咲かない夕べが萎れる頃。夕日に照らされた都心を流れるこの川も怠惰な日々に辟易としている盛りだろう。せめて太陽が明日の朝、西から朝日を射してくれたなら何かが変わる気もするが、おそらく俺自身は何も変わりはしないだろうから、そのことにあまり意味はなかった。実際太陽が西から昇ったことはない。むしろ、充実している筈のこの日々を『つまらない』そう思う俺の気持ちに問題がある。頭に巻いているバンダナの端を握れば、するり、と解けて無造作に草の上に落下した。髪の毛を鷲掴んでくしゃくしゃにかき混ぜるこれは、行き詰った時の謙也がよくやく仕草のひとつだった。ほとんど無意識にそれをしていた。
 誰にだってなれる。それが驕りなのか、確固たるべき自信なのかは俺にもあやふやのままで、誰にでもなれるからこそ何者にもなり得ない気がした。草臥れた黒い学生かばんを肩にかけて徐に立ち上がろうとして、バランスを崩して尻餅をついた俺はその場に背中から倒れこむ。気がしている、ともうそんなレベルではないのだ。テニス部での練習が終わってこの河川敷に座り込んでは鬱々と過ご
す日々がもう一ヶ月も連続している。小春とダブルスを組んでいるときの俺。謙也をからかって遊んでいる俺。ライバル達のモノマネをしているときの俺。そこにはこの15年間連れ添ってきた一氏ユウジの姿がある。ひとりになった途端にそれは跡形もなく、消える。まるで中身を失った透明な空き瓶のような自分。そしてやはり何者でもない自分。揺れているのは俺のこころか、川の水面か。肌を撫でつける風は冷たく、二の腕とシャツの隙間から風が入り込んできた。自分らしさって、俺って何なんだろうか。どうして俺は今になってこんな事に悩んでいるのだろう。どうして気がついたんだろう。




 誰かの真似をするという事とそれに成りきるという事は少しばかり勝手が違う。言わばその人物の威を借りるのだ。完璧な変貌ではなく欺く為の擬態、けれどそこに人を惑わせる何かがあるなら価値はあった。でもそれは俺のプレイスタイルに託つけた話だった。テニスをしている間に限定される俺の姿の筈だった。


「ユウくんさあ、最近いつもより何割か増しで難しい顔してるね。」
「あ、ああ。そないに見えるか?」

「んー…、何か、らしくないねえ」


  標準語を話す女、俺の一歩先を歩いている幼馴染みの女は小春と同じように俺を呼んだ。いつも、って何だ。らしくないって。それなら俺らしさって何なんだ。教えてくれ。不安定な川辺の一本道。両脇は草が生い茂る急な斜面になっていて、その先に浅い川が流れていた。平均台を渡るように道の脇にある丸太の上をふらふらと渡る幼馴染みに注意を促すもへらへらと笑うばかりで耳を借そうとしない。


「危ないからやめろ言うてるやろ!」
「ちょ、何。急に、引っ張んないで、よ……………ユウくん?」


 無理矢理腕を引かれて体勢を崩した幼馴染みの身体を自分の方に引き寄せて、頭を胸にあてがった。はっと息を呑むような吐息を漏らすだけで身動ぎ一つしようとはしない。不安定な自分。そんな自分を包み込もうとする女。


「俺の心臓の音、おまえに聞こえとるか?」
「うん。ちゃんとどくどく聞こえてるよ。」
「そうか、そうか。」


 不自然な形で身を寄せ合う俺達を追い越していく人々は無関心だったり
明らかに不審げな眼をしていたり冷やかすように野次を飛ばす輩もいる。ずるずると崩れ落ちる俺は幼馴染みの細腰に縋りつく、俺を抱きしめる腕は決して口を開かない。俺は自分の事ばかりで幼馴染みの事は何も知らない。どんな顔をしていたのかとか俺を見つめる瞳の色とかを俺は忘れかけている。何も語らずに感性だけでお互いを探り合う俺と彼女はそのまま帰路につき、そのまま各々の家に入っていく。ベッドに身を投げ出して頭に手を当てるとじんわりと湿った感触がした。バンダナを頭から取って見ると所々変色している。これはおそらく、彼女の。どうして泣くんだ。何でお前が泣くんだ。俺の為に、泣くのか。こんな俺のためにお前は泣いてくれるのか。




 それは何時もの放課後の部活中の事だった。


「最近先輩シングルス多いっすね」
「は?何や、財前」
「いや、あんまりモノマネとかもしてへんみたいやったんで、何となく」
「……ああ、やっぱやった方がええか」
「はあ、それは別に。ただ」
「何や」
「俺は今みたいな先輩知らんかったんで、ちょっと



 珍しく饒舌になって俺に話し掛けて来た後輩との会話が今思えば小さなきっかけだったのだ。決して非難された訳ではないし貶された訳でもない。ただ俺が自分のプレイスタイルに限界を感じていた矢先の出来事だったと、それだけの事だった。小春との連携。笑い。人の真似。それをとったら一体何が残るのか、俺はそれが知りたかった。うちら四天宝寺は個人技が光るプレーヤーが多い。そのなかでも俺と小春の個性は突出していると言えるかもしれないけれど、個人で捉えるとすると俺はその点で他メンバーに比べ没落していると気がついた。そして挑んだ部内戦での戦績は好ましくなく、俺は落ち込むより先に疑問を抱いたのだ。俺そのものには何もないんじゃないか、と。小春との相互関係があってこその自分であり、一氏ユウジあっての自分ではないんじゃないのか。人を真似ることしか出来ず、本物はどこにも有りやしない。誰かに成るために洞察力を研ぎ澄まし研究をしてきた所で、結局肝心な俺自身はまったく見えていなかったんじゃないのか。
 恐くて恐くて、俺は投げ出してしまった。仲間の言葉に耳を傾けることも心で寄り添うこ
ともしなかった。


「ユウジ、お前変わったな」
「そうか?」
「…別の人間見とるみたいやで。自分でもわかっとるやろ?何でや?」
「………」
「ってな、財前が昨日泣きよった。あの生意気な財前がや、信じられるか?何度も謝りよる。」
「そか、」
「…………ユウジ」
「…ほな、また明日」


 背を向けると直ぐ様腕を掴まれる。顔を上げると痛みを堪えるように顔を歪めた友人が居た。こいつも俺の為にこんな顔をしているのかとそんな漠然とした現実は少しばかり俺を慰める。


「また、河原に行くんか」
「ああ」
「…行かんでええ…また、部活に来ればええ…」


 震える声が、喉がこいつの優しさを代読していく。財前はこいつの前だから泣けたのかもしれないなと場違いな事を考えている。何も、川で死ぬ訳じゃない。悲痛な表情を浮かべる謙也を薄ら笑う俺に畏怖するのは友人達が今までの俺しか知らないからだろう。そういうことだ、謙也。今までの俺も今の俺も全部俺だ。受け入れてくれよ。


「財前のせいじゃあない。あいつはなーんも悪うない。」




 滑り落ちるように斜面を下り落ちると、今日の河原には先客が居た。呆然と川の流れを見つめている後ろ姿に思わずぞっと嫌な汗が背中をつたった。そこに自分自身を見ているような気がしたのだ。ドッペルゲンガーを目にした人間は死ぬというのをいつか耳にしたことがあったが、たしかに良い気分じゃなかった。でも、自業自得だ。俺なんかと関わるからこんなことになるのだ。例え俺が縋ったとしても彼女はその手を振り払うべきだった。


「ユウくんが悩んでること、この川原の水面を見てたら分かる気がするよ。」


 指先を川面に突き刺してぐるぐるとかき混ぜる。彼女はなおも続けた。まるで独白のように喋り続けた。


「私ってこんな顔してた?右目よりも左目の方が大きかった?こんな風に笑ってた? ねえユウくんは知ってたの?」
「私って何なんだろうって。私は誰なんだろうって問いかけた数だけ自分がおかしくなっていっちゃう気がする。だから、ユウくんの気持ちがわかるよ。」
「で
もこんな事、考えたら駄目だったんだよ。私は結局私でしかないし、ユウくんもユウくんでしかない。みんな分からないよ。自分の事がきっと一番難しい。」
「その人だっていう証明は生きてるうちには無理だよ。死んでから他の人の記憶に残る自分がきっと本物なんだろう、ねえ。でも死ぬのは怖いね。」
「死んだら何も分からなくなるけど、私やユウくんの気持ちを汲み取った誰かが見送ってくれたら分かるのかもしれないね。自分の事は分からなくても、その人がどんな人間だったのかとかそういう事には気づけるかもしれない。」
「ユウくん着いてきて」


 しゃがみこんでいた彼女は立ち上がると徐に俺の腕を掴んで斜面を駆け上がった。途中長い草に足を滑らせながら二人で登りきると、いつもの登下校の時のように丸太の上に彼女は立った。その前に立たされた俺とは未だに手が繋がれている。


「危ない」
「へーき。私はねユウくんと共有できる事がいちばん幸せなんだよ。それがどんな事でも。」
「…………」
「小さい時はもっとたくさん時間があったけど、時間なんて
どうでもいいよ。私はユウくんの事ばっかり考えてるけどユウくんは違う。それもわかってる。」
「…わかったから、早う降りろや…」
「ユウくんの心に残れるなら、私は今よりもそっちがいい。これはねユウくんが気づかせてくれた私の本物だよ。」
「もう、黙れ……」
「埋もれて通り過ぎていくだけの幼馴染みはもう要らないよ。わたし、ユウくんの忘れられない何かになりたい。」
「黙れ!いい加減に……っ 」
「スキ、ユウくん。」


 ほんとうに一瞬の出来事だった。俺にはその一瞬が恐ろしい程に長く感じられて、気付いたら幼馴染みは斜面の下でおかしな体勢で倒れていた。じんわりと滲む赤が彼女の体液だと気がつくのに時間が掛かった。後ろで何かを落とすような音がして振り向くとランドセルを背負った少女がこちらを見ている。幼く細い指先が俺を指差した。震えた唇が呟いた言葉を聞いて、俺は弾かれたように斜面を駆け降りた。髪を振り乱したまま倒れている幼馴染みを胸に抱え、そのまましばらく抱き締めていた。死んだら何がわかると彼女は言ったのだったか。消えて
しまった温もりに応答する余地は遺されてなどいない。俺のバンダナを湿らせた女の肩口に顔を埋めて、しばらくすると思い出したように次から次へと涙が出てくる。ひと殺し、と。その言葉が胸の中で何度も木霊していた。




 遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえる。徐々に近づいてきたその根源は耳鳴りのように一段と激しく鼓膜を揺らし、また遠ざかっていく。警察が幼馴染みを死なせた犯人を探しているのか行方不明状態の俺を探しているのか、どちらにしろ同じことだ。逃れるつもりはない。それでも一晩、或いは二晩幼馴染みが命を落とした川辺で考えたいことがあった。頭で考えるより先に動かない肢体が彼女の帰りを待っていた。膝を抱えて水面に身を乗り出して彼女の輪郭や声をだとか、そういうことに彼女がいち早くにけりをつけてしまったのだとしたら、その先を俺が考えることは出来なかった。俺が何者であるかというよりも前に、遺された俺は彼女を見つけなくてはいけないからだ。俺が彼女を永遠に忘れないこと、それから途方もなく長い夜の間待ち続けること。それが彼女の遺言なのだ。結局俺は、彼女に生かされたのだろうか。


 閉じた瞳の隙間から脳に光が射し込んで朝が来たことを知った。朦朧とした意識の中で川面を見つめると、そこには俺に好きだと告白した幼馴染みの面影がユラユラと漂い笑っていた。そうか、彼女は昔からこういう笑いかたをするのだったと俺はひとつひとつ思い出していく。幼馴染みは自らを見失っていた訳じゃなかった。自分が見えていたからこそこうして俺に彼女を追わせ続ける。例え俺自身を間違えても生きる方向を間違えないように、俺の不安定な心が過去の一氏ユウジを壊さないように。


「…なあ…痛かったか?頭から血、ぎょうさん出てたで」


 自分の幼馴染みの馬鹿さにただ目頭が熱くなった。坂から転げ落ちる彼女は俺を見ていたのだろう。俺はその瞬間まで自分の事で頭がいっぱいで、幼馴染みは死ぬまで俺の事ばかり考えていたのだろうか。本当に馬鹿な女だ。こんな事はもうこれきりだと決めた。死んだ幼馴染みがこの世で一番に愛しいと思う。俺がどうこうなんてもうどうでもいい。叶わないなら待ち続けるからまた俺の為に泣いて欲しい。
 頭に巻いたバンダナをほどいて水面に浸すと、あの日彼女が流した涙と変わらない色が緑を色濃く染めていった。


逢瀬の河辺は別れの浅瀬、朝の背中に涙川











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