ひどい話をしよう。
なんと難しいことはない。ただひとりの女の話である。女というのは、十代の後半になると誰だってうつくしくなるということをよくよく身を持って知っていたが、それでも我はその女が一番うつくしいのだと疑ってやまない。まるく白い肌をした頬に、ぷっくりと潤った赤の唇はなまめかしく。髪は多少痛んでいるところもあったが、特に気になるというほどではない。しかしそれは我の目で映した女の姿であり、周りの人間に聞けば褒め称えるほどの美人ではなかったようだ。「耀さん、わたし知ってるのよ」女の口癖はこうだった。そうして彼女は話し出すのだ。昔にいた皇帝、そのときの人々の暮らし、人間の精神構造、普通の学生ならあまり気にも留めないことでさえ女はよく調べていたらしく、正確に話していた。正確だとわかるのは、女が話すことをすべて我が知っていることだった。ひと通り話し終えた後、女は
どうだ、まいったか
と言っているように口端を持ち上げたが、我が笑いながら「知ってるあるよ」と答えれば、それはすぐにがっかりとしたものに変わっていた。それでも度々女の目は輝いた。
「耀さんに知らないことなんてあるの?」
「そう疑う内は、お前はまだ子供のままあるよ」
まるで自分が大人だと言うようなことを口にすると、女はもどかしさにむすっと頬を膨らませたものだ。我は女にそういう対話ばかりを行っていたが、それでも、床が綺麗に整えられた廊下、我の部屋、図書室の一角、女は我を見つけては跳ねるように足をこちらに向けて言ってきた。講義のときにも、廊下ですれ違ったときも、校舎内にいる間は女の姿はよく見かけられたが、女は我と話しているときがなによりもよく目をきらりと輝かせていた気がする。





ある夜のことだった。
その日は珍しく、女が我の家に来た。我が外では寒いからと女を部屋に連れることはあったが、それは校舎内に設けられた部屋であり、そしてそうしたのは昼だけでしかなく、夜にしたことはなかった。「月がきれいですね」女は勝手口を開けた我に、ひと言そう言った。我が訳も分からないまま「そうあるな」と肯定すると、女は嬉しそうに微笑んで、笑った。まだ太陽があれば、その顔もきちんと見れただろう。可愛い、と、ひどくおもった。
「こんな時間に、どうしたあるか?」
「すいません。すこしだけ、用事が」
「我にあるか?」
「はい」
女は迷いもせずに頷いた。我は驚いたし、ひやひやと心の臓に刃物を向けられた気持ちだったが、夜が包む街に女を追い返す訳にもいかない。大学の講師が豪邸に住んでいるなど、変なことでしかなかったが、女はなにも言わなかった。部屋にいれて、お茶を出し、多少の談笑をしたあと、我たちの間には静かな空気が流れた。我に不埒なことをする感情などはなく、ただ他の男だったなら考えたのだろう。我が教師という立場を異常に意識して共に並んでいたからか、それとも普通の人よりも長く生きているからか、彼女のことをおもったからか、どれにしよ
そんなことを考えることはなかった。
「耀さん、わたし知ってるんです」
女はいつも通りそう切り出した。今回はどんな話題だろうか、と、それまで歴史のなかで活躍した人物や文学作品の秘話などを頭のなかでくるくる回しながら女を見てみると、いつにない顔がそこにあった。目を伏せて、髪がすこしばかり前へと垂れている。それは表情を悟られないようにとしているみたいだった。我は返事をすることを忘れていた。
「愛してます、ということを、ある国では「月がきれいですね」と言うんですよ」
「…それは日本あるな」
「ああ、知ってたんですか」
「当たり前あるよ」
その意味を聞き、なかなか気障なことを言うようになったものだと思ったのが随分懐かしい。しかし、まさかその日本と兄弟のようなものだとは言えず、私は黙った。彼女も黙ってしまうと、部屋のなかは不自然な沈黙におそわれた。女が口を開くことはない、開くべきなのは我だと強く思った。と同時に、言ってしまえばいつか虚しさに満たされるだろうということも、よくわかっていたのだ。「私、帰ります」と、女が言って
立ち上がる。我も立ち上がって、廊下に続く扉へ歩こうとした女の腕をつかんだ。
「今宵は月がきれいだ」
言った我に、女はまるまった目を向けた。女の瞳のなかにいた我は情けない顔をしていたように思い出される。女は微笑んで、たまらないというように我の手を握った。彼女が大学を卒業した数日後のことである。





我は女と共に暮らし、生活をし始めていた。婚約をしたいならしようとも思ったが、女は恥ずかしそうにはにかんで「耀さんがしたいと思った時に」と答えた。彼女は年を追うごとに若々しさはなくなっていったが、同時に大人の女のつややかさを蓄えて行っているようにも思えた。我はそのまま大学に勤めたが、女は「先生」から「耀さん」と私への呼び方を変えた。幸せだった。幸せな日々だった。

「可愛い奥さんですね」
菊が突然電話で家に来ると告げた日があった。驚いたものの、「彼女には友人と言っておけばいいでしょう」と半ば無理やりというように承諾させられ、すぐに行くといった通りその日のうちに菊は来た。菊は彼女を見るなりそう言い、「結婚はしていませんよ」と女が頬を桃色に染めて微笑んだものだから
我はすこしばかりへそを曲げたものだった。
「どうするんですか」女が淹れて運んできたお茶をすすっていると、我がなにかを言う前に菊がそう切り出した。瞬きをする間は驚いたが、言いたいことはすぐにわかって
我は無視をするように茶をすすった。
「なにが」
「とぼけないでください。まだ阿呆にはなっていないでしょう」
「…」
「彼女は普通の人ですよ。普通の」
「我だって人間あるよ」
「ですが、国です」
国なんですよ。諭すような声音で菊が言ってくる。「どんなに人のふりをしても、私たちは…」「説教ならまた二十年後に聞くあるよ」遮って立ち上がると、後ろからは「耀さん!」と名を呼んでの非難が聞こえた。菊にしては珍しい、声を大きくしてのものだった。我は振り返らなかった。ただ儚いほどの後姿を向けている女だけを見ていたかった。彼女が淹れているお茶を飲む前に、菊は帰ってしまった。





女は美しい人間である。それは事実だったが、人である彼女はだんだんと皺が増え、草臥れたように体が弱っていった。それを真似るように、我の顔にも皺が増えていった。頬に手を添え、滑らせても
するすると滑らかに滑ってはいかない。途中で皺の一か所に触れ なんともいえないもどかしさを感じさせる。
「若いころのようにはいかないものですね」と、女が嫋やかに笑う。足が自由には動かず、腰も曲がっていたが、彼女は美しさを忘れていなかった。それも同様に
ある日のことだった。我はすでに定年退職をして
女と共に残りの人生と言うものを楽しもうと決めていた。もう若くあったときのように走り寄ることはできなかったが、女は我のそばにいた。その日はふたりで大学に行っていた。女が我と会い、無事卒業をした大学である。そこに植えられた木々は毎年鮮やかに咲き誇り、輝いていた。女は車いすを使って移動を行っていた。それを引くのはもちろん我の役目であった。
「耀さん、私 知ってるのよ」
その言葉を聞くのは久々のことであった。我は穏やかな心持のなかに、ひとつだけ良くないものが落ちてくるのを感じていた。それでも女の言葉を無碍にするわけにはいかなかった。「何を」と短く答える。紫苑の花が静かに咲いている。
「あなた、歳を取っていないでしょう。あの日から、ずっと」
穏やかだった。女はあまりに穏やかな声をしていた。我は動けなかった。ただ息を脱無音が聞こえた。「なにを」なにを、言っている。我は笑おうとしていた。けれど、女はそれよりはやく我の目を出会わせた。光を浴びて
透き通っている目が見える。そのなかに映る我は、おそらく怯えた顔をしていた。
「ね、耀さん。あなたのほんとうを見せて。私、結婚なんてせずとも あなたに添い遂げると決めたのだから、もう何も怖くはないの。ね。だから、お願い」
女の手が 我の偽りの頬を撫でる感触を
どんなに夢に見ただろう。どんなに恐ろしく感じただろう。我はなにもできなかった。反抗も、虚勢も、そこには通用しなかった。我は女の手に自分の手を添えて、そのまま顔を剥いだ。作らせた肌の下には
昔から変わることのないすべらかな肌があった。女は笑った。美しい微笑だった。





「老師」
ぼんやりとしていた瞼を 冴えさせる声が聞こえる。
大きく目を開くと、扉の方に香港がいることに気付く。部屋のなかは暗く、カーテンを閉めていない窓の外も暗い。排気にまみれた空からひとつだけ見える星がある。「老師」せんせい。女の声とは違う、ひとりの青年の声が耳に溶け込んでいく。せんせい。せんせい。女が最後に我をそうやって呼んだのはいつだったか。「老師、dinnerができた」流暢な英語に腹を立てるところだが、いまは驚くほどに心がないでいる。「女の」目を窓へよこして、座っていた背もたれに寄りかかる。「女の夢を見たあるよ」香が驚いたように、気まずそうに身じろいだ姿が思い浮かんだ。
「…老師と同棲した、あの」
「そうある。美しい女だった」
「前に聞いたよ」
「あいつは我にとって、星みたいな女だったある。近づきすぎると眩しすぎて、恐ろしく感じる」
この話題に触れたくないように打ち切るような言葉を使う香港を無視して、目を開ける。扉の方へ徐々に足を下がらせていく香が視界の端をかすめる。「恋でもしてるあるか、人に」香が目をまるくさせて我をみる。夜になれた目は、やがて睨むように鋭い目つきをした香を映した。
「老師、俺は人間に恋なんてしない。一生」
「どうだか」
「本当だよ」
香は踵を返して、扉のドアノブに手を掛ける。「本当だから」とひと言だけ言い残し、部屋から去る姿は
まだまだ子供らしい。人のふりをしていた我も、菊の目にはあのように見えたのだろうか。そんな思案をして、菊に諌められたときの言葉を思い出す。人のふりをしていたなど、ひどい話である。我は元々
ただひとりの女さえ忘れられない人間だったのに。
ひとつ短い声の連なりをこぼして、再び目を閉じる。女の姿がぴったりと張り付いている。美しい女が笑っている。


(110901)









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