「生…先生」
自分を呼ぶ声が、遠くから聞こえる。
「先生、起きてください」
目を開けて、視界に入ったのはファントムハイヴ姉弟…ん?ファントムハイヴ?
「むぇあっ!!おはようございます」
「先生」
状況と事情を瞬時に把握して跳ね起きる。そうだった…昨夜は二人と一緒に寝たんだった…。ふと見ると、伯爵とご令嬢は浮かない顔をしていた。
「屋敷の様子がおかしいんです」
「え?」
屋敷の様子がおかしい?どういうことだ?自分にはよくわからず、眉根を寄せてしまう。
『セバスチャンがシエルを起こす時間も、私を起こす時間もとっくに過ぎているのにまだ来ないんです』
「なっ…」
一日だけだが、彼の仕事ぶりは見てきた。彼ほどの執事なら、それはおかしいと感じられるくらい完璧だった……急に、自分にも屋敷がおかしいという気がしてきた。その時、扉をノックする音が。
「失礼します」
入ってきた人物を見て、思わず戸惑った。それは、伯爵とご令嬢も同じだった。
「遅くなり申し訳ございません」
やってきたのは、タナカだった。その事に、伯爵とご令嬢が恐る恐る口を開いた。
『タナカ…』
「ーーーー…セバスチャンはどうした?」
「一体何がどうなってんだよ」
「酷い…」
息を乱し、二つの小さな体は廊下を駆ける。
「まさかこんなことになるなんてね…」
立ち止まることなく、できる限りのスピードを。
「ぼっ…坊ちゃん゛…と、お、嬢様に゛っ、なんてお伝えすれば…ッ」
「う゛ぅ〜っひっ」
「…あっ」
たどり着いた部屋の中には全員おり、その全員の視線が向けられた。
「坊っ…ちゃん……お、嬢…様…」
部屋の中を見た伯爵とご令嬢が目を見開いた。
「ーーーーセバ、ス、チャ…ン?」
暖炉の前に倒れているセバスチャンの胸には、火掻き棒が刺さっており血にまみれていた。それは明らかに…死んでいると誰もがわかるという惨状だ。フラ、とご令嬢が足を一歩動かした。
「だっ、だめですだ!!お嬢様は、入っちゃいけねぇですだ!!」
歩き出そうとしていたご令嬢だったが、それを後ろからメイドが止める。すぐにご令嬢が暴れ出す。
『離してッ!!!』
「だめですお嬢様っ!」
『ッ…どきなさい!!』
「お嬢様っ…!」
「…ッ」
メイドの手を振り払うと、ご令嬢はセバスチャンに駆け寄る。
『セバスチャン、いつまで遊んでいるの。床がそんなに寝ごこちがいいとは思えないわよ』
素足に床に広がる血を踏むが、かまわずご令嬢はセバスチャンを見下ろし続ける。
『いつまで狸寝入りを決め込むつもり?』
セバスチャンは、何も言わない。
「お嬢様」
ーーーーガッ.
『聞こえないのセバスチャン、起きなさいと言ってるのよ』
シェフの声も無視して、ご令嬢はセバスチャンに足を乗せる。それでもセバスチャンは何の反応も示さず、ご令嬢は奥歯を噛みしめると『この…』とセバスチャンに刺さっていた火掻き棒を抜き出してしまった。
「ご令嬢っ…」
『セバスチャン!!今すぐ起きなさい!!命令よッ!!』
馬乗りになりご令嬢が胸ぐらをつかむが、やはりセバスチャンはされるがままの無反応だ。
『〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ』
ーーーーばしッ.
『私の命令が聞けないの!?』
ご令嬢がセバスチャンの頬を引っ叩く音が、部屋に響く。
『誰が死んでいいと言った!?許さないわよセバスチャン』
何度も何度も同じところをたたき続ける。それと一緒に聞こえる悲痛な声が、耳を塞ぎたくなってしまった。
『目を…ッ』
ーーーーがしっ.
「もうカンベンしてやれ」
『シエル…』
ご令嬢を止めたのは、伯爵だった。平手を続けていたご令嬢の手をつかみ止めると、伯爵は顔をうつむかせ肩を奮わせる。
「こいつはもう…死んでるんだ…」
『嘘…でしょう?』
震える手を、ご令嬢は口元にやる。
『死んでる…の?セバスチャン』
あまりにも、弱々しい声だった。ご令嬢から顔を背けると、伯爵はしゃがみ込みセバスチャンの瞼を手でおろす。
「僕らの執事であるお前が…」
伯爵はセバスチャンの頭を抱きかかえた。
「お前は…お前だけは…ッ最期まで、僕らの傍にいるってーーーー」
『……』
「ーーーーーーーー」
「ここに置いとくと痛んじゃうし、早いとこ移動した方がいいかもね」
「!…はい」
冷静なグレイの提案に、シェフは小さく返事をした。昨日まで共に働いていた仕事仲間の突然の死だ…彼らも、動揺の色を隠せていない。
「さ…お嬢様」
『嫌よっ、離しなさい!』
「姉さん!」
『どうしてよセバスチャン!!』
「お嬢様!」
『セバスチャンッ、命令よ、命令よ…ッ』
メイドに引っ張られながら、ご令嬢がセバスチャンの胸元から執事長のピンを引きちぎるのが見えた。
『命令よッ!!!』
悲鳴に近い、ご令嬢の声が室内に響く。胸に突き刺さった気がして、ぐっと、拳を握りしめた。
「うーん?」
不思議そうな声を出した劉に、はっとして顔を向ける。どうしたんだ?
「今回の殺人、監禁されてた伯爵姉弟には無理だよねぇ?」
「!」
ビクッ、と恐怖に目を見張った。
「面白くなってきた」
劉は、心底愉しげな笑みを浮かべていたのだ。恐怖を感じながらも、そっと目をそらしご令嬢の肩を抱く伯爵を見つめると、彼らは小さな肩を震わせあい、悲しみに耐えていた。
それでも、最後まで彼らの瞳から涙が零れ落ちることはなかった。ファントムハイヴ家としてのプライドが、彼らをそうさせるのかーーーーそれとも彼らは、涙さえ枯れてしまったというのだろうかーーーー…。
next.
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