呼べない名前
何処からか必死に誰かを呼ぶ声がする
悲鳴にも似た痛切な泣き声
「だれですか………?あなたはだれを、よんでいるのです?」
肝心な部分だけが何回耳を澄ませても聞き取れなくて、それが骸の名前でないことは確かなのにはっきりとした音が分からない
聞いている方の胸まで痛くなるような引き攣れた声にとうとう堪えられなくなった骸は小さなてのひらで耳を押さえてうずくまる
その泣き声は骸が今まで生きるために屠ってきた人達のものとは違って綺麗で悲しくて、嫌悪しか覚えなかった殺した人達とは比べようもなく切なくて息が出来なかった
やめて。と、ただ呟く
泣かないでと信じてもいない祈りを願いながら
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「………ぅん、」
小さな唸りを上げてふかふかのベッドに寝かされていた骸が重たい瞼を必死に押し上げて起き上がる
閉じられたカーテンから零れる淡い日差しに色の違う目を手で擦りながら鈍い頭を働かせていた
「(たしかぼくは……きのうあんさつしゃのベルに、いっしょにこないかとさそわれて……さそわれて?)」
そこから記憶がふっつりと途切れていて自分の手をまじまじと見下ろす
クリアには程遠い思考を懸命に働かせても骸の欲しい答えは見つからなくて、よく見れば全く知らない部屋、いつの間にかベッドという状況に気が付き幼い顔が微妙に強張った
覚えているのは骸自身以外の温もりと心地好い振動、尋ねられた言葉
はっとして見開かれた両目に映ったのは掛け布団の上に重ねられた一枚の上着で
「まさかこのぼくが………だれかほかのひとがいるのに、ねてた?」
眠気もすっかり吹っ飛んで呆然と骸は己を抱き上げる時にベルフェゴールがわざわざ脱いだ上着を握り締めて呟く
子供だから、ベルフェゴールだったからという理由は骸の中にはなかった
薄暗い部屋で幼い子供が思うのは自分自身の無防備さに対する戦慄だけ
もし、万が一にもベルフェゴールにその気があったのなら骸は死んでいた
年端もいかない骸はぼんやりとした数多の記憶を糧に自身が生きる世界の厳しさを、そのことを知っている
「ぼく、は………」
ぎゅうっとベルフェゴールの上着がシワになる程に強く、赤い唇も噛み締めて声を搾り出す
先程まで見ていた夢のことも忘れ去って悔しさに身を焦がしていた骸は、ふと自分以外の気配を部屋に感じて数秒固まると視線を巡らせる
年齢には似合わない鋭さを持って油断なく向けられた瞳は、しかしすぐに真剣な顔を崩す結果となった
「………は?え、カエル………?」
ぽつねんと机に突っ伏すどの角度から眺めてもカエル以外の何物にも見えない物体にポカンと大口を開く
骸の視線に気がついてもいないのかすやすやと上下する肩に困惑が浮かび、仕方なくベルフェゴールはいないのかと探すも室内には他に誰もいない
多分恐らく、というかそうでなくては何と無く骸が困るのだがカエルの被り物を被った変わり者な人間らしいと床に足を下ろす
「ベルもティアラをかぶってましたし、ここのかたにはそんなしゅうかんがあるのでしょうか………」
ザンザスやスクアーロが聞いたら怒りだしそうな解釈にツッコム人は誰もいない
布団で温もった素足をくすぐる絨毯の毛並みにちょっとだけ口元を緩めた骸はきょろきょろと辺りを見回して靴を探し出すと靴下がないのかを確認もせずに履き、とことこと狭い歩幅でカエルの所まで歩く
近付いて見上げた髪は骸が見たことのない色で、それにしてもと好奇心からじぃっとカエルを被った青年に手を伸ばす
「(あんさつしゃがけはいにもおきないなんて、)」
試しに気配を出しても起きる様子は微塵も窺えなくて、手を伸ばしても触れることの叶わなかった髪にもため息を吐き出して青年の上着を引っ張って揺らす
誰かは知らないがベルフェゴールの上着と同じコートなので一先ず身の危険はないであろうし、この部屋の扉についてあるノブが骸には届きそうにもなかったが故の選択だ
とはいえあまりに気持ち良さそうに眠っているので多少なりとも気は引けたが待っているのも面倒だった
おきてください、そとにでられませんと揺すってどれくらい秒針が動いたのか
むくりと起き上がったカエルに骸は精一杯背伸びをしてひらひらと手を振ると、おはようございますと笑みを浮かべる
対する相手は数度瞬きを繰り返し、注意を促した骸の挨拶を聞くと目を見張り、瞬きも忘れたように固まって………くしゃりと涙を堪えるような顔で床に膝をつくとカエルを脱いで骸を抱きしめた
「え、あの………?」
「おはよう、ございますー」
いきなりの力強くも優しい抱擁に戸惑いの声を上げる骸の耳朶を青年の間延びした声が打つ
青年の体の微かな震えの理由がわからなくて、それでも何処か懐かしい香りを感じて骸が服の裾を握ればこつんと額が合わさった
「ミーは、フランです」
「フラン?」
「はいー」
「ぼくはむくろです」
骸が名前を呼べば嬉しそうに相好を崩して、骸が名前を名乗れば淋しげな顔で「知ってますよー」と返される
「ベルにきいたのですか?」と即座に解答を弾き出した骸にフランは何も言わずに笑うと小さな体を抱き上げて、ベッドに置き去りにされていたベルフェゴールの上着を乱暴な手つきで取るとひっそりと間近にいる骸にも聞き取れない声で囁いた
「………ミーがあなたの名前を知ったのはもっとずっと前ですよー」
「なにかいいましたか、フラン?」
「言ってませんよー。朝食、食べに行きましょうか」
明かりのない部屋の中でも暗がりに馴染むことのない藍色を撫でて、二度と戻らない五年よりも前の記憶と小さな骸を重ねる
今もそう、師匠、と何度も何度も呼んでいる
心の中で、夢の中で
敬称をつける以外ではたった三文字の音すら口にしたことのなかったフランは、呼べなくなった自分だけの呼び方を何度も繰り返し叫ぶのだ
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