空は落ちてくるように暗く、星は飛んでいるように遠く。
目を擦る暇もなく、息を潜めてみれば。
煙草の煙が、夜風に靡いて消えていく。
昼間は騒がしい屯所も、真夜中には静けさを取り戻して。
俺はひたひたと、夜の水面を滑るかのように、廊下を歩く。
今夜もきっと、アイツは夢の中で俺を待っているのだろう。
「…やっぱり起きてたか。」
「副長こそ。」
名前の部屋から明かりが漏れているのを確認して、声をかけ。
部屋に通してもらえば、そこは畳の上いっぱいに広げられた絵本の海。
「お前なら、今頃こうしていると思ったからな。」
明日の会議の書類だ、と言って書類の束を手渡せば。
ありがとうございます、後で目を通しますと言って。
そのまますぐに、名前は絵本の海に溺れる。
名前は真選組の女隊士で、特攻部隊に所属している。
人を斬るときの躊躇いのなさ、冷静さ。
それを見込んで、採用した。
総悟と同い年くらいなのに、大人っぽい立ち振る舞い。
丁寧な仕草と気づかい。
それは全部仕事だからだと、一度酒の席で呟いたことがあって。
その日、酔いつぶれた名前を部屋まで送れば、そこは。
闇のように暗い部屋の中に、数えきれないほどの絵本。
目を凝らして見れば、どれも色鮮やかで。
絵本に埋もれて眠るのが好きだと言った名前は、酒のせいなのか絵本のせいなのか、ひどく幼い表情をしていて。
「毎日、沢山ひとを斬っていますから。
そのせいか、寝つきが悪くて。
よく眠れるように、こうやって毎晩、王子様を呼ぶんです。」
絵本を並べて読み進め、いつの間にか眠りにつけるように。
そして眠りにつく瞬間、王子様が迎えに来てくれるのだと。
人を斬りすぎて頭がおかしくなっちまったとも思ったが、そんなことを言い出せば俺が一番おかしいことになる。
なにより、絵本に囲まれているときの名前は何とも言えない幸せそうな表情を浮かべていて。
その顔を見るために、夜毎理由をつけては名前の部屋を訪れていた。
「今夜は、『はらぺこあおむし』を読んでました。副長がいらっしゃる気がして。」
副長みたいなあおむしが、ごはんを食べすぎて泣いてしまう話です、と彼女は続ける。
「強欲に、何もかもを食べて、最後には蝶になるんですよ。」
「…何が言いたい」
「副長みたいですね。」
「…そうかもな」
煙草をゆっくりと吸い、煙を吐き出せば。
名前はそれを深く吸い込んで。
ゆっくりと、畳の上に仰向けになる。
「…王子様が、迎えに来てくれたみたいです。」
まるで、海に引きずり込まれるかのような、その顔。
「行ってきます。」
瞼が閉じられる瞬間。
「名前」
俺は、名前の手を握る。
ゆっくり、指の先にまで力を入れて。
「今日は、行くな。」
「…寝るなってことですか?」
怪訝そうに、名前は問う。
「ああ。」
「どういう意味ですか?」
まだ半分、まどろみの中にいるような彼女の目を、射るように見つめ。
「お前と王子様じゃ釣り合わねぇよ。」
名前は恐れているのだ。
死んだ者が手を伸ばして、闇に引きずり込もうとしているのを。
殺めた者が恨みを持って、身体を縛りつけようとしているのを。
「名前の夢から名前を護るのは、俺だ。」
青虫が、腹を壊すまで全部喰ってやるよ。
そう伝えれば、名前の手が微かに震えた気がして。
「こんな海の中で、一人にはさせねぇ。」
抱き起こし、強く、きつく抱きしめてやれば。
俺の肩の上に顔を乗せ、音もなく涙を流す名前。
暗く底のない海のような、この部屋で。
二人で密やかに、甘い吐息を絡めあう。
たとえ明日が来なくとも。
たとえ世界が終わるとも。
まばたきも許さぬ吐息で繋げ、紡げ。
Fin
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