たわいなくもそれは
大切なものがあった
今も昔も、いつまでも
強くて美しい、そんな心であれたならば世界は輝いて見えたのだろうか
望むなら、願うなら、それで叶うなら、世界はもっと優しかったのだろう
蝋燭が灯るような仄かな眩しさの下で苦悩も何もかもが弾けて愛しさに変換されたのかもしれない
そんな風にスペードは珍しくも戯れじみた甘ったるい思考を巡らせながら目の前の呼び止めてきた人物と対峙していた
下らないことでも考えていなければ立っていられない
蝙蝠が人を厭うのと同じ、彼はスペードの苦手な分類の人間だった
が、誰もこない廊下を恨めしく一瞥しながらも逃げることはしない
その程度には構ってやってもいいというなけなしの奇跡的な気持ちがあったからだ
スペードは修道服に身を包んだ彼に視線を据え、神など居はしないのに哀れなと内心で嘲笑う
「僕に何かご用ですか、晴の守護者」
「おお、究極に用はないぞ」
「………はい?」
用が、ない?
口癖なのか文法的にも支離滅裂な返答にスペードは腕を組みながら右手の指で左腕を叩く
怒りよりもまず、ナックルという男がスペードの理解範疇に存在していないかのようだった
「では、何故名前を呼んだのです」
新参者でしかないスペードがナックルの性格を把握しているわけはなく、とは言え返答にも大方の見切りをつけながらもたれ掛からせていた上半身を起こす
硬質な鋼を思わせる黒髪に黒の瞳でありながら夥しい闇を知らぬ光
黒影に生きる人生を歩まないそれにスペードは喉を鳴らす
「(んー、成る程。名の知れたボクサーであったことは事実ですか)」
たかが人一人殺してしまっただけを理由に聖職者に転じたのだと追いやっていた知識をスペードは引っ張り出す
守るための強さであれ、戦うための強さであれ、満足するための強さであれ、どれも力を振るうことに変わりはない
スペードから見れば愚鈍で安直な判断だったとしか思えないが、喪に臥すために拳を戒めたのは優しさという名の甘さ
「(晴にはうってつけではありますが、ジョットも酷なことをしますねぇ)」
ボンゴレという組織は砂糖ばかりを入れた飲み物かと思っていたが間違いだったのかもしれない
ジョットの評価を少しだけ改めたスペードは「用がなければ呼んではならないなどという理屈は知らん」と裏表のなさすぎるナックルの発言に気のない返事を返す
強いのであれば性格が残念であっても文句はない
世の中には‘完全無欠’なんて言葉があるらしいが甚だ勘違いもいいところだ
欠点がないこと事態が欠けているという事実に誰も気付きはしない
天にある望月すら、姿形を変えると言うのに
「あなたは変わっていますね、ナックル」
「そうか?」
「ええ」
砂礫が滲ませる痛みの名前を押し出そうとするように、受け答えのテンポのまま聞き返したナックルにスペードは三日月を宿す
ざっくりとよく切れるナイフを舌の上に、修道服の相手に首を傾けてみせる
「そんな服に身を包んでまで舞台から逃げ出したのにここにいる」
「ーーー」
「興味深く思いますよ」
端から言葉を飾るつもりもないスペードの指摘にナックルは言葉に詰まったのち苦笑した
闇に染まらない黒の輝きが濡れた烏の羽のように瞬きに潜む
スペードは鈴蘭のようだとジョットは言っていたがナックルには薔薇に思えて仕方なかった
見た目の美しさに手を伸ばせば刺で相手を傷つける誇り高い花
人を思いやる節も見当たらないが、自らを守る言葉も決して口にはしない
「究極にあやつと見たい道が見えた。逃げ出したわけではないが、そう言われてもやむを得ん」
大切なものを、星や月よりも輝く希望を捨てないでいいのだと、あの炎を目にした時に
ナックルの考えた末に弾き出されたきっぱりとした答えに「潔いことで」とスペードは肩を竦める
心を折ったのではないのだと牙をしまい込んだ猛獣は手にしていた十字架と聖書を持ち直し、本心を見せない藍色に苦笑を消した
「そういうスペードはどうなのだ?」
死ぬまで抜け出せない迷宮の真ん中で、樹海に差し込む日差しはあるのか
手折れないガラスの花は何処に根付き、何を祈っているのか
泡沫の如くあやふやで真実とも事実とも知れぬ質問にスペードはたっぷりと一拍開けてから人差し指を唇に当てた
「さて、ね」
願いならある、この胸の中に
叫び続けている祈りがある
形すら忘れて、起源すら見失って
それでも確かに鼓動と同じリズムで存在している
「深い理由などーーーありませんよ」
けれど、
淡い光が視界に映る
崩落を歌う翼が羽根をひとひら落としてく
心にそっと目覚めようとしているものは、知ってしまえば後戻りできないのだと、スペードを戒めるように囁いている
常に、ずっと
もう許してしまった部分は取り返しがきかないのに
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