、――きょうのお洋服、とっても素敵よ」


 ――そうなのだ。否、自分で自分を素敵だと褒めそやす趣味など無いのだが、彼らのセンスに狂いがあろう筈がない。
 実は、きょう僕は珍しくも私服を着用していた。白雪と行動を共にするようになって、初めて僕は「取り合わせ」を意識するようになった。読み物ではないのだから読む読まないという別は不適当であろうと考えてきた「空気」についても、おぼろげなりに理解は出来るようになった。白雪と、一揃いで見られたい。そのためには、あえかな微笑みを湛えて街を歩く妖精の傍らに居るためには、制服を着ているわけにはいかないのだ。
 学校は休みであろうと学生という生き方に休みなしと心得て生きてきた僕にとって、プライベートという概念が顕在化したのは本当に最近――それこそ白雪と縁を持って以降のことなのであって、然るに僕は外出するためのおしゃれ着(という言い方すらしないらしい。と江ノ島くんが言っていた)というものの持ち合わせは非常に乏しかった。白雪と結ばれて、共に出歩きたいと僕のほうから考えるようになって、僕は恥を忍んで平生白雪と親しくしている舞園くんや霧切くん、こういった方面のみ異様に強い桑田くんなどに教えを乞い、兄弟と不二咲くんに何度か買い物に付き合って貰うことで一通りの装具を揃えたのである。
(この話題に於いては非常に申し訳ないが、白雪本人に頼るわけにはいかなかった。私服を持たないことがばれてしまっては――などという理由ではない。ひとえに彼女の芸術的センスが怖かったからである、いろいろな意味で。先日とある会話の中で彼女が興味を持っているらしい"超芸術トマソン"とやらについて熱く語られた流れがあったが、あのとき僕は「やはり僕の選択は正しかった!」と心中密かに噛み締めていたことは言うまでもない。白雪のことは心から愛しているしすべて欲しいけれど、彼女の芸術観が一般的なものであるとは流石の僕にも思い難かった。)

 黒地に白の縦縞が走ったワイシャツに、細いタイは深い緋色。時節柄ジャケットを羽織り、あとはスラックスに革靴と至って凡庸な取り合わせ。而してこれまで休日平日の別なく基本的に制服で日々を過ごしていた僕にとってはかなりの挑戦に他ならなかった。
 制服の白詰襟でなく、墨色をした一つボタンのジャケットは落ち着かない。チェーンのネクタイピンは少々気取り過ぎていやしないか。自分でも何度も精査し無難であると判断した装いではあるが、もし、白雪の好みのそれと異なっていたらどうしよう。奇抜なものが好きだと言われたら僕にはとてもではないが修行が足りないのでは――などと。

 そう思っていた矢先の、この一言。感想のひとつも強請っていやしないのに、この好評価。この笑顔。普段の僕であれば、努力はするのが当然のものでありそれに対価など求めることはないのだが、而してこう思った――頑張ってみて良かった、と。
 きみのほうこそ素敵だ、と返す僕の声色が上擦ってはいなかっただろうか。なにぶん外見を褒められる経験はあまり無いうえ、しかも今回は相手が有栖川白雪である。ああ、僕たちは今、きちんと周りから休日を謳歌するカップルに見て貰えているだろうか!

「なんだか、貴方があんまりお洒落になってしまうのは不安でもあるのよ」
「え! 何故だね」
「ただでさえ最近の清多夏さん、以前に輪を掛けて恰好良いのだもの。このうえ魅力的になられでもしたら――困るわ、あたし、貴方を奪われてしまう想像なんて夢でもしたくなくってよ」

 はむ、とストローの先をくちびるで食む仕草が愛らしい。

 安心したまえ、白雪。きみのそんな話を聞いているさなかにもその可能性に思い至らず、きみの存在ばかりに気が行って仕方のない僕なのだから。そもそも、昨今の僕に何らか変化があるのだとしたら――確かに、少々「丸くなった」自覚はあるが。それが僕の肩書を考えるに良いことなのか否かは知れないけれど――、それはすべて、きみに愛されたいゆえであるのだから。
 再びカップを持ち上げて、珈琲を啜る。そろそろ、頃合いか。

「それはそうと、――そろそろ、炭酸は程好く抜けただろうか」
「あ、そうだったわね。ええ、今なら貴方にも大丈夫だと思うわ」

 替えて貰っていたカップを、再び白雪のほうへ押し出した。律儀にもタンブラーからストローを抜き取ろうとしているのを「そのままで構わない」と制して、戻されたそれを受け取る。返ってきて初めて、そういえばずいぶんと気軽に共有してしまったなと気付いた。
 彼女が気にしてやいないだろうかと向かいを窺うと、丁度カップを口に運んだところで――ひくりと柳眉を跳ね上げるのが見えた。数秒停止したのち、何をか言いかけたところで口を閉じ、次には口元を綻ばせて続ける。

「今更、間接も何も。と、思ったのだけど…ふふ、やっぱり照れてしまうわね」

 悠然と、しかし可憐に、何時もの通り零された蕩けるような笑顔。科白にそぐわず本当は照れてなどいないのだろうとも思われようものだが而して僕は知っている――有栖川白雪、という人間の本音は、口から出ないぶんは行動に出るのだ。
 いやだわ清多夏さんたら不意打ちなんて、と事もなげにふわふわ微笑んでみせながら、傍らの砂糖壺からカップに落とし込む角砂糖がひとつ、ふたつ、みっつ……いやいや待ちたまえよ。
 明らかに動揺しているらしいことが窺がえるその暴挙を見かね、流石に手を掴んで止めた。途端に目尻を朱に染めた白雪が、多少恨みがましげに僕を見上げてくる。ふだん他人にマイナスの感情を向けない"巫女"のこのような表情も、僕だけの特別か。

 ティースプーンでカップの底をかき回しながら、「あらいやだ、融け残ってしまったわ」とくちびるを尖らせる白雪。
 妥当なところであろう、その温度ならば。



 * * *



「――……有難う、」
「? 何がだね」

 
 帰り道。
 あの後は漸く本題であった翌日の予定など――白雪には催事の衣装合わせがあるのだとのこと。見せてもらえないか頼んでみたところ夕方以降の時間を貰い受けることに成功した!――話し合うことになり、店を出たのは十数分前。
 並んで歩を進めながら来週末の模試についてなど話をしていたところに、少々おずおずとした様子で白雪がそう切り出してきた。感謝される覚えは、ひとつもないのだが。

「さっきのこと、よ」
「ん、――ああ、もしかして飲み物を取り換えたことかね。それなら寧ろ僕が礼を言うところだろうッ! きみが珈琲に口を付けているのを見て、どうにも美味しそうに思えて仕方がなかった。それだけだ」

「……それは、違うわね。否、百歩譲ってそうであるとしても、感謝はされて頂くわ。



 清多夏さん――貴方、いつからあたしが熱いの駄目だってご存知でいらしたの?」



 有栖川白雪は、超高校級の巫女であり超高校級の天使であることに疑い無いが、実は軽度の猫舌でもあるのだ。しかも、本人はその事実に多少疎いようで、基本的に温かい飲食物を好んで摂取したがる。
 それに気付いたのはずいぶん前のことで、最早切欠はおぼろげだ。学級のレクリエーションの"打ち上げ"で鍋を囲んだときだったか、舞園くんが買ってきた中華まんを霧切くんと三人で頬張っていたときだったか、それとも。兎に角。

 ――すこし、し慣れないことをしてみよう。そう決心したのは白雪が喉の渇きを訴えたときであった。
 奇しくも肌寒い冬の始まりの今日、白雪が例によって温かい飲み物を欲しがるのは明白。そして例の如く冷たくなるまで放置してしまうだろう。彼女にとっての適温になるまで、僕が預かっていよう。――唐突にカップとタンブラーの交換を言い出したのは、ただそれだけの理由だったのである。
 なお、所謂「間接キス」の付属は僕への褒美のようなものだと心得ている。
 

 片手は緩く曲げて口元に指を遣り、ひとを指さすことを厭う右手指は示すようなかたちを取られて此方に向けられる。「それは違ってよ?」のポーズか。僕らの学級にいる某幸運の少年を彷彿した。僅かに傾いだ首が、僕からの返答を待っている。それは分かったのだけれど――僕は敢えて、"空気"を"読まない"選択を執る。
 こちらへ伸べられた華奢な手を取って再び歩き出せば「――ふぇえ?!」と常より幼げな声が上がった。ここは校外で、きょうは休日で、今の僕たちは"風紀委員"と"巫女"ではなく、ただの恋人同士だ。何の問題があるだろうか?

 26センチ下で水気と熱を帯びて揺れる紫水晶の瞳を見下ろして、僕は先刻聞いたような覚えのある科白で以て遅ればせながら彼女へ返答した。
 勿論、エスパーだからだ。――ではなく、
 

「きみのことならば、多少は僕にも分かるのだよ」


・Ma belle langue de chat

20131202

 十二月の天使がちらりと舌を覗かせた。フランス菓子のように甘い、その舌を。