奪えない。その瞳が私を救わない。名前すら呼べない。すべて捧げたいのに、叶わぬ夢となる。
 雨が降っていた。昼間だというのに、室内は薄暗い。
「寒いな」
 と、先生は言った。ずいぶんと無機質な声で、言った。
「そうですね」
 私は差し障りのないように返してみた。きっと冷えきっているであろうマグカップに口をつけ、コーヒーをひとくち飲む、先生。
 淡々としている、と思った。いつも不機嫌でいるクセに、ときどき、泣きたくなるほど優しい男なのだ。長い睫毛。骨張った指。持て余した足。
「そんなに見られちゃあ飲みづらいんだが」
 先生は私を軽く窘めるように一瞥してから、マグを置いた。恥ずかしくなって、ごめんなさい、と思わず口をついて出た言葉に身を任せ、俯く。膝のうえで丸めた手が悴んでいる。くたびれたソファがかすかに軋む度、よそよそしさに息が詰まった。
「別に謝れと言ったんじゃない」
 先生は立ち上がり、窓際に移動した。低く垂れ込めた雨雲を眺めているのか、窓に打ちつけられる雨を見ているのか。
 先生が何か言うより先に、先生の腰に抱きついた。見た目の割に細腰の、しなやかな体に、しっかりと腕を巻きつける。
「先生」
 と私は呼んだ。
 すると、先生は困ったような顔で振り向き、伏せ目がちに、
「ピノコがドアに張りついてるんじゃないか」
 と、耳元で囁いた。しかめっ面でドアに張りつき、耳をそばだてているピノコさんが頭に浮かんだ。確かに、と思いすこし笑うと、先生が口づけをくれた。啄むようなキスの雨。呼吸を縫うようにあわせられるくちびるが、かさついていた。割れそうな私の下くちびるを、先生がなめて吸った。はしたない声をあげたくて先生の腕をつかむと、声は出すなよ、と釘を刺された。
 舌に残るコーヒーの苦味。なにも言えず、先生を見る。「そんな顔したって知らんぞ」と言われてしまう。煽ったのは先生だ。私を甘やかすのも、先生なのだ。
「そんな顔って、どんな顔ですか」
「ああ、こう…くちびる尖らして…」
「もういいです!」
 肩を抱こうとする先生の手を制するとそのままとじ込められた。いきなりのことに、私はびっくりする。びっくりして、いや、と口走ってしまう。
「嫌?」
 囲う腕はそのままに、先生は私を覗きこんだ。その長い前髪に触れ、かき分けると、綺麗な瞳がある。
「嫌ならやめようか」
 先生はニヒルな笑みを浮かべ言った。
 私は、首をゆるゆると振る。それを見た先生は、嘲りか情か、複雑な表情だった。
「もっとひどいことしていいのか?」
 私は黙った。していいのに、と思った。立ち直れなくなるくらいひどいことを、私は厭わない。先生でめいっぱい汚してほしい。
 でも、言えなかった。言ってほしくなさそうな先生の顔を見てしまえば、自ずと押し黙るほかないのだ。
「冗談だよ」
 ふ、と息を吐くように笑うと、先生は私から離れた。
「さあ、帰ろう。送るよ」
 私は黙ったまま、ちいさく頷いた。よく見ると雨は霙に変わっていた。夜は雪になるかもしれない。先生は黒いコートを羽織りながら、おどけたように言う。
「そうじゃないと、ピノコが起きちまうんでな」
「え?」
 思わず聞き返すと、優しく微笑んで私を見つめる。
「だってさっき、ドアにいるって…」
「聞かせるもんか。あわせる顔がなくなる」
 そういえば訪ねたとき、ピノコさんは牛乳を飲んでいた。
 あ、と思った。もしかして、ああ。
「逢瀬の邪魔をされたくないだろう」
 車のキーを弄びながら、先生は背を向けた。
 苦しくなった。
 私は先生がこんなに愛しい。









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