夢殿に戯れて






月の海が広がって、暗い世界に悲鳴が響く

目をつむり時を数えていたスペードは瞼を震わせると双眸をあらわにし、そよ風が吹く淡さで微笑んだ

何処か遠くで鐘の音が鳴っている



「珍しいお客様ですね」



ここは夢殿、現実とも虚構とも違う狭間の世界

ゆらぁり揺れた風を受けて、遥か彼方から靡いていた硝煙がたわんで霧散する

そう、ここはスペードの夢殿

在りし日の夜をそのままそっくりなぞって再現をしたかつての風景



「んー、今日はジョットが来る予定でしたがまさか先客であなたが来るとは思いませんでしたよ」

「………えっと、」

「気楽にしてください。ですが私とあなたは初対面。なのでスペード、と」



彼のボスが嫌がるだろう光景は目の前に迷い込んで来た彼にも気に入らないものらしい

正直にも眉を寄せるずっと後の時代のボス候補に、スペードはかくも素質ある人物は甘いのかと嗤った

ススキ色の髪と瞳が眩しい金色になって、気弱な表情を冷静なものに変えて、そして幾分か大人びさせれば歴代最強と受け継がれる初代そのものなのに、柔らかな木材の色をした瞳に散る意志すらも煩わしくて仕方ない

スペードの目に映る彼はあまりにも弱々しく、暗がりに存在してなお小刻みな震えを見て取れた

あんたは。と、恐怖からか畏怖からか、掠れた声が閉ざされていた唇を開ける



「あんたはなんで、裏切ったんだよ」

「んー、意外ですね。直球ですか」



海の波は飛沫をあげることなく引いていく

飾りもしないストレートな言葉に口唇を釣り上げたスペードは、デーチモ。と楽しげに口ずさんだ



「それはどちらの裏切りですか?」

「どちらって………」

「プリーモに対する裏切りか、ボンゴレに対する裏切りか」

「プリーモに決まってるだろ!?」



ざざぁっと、暗い世界の片隅に留まっていた蝙蝠が驚いて飛び立つ

デーチモーーー沢田綱吉の喉が引き攣って金切り声になった叫び声は、しかし初代霧の守護者には届かない

スペードからすれば遠い時代の子供の怒りなど、取るに足らないちっぽけなもので醜くも可愛らしい産声にしか聞こえない

煌めく鼈甲の丸い瞳に藍色が冷たく歪む



「それを君が知ってどうするんです?」

「っ」

「どうしようもないでしょうに。あなたは本当に甘くて愚かです」



だから過去、スペードとプリーモは離別したのだ

ぐっと言葉に詰まって黙り込む綱吉に、デーチモと再びスペードが呼びかける



「あなたの聞きたいことは別にあるはずです。そう、例えばーーー記憶を継いだデーチモの霧、骸」

「!?」



ばっとスペードを振り仰ぐ瞳に星屑のような光が宿る

まだまだ拙い、けれど一生懸命に輝く新しい星



「骸はやっぱり……その、スペードさんの生まれ変わり、なんだよな?」



たどたどしく、ほんの少し躊躇って

綱吉の揺れる声が求めているのは闇を切り裂く光のようなもので、けれどそんなものありはしないのだとスペードは腕を組む



「間違いなく生まれ変わりですよ。まあ、性格はともかくも思考の行き先は変わってしまいましたが」

「そっ、か………なら、あいつがたまにオレに重ねてるのは、」



その質問には答えずにスペードは静かに微笑むと首を振った

生まれ変わりとはいえもう一人の自分なのだ、分からないはずがない

特に六道骸はスペードに似ていて、常に一つの道しか選べない不器用なところも似ている

だが、綱吉にそのことを教えるつもりはなかった

優しさと甘さの区別も出来ない子供に諭しかけるほど、スペードという人間は温かな心を持っていなかった



「(雲が相手なら話も変わりましたが)」



時間です。と綱吉の後方を指差す

デーチモはスペードの求める大空には遠く掛け離れ、また険悪な好敵手でもありよき理解者でもあった雲とも重ならない

暗闇を歩くには穢れを嫌いすぎる偽善者なのだと肩を押して小柄な体躯を突き飛ばした



「帰りなさい、デーチモ。
ーーーここはあなたにはまだ、早い」



凍えた闇の檻は氷の褥で生まれたのだ

闇の残滓が集まってはこびるただ中でスペードと対等に渡り合える日までは足を踏み入れてはいけないと、二度と夢殿に入れないようにイメージの鍵と鎖をかける

薄らぐ綱吉の唇が物言いたそうにスペードを見詰めていたが、数秒後には影も形も消えていた

そっとスペードの白く細い指がデーチモの消え去った空間に触れる

藍の瞳に燈る炎の名前は世界の何処にも存在しない

全ての感情を混同し、切なさと狂おしさが角を出した剥き出しの気持ち

僅かに俯いたスペードの背後でこつりと革靴の音が鳴った



「私はお前に裏切られたと思ったことはないのだがな………」



立ち込めていた黒色の粒子が橙の明かりに怯えたように身を引いていく

不満げな声とは裏腹に光に満ちていく視界と近付いてくる革靴の足音に、スペードは皮肉な顔で振り返ることなく視線だけを上げた



「あなたがそう言おうと第三者からすれば立派な裏切りですよ。こちらもそのつもりでしたから完璧な裏切りです」

「そうだろうか」

「ええ、そうです」



こつり、こつり、そしてスペードの背後で止まった足音と同時に懐かしい人のてのひらが背中に押し当てられる

じんわりと広がる温もりは確かに闇を晴らしていたのだろうとスペードは認めている

ただ、彼は甘くて優しすぎた

そのてのひらには多すぎる命が預けられ、力はあっても心が追いついてはいなかった

今も背中から感じる、まどろみたくなる大空の安らぎ



「ジョット……いえ、プリーモ。あなたは愚かでした。今もそう、僕の、私の裏切りを裏切りとしない」



デーチモ達後世の人間のように認めてしまえばいいものを、このボスは許しすぎる

魔レンズを片手に弄びながら嘲ったスペードに、そうだろうか。と初代の大空は同じ疑問符を口にした



「お前のそれは裏切りだったのか?スペードーーー否、デイモン」

「………何が言いたいのですか?」

「簡単なことだ」



振り向かないスペードに焦れたのか、自ら正面に回ったジョットは淡々とした表情を緩めるとスペードの頬に指先をそわせた

目に見えて強張ったスペードに、透き通った眼差しを注ぐ



「裏切ったのはお前ではなく私だろう?」

「ーーーっ、なにを」

「裏切られたと思ったのは私ではなく、デイモン、お前なんだ」



燃え上がる炎の抱く、包み込む慈愛の想い

とっさのことに言葉を失ったスペードの唇がわなないて、闇を飼い馴らした瞳が太陽を宿す人物を凝視した



「………たは、」

「ん?」

「あなたは馬鹿です、プリーモ」

「身も蓋も無いな」

「実際に、馬鹿です」

「馬鹿でも構わないさ」



ジョットの滑り落ちた指先がスペードのコートにあるポケットの上で止まってつついた

堪えきれない、心から嬉しそうに笑うジョットにスペードは唇を噛むと目をそらす

大空はそんな霧に、お前も馬鹿だなと呟いた



「私もお前もボンゴレが、仲間が大切すぎた。それ故に馬鹿になり、相容れなくなっただけだろう?」

「………………」

「私があげた懐中時計をお前は持ってくれている。今はまだ、それだけでいい」



そう、今は‘まだ’それで

すっかり黙り込んでしまったスペードにジョットは改めて辺りを見回すと顔をしかめ、空気が悪いとぼやきながら勝手に夢殿を作り替えていく

晴れ渡った青空と、そよぐ風と、溢れ返る花畑

耳を澄ませばせせらぎと小鳥の声が聞こえて

それは何処となく、六道骸が創る幻想世界に酷似していた




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