ようこそここは本懐のくに

 森へ誰かが駆けていく。
 縁側からではそのちんまりとした人影しか見えず、俺はいったい誰が走り回っているんだろうかと、盃を傾けながら酒のせいでうまく働かないぼんやりとした頭で考えていた。
「いい飲みっぷりだねえ」
「……まあ、今日くらいはいいだろうと思ってな」
 少しずつではあるが確実に減っていく俺の盃の様子をみて大層満足そうに笑った大太刀は、自身も喉を鳴らしながら片手で軽々と掴まえた酒瓶の中身を大胆にぐびぐびと胃へ流し込んだ。
「自分でもこんなこと言うのはあれなんだけどさぁ。アタシ、まさかこんなに長居できるなんて思わなかったよ」
 次郎太刀はゆっくりと月を見上げた。視線は真っ直ぐにそれを射抜いているのに、月を通していつかの何かを自身の中に呼び込んでいるようにみえたのは気のせいだろうか。
「……嬉しい事なのに、なんだか湿っちゃっていけないね」
 そうは呟きながらも大太刀は手を止めずに飲み続けた。その様子を横目でみながら、俺もかつての日のことを思い出す。
 今日、この本丸は何度目かの誕生日を迎えたのだ。
「騒がしい連中はもう軒並み寝てしまったからな」
 短刀たちは朝のうちからだいぶはしゃいで疲れたのか、薬研藤四郎や厚藤四郎、信濃や後藤たちを除いたほとんどの面々が早々にリタイアした。夕餉の宴会でしこたま飲んだ槍や太刀なんかはそこでそのまま潰れているし、明日の朝が早いからといった理由で内番予定の数振りが自室へ帰り、気がつかないうちにいなくなっていた者もいた。所々明かりがついている部屋もみられるのでどうやらまだみんな眠ったわけではなく、気が合う者同士あるいは同じ刀派なんかで好き勝手に今日という日を楽しんでいるらしい。
「アタシは兄貴がもう寝ちゃったからいいんだけど、アンタはいかなくてもいいのかい?」
「問題ない。兄弟は朝の修行に差し障るからと言って寝てしまったし、おそらくもう一人の兄弟は新選組のほうに行っているはずだ」
「なるほどねえ」
「それに、俺はこうしてあんたと飲むのも悪くないと思っている」
「…………」
「……なんだ。やっぱり写しなど……」
「あっはははは! いや……! いやいいじゃないか!」
「あっ、おい、背中を力いっぱい叩かないでくれ。痛い」
「いやぁ、あのアンタが! こりゃ嬉しい変化だねえ〜!」
 そう言って豪快に次郎太刀は酒を呷った。それを最後に中身がすっからかんになったらしく照れくさそうに立ち上がる。
「何はともあれ、これからも頼むよ初期刀さん」
 「いい感じに気分も上がったことだし、アタシはおかわりでも持ってこようかな〜。まだまだ夜は長いよ〜!」と言いながら厨へ歩いていく後ろ姿を見送ったところで俺の後ろに誰かが立ったようだった。
「どうしたんですか? いいことでもあったみたいですね」
「いや、次郎太刀が勝手に喜んでいただけだ。それよりお前こそどうしたんだ。もうとっくの前に眠ったのかと思っていた」
 今剣はえへへと笑い、さっきまで次郎太刀が腰かけていた場所で膝を抱えた。銀の髪に月明りが反射してきらきら光っている。
「ぼくはさんじょうのかたなたちのところであそんでいましたよ。もうねるというのでかえってきたんですが、とちゅうにきになることがあったのでとりあえずあなたにおはなししようとおもったんです。もちろんぼくがおいかけてもよかったんですけど……」
 そうして今剣はその細い指を暗闇に伸ばした。
「あるじさまがあちらへかけていきました」
「は?」
 気づけば立ち上がっていた。
 自分の本丸内ではあるが用心するに越したことはないと自身の本体も手にする。戦装束ではないので非常にアンバランスだ。恥ずかしい。せめて布だけはしっかり被っていよう。
「悪い。俺は」
「はい、わかってます。そのためにわざわざあなたをよびにきたんですから」
「べつに俺でなくてもよかったような気がするんだが……」
「わからないんですか? これはこれは、こまったさんですね。はせべさんがなげくのもよくわかります」
「どうしてあいつがそこで出てくるんだ」
「ないしょです」
 今剣は人差し指を口元に寄せた。それから置いてあるままの俺の盃を拾いあげて立った。
「これはぼくがかたづけておいてあげますから」
 そう言ってさっさと行けというようにひらひら手を振るので、俺は急かされるがままに森へ向かうことにした。
「すまない」
「あんまりおこっちゃだめですよ」
 ……それはあいつの態度による。



 風で木の葉が揺れる音。鈴のような虫の鳴く声。
 雲から漏れ出る月の幽かな明かりを頼りに木々の間を歩いていく。
 時折強く吹く風が首元を冷やすので、俺はもう少し暖かい恰好をしてくるべきだったかと後悔した。もしこれで風邪なんかひいたりしたら年寄り刀の連中に生温かい目でみられること間違いないだろう。それだけはどうか勘弁してほしい。
「あいつはちゃんと暖かい恰好でいるんだろうな……」
 心配だ。その点でもやはり暖かい服装でこなかったことが悔やまれた。あいつが風邪なんかひいたら連中にどんな目でみられるか、想像するだけでぞっとする。まだ幼子に向けるようなぬるい視線を受けたほうがよっぽどましだ。こっちこそ本当に勘弁してほしい。
 そんなことを考えていると、木々の合間からぼんやりと灯りがみえた。耳を澄ますと暢気な鼻歌までも聞こえてくる。上機嫌だ。
 ほっとしたような、呆れたような、そんな気持ちのまま近くまで歩み寄ったそのとき、俺は息を呑んだ。能天気な鼻歌とは反対に、みえた横顔には不安そうな表情が静かにあった。思わず声をかける。
「おい。こんな時間に何してるんだ」
 びくっと体を震わせてから主はばれたかというような顔をして悪戯っぽく笑った。最初からそうだったように、ついさっきまでその横顔に湛えていた不安はもうそこからいなくなっていた。
「こんばんは」
「こんばんはじゃない。今何時だと思ってる」
「え? あっ、もうこんな時間か」
 主は今ようやく気がついたようだった。
「ごめんね……。全然考えてなくって。迎えに来てくれたんだよね」
 「ありがとう。じゃあもう帰ろうか」と踵を返し本丸のほうへ歩いていこうとするその腕を気づけば掴んでいた。不思議そうにこちらを向く顔が月に照らされる。
「少し、歩かないか」
「いいの?」
「俺がついていれば大丈夫だろう。もっともあんたがよければだが……」
「ふふっ。どうしてそこで自信がなくなっちゃうかなぁ」
 主が腕を掴んでいた俺の手を優しくどける。そのまま軽く握られた。
 相変わらず柔い小さな手だったがそれでもたしかにかつてよりは大きくなっていた。多くの人間の命運を握る手だ。血で汚れてはいなくとも同じく命への責任がある。
「しかたがないから一緒にいてあげよう。探検する?」
 そう言って彼女は手をひいた。待ったも聞かずに鼻歌を歌ってどんどん森の奥へと歩いていく。これは空元気だとわかっているのにこんなときどうしたらいいのかはわからなくて俺はされるがままだった。
 彼女は陽気に歩く。
「今日でこの本丸も10歳かぁ。早いものだねぇ。二分の一成人式だ」
「なんだそれは」
「成人式の半分だよ」
 ……それはさすがにわかる。
「おめでたいね」
「ああ」
「よかったね」
「そうだな」
 呼吸の合間に鼻をすする音が混じったことに気がついてぎょっとする。
「な、泣いているのか」
「ううん。寒いだけ。散歩はここまでにしよっか」
「まだ道は続いているぞ。行かないのか」
「うん。大丈夫」
「……本当か?」
「本当に。いいよ。もう帰ろう」
「いや、行こう」
「いいってば」
 「えー? 帰ろうよ〜」とわめく声を放って今度は俺が先頭になって歩き出す。そうするとほどなくしてつま先が何かにぶつかった。足元に障害はない。森にあって何の不自然さもない木の枝や石の類ばかりが転がっているだけだ。
「そっちには、行けないんだ」
 ぽつりとこぼれるように彼女の呟きが漏れた。そうしてやっと足元の違和感の正体を理解する。これは結界だ。誰もここから出ないようにための。もう逃げられないようにするための。誰を? ――彼女を、審神者を、審神者に味方する俺たちを。
「ごめんね」
「なにが」
「私が縛ってしまったから君たちの第二の生をこんなところで送らせることになっちゃった」
 俺は彼女に対する違和感の正体にも気がついてしまった。
「君たちが毎年めでたいめでたいと喜ぶ度に申し訳なくてたまらないよ。外はもっといいところばかりなのに。君たちに楽しんでほしいことがたくさんあるのに」
 彼女の目からぽろりと涙がこぼれた。大粒の涙だった。
 そうだ。昔はよくこんな感じで泣いていたのに、いつから我慢を覚えたのか。きっと連中の内でもみたことのあるやつは数振りくらいだろう。不覚にも可愛らしいと思ってしまった自分のあまりの都合のよさに笑ってしまった。
「……なんで笑うの」
「いや、だってな、顔が」
「顔!?」
 何かがツボに入ったらしく彼女は声を上げて笑い始めた。それを眺めながら俺はまた口を開く。
「あんたの願いはなんだ」
「君たちが幸せに暮らすこと」
 間髪を入れずに答えが返ってくる。
「それならもう叶っている。あんたがいて仲間がいれば幸せだ。連中も、きっとそう言う」
「……じゃあ、君たちの願いは?」
「主の願いの成就。他には何もいらない。あんたの願いが叶って、あんたの心がそれで満たされるならそれでいい。その日々を繰り返していけるならそれがいい。まさか願い事がたった一つだけなんて、あんたに限ってそんなことはないだろう」
「なんで断言するの」
「菓子を欲張って詰め込んだせいでしょっちゅう頬が膨らんでいた」
「よく憶えてるよなぁもう。恥ずかしいから忘れてよ〜」
 主は頬を掻いた。
「……なら、私のこと絶対に迎えに来て。私がきちんと務めを果たせるようにみてて。逃げようとしたらちゃんと連れ戻して。そうして、いつまでも一緒にいて」
「拝命した」
 「帰ろう」とひかれた手に従い、今度は隣に並んで歩き出す。
 そうして俺はもう一つ言い忘れていたことがあったと思いだした。彼女がついさっきぽろぽろと涙を流していたのをみたときにふっと自分の中で浮かび上がった願いだった。
「それと、これは俺個人としての願いなんだが……」
「どうしたの? ほしいものとか?」
「いや、そうじゃない。ほしいものは今のところは特にない。そうじゃなくてだな」
 いつも笑っているよりもたまに泣くくらいがちょうどいい。むしろずっと笑ってばかりいると不安になる。だから泣くときは、できれば俺の前で泣いてほしい。
 そう伝えると、非常に形容しがたい表情を浮かべたのちに、主は「長谷部さんが嘆くだけのことはあるなぁ」と手で顔を覆った。
2021/01/30

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