湿気を含んだ風が頬にあたる。
 それになんだか嫌な予感がして、私は読んでいた小説を膝の上に置き、揺れるレースカーテンからうっすらと透けて見える向こうに目をやった。
 お世辞にも広いとはいえない庭の一角、そこを堂々と陣取っている桜の木の隣で、私と同居人の洋服やシーツたちが物干し竿に吊るされてお行儀よく揺れている。青い空、舞い散る薄ピンク色の花びら、風にたなびく真っ白なシーツ。そこに白い影がみえたような気がして、私はまばたきをした。
 ――思い出が去来する。



「俺は春が好きだ」

 近侍なわけでも私の事務仕事を手伝ってくれるわけでもなく、ふらっとやってきて庭に面した障子を開け放っては一人勝手にちびちびやっていた鶴丸が唐突にそう言った。あきらかに独り言ではなかったので、いったいなんの話だろうかと、私は書類に飛沫を飛ばさないよう気をつけながらそっと持っていた筆を置いた。
「誰かが話すときにわざわざ手を止めて聞こうとするきみのそれ、俺は嫌いじゃないぜ」
 鶴丸は視線を庭のほうに向けたままそんなことを言って、なぜか満足げにわらった。それから手に持った薄い盃に瓶の中身を注ぎ入れると口元へ寄せた。ゆっくりと上下する白い喉をじっと見つめてしまっていたことに気がついて、私はばれていないだろうかと内心どきどきしながら、なんでもないふうを装って庭の方へ視線を逸らす。
「ほら」
 風が吹いて、敷地の真ん中にどんと構えた桜の木からはらはらと花びらが舞った。そのうちの数枚が、隣で干されていたシーツの上を滑り落ちたのが見えた。
「綺麗だろう」
「綺麗だけど……どうしちゃったの、藪から棒に。なにかあった?」
「いや、とくになにがってわけでもない。ただ、こうでも言わなくちゃ、きみは季節になんか欠片も興味を持たないだろう? 花より団子とはよく言ったもんだが、きみは団子にすら見向きもしないときたもんだ」
 まったく俺の主は仕事熱心で困るよなあ、とまるで桜に呼びかけるように話しながら、鶴丸は空になってしまった盃に再び酒を注ぐと、今度はそれを大きく呷った。そこまで低い度数でもないだろうに、彼のその白い顔が赤くなる気配は未だにみえない。ちびちびとお上品に飲む姿もうつくしかったけど、どちらかと言えば私は、胡座をかいて仰ぎ飲む少しばかり行儀の悪い飲み方の方がなんとなく好きだなあと思った。
「現世じゃあ、今頃花見でどんちゃん騒ぎだってのに。きみは毎日外を眺めることもなく書類三昧だろう? 仕事だから仕方ないってのはわかるがなんにも興味を持たないってのもそれはそれでなあ……」
「もしお花見がしたいんなら予算まわそうか? 博多に相談してないからまだはっきりとは決められないけど、予算だったら毎年浮いてるし、お花見会を開くぐらいならたぶんなんとかできると思う」
 刀は主の性質に似るのか、彼らは性格は違えど根本のところでやはり私とよく似ていた。具体的にいい意味で言語化すると、無駄遣いを避ける傾向にある。今あるものを愛でるというか、大事にするというか。とにかく、お小遣いを渡しても使わなかったと言って返してくるのはよくあることだった。とくにこれといって物欲が目立たないのは人の形を得るより前の名残かとも思ったけど、友人の刀たちは普通にゲーム機やら流行りの菓子やらを買っているらしかったので、きっと私に似てしまったのだろうなとちょっとばかり申し訳なくなったのはここだけの話だ。
 前置きが長くなってしまったが、そのおかげでうちの財政はいつも安定している。お花見を豪勢にやりたいということであれば、お酒もお弁当もいっぱい買ってくるだけの余裕は十分にあった。それくらいのお願いなら主として叶えてあげたい。けれども鶴丸はそんな私の言葉に、そういう意味じゃないと首を振った。
「俺たちに合わせるんじゃ駄目だ。きみが興味を持たなくちゃ意味がない」
「べつにそこまで気合いを入れなくても……」
「いいや。そうは言ったってなあ、きみ。現世に帰った時にそんなのだと、きっと退屈になるぜ。向こうにはこっちみたいな戦争も、今きみがやっているような難しい書類仕事も無いんだからな」
「私は帰りたいなんて、」
 まるで幼い子どもに言い聞かせるような様子で、鶴丸は困ったように苦笑した。
 ようやく酒瓶の中身が無くなったようで、鶴丸は手持ち無沙汰になったのか、飛んできた花びらを手のひらに乗せてふうと吹いた。勢いよく飛び上がった花弁はうまく風に乗れないで、ふらふらと宙をただよったあとすぐに畳の上に着地した。
「だから、春が好きだって言ってみたのさ」
 どういうことだろう。私がその言葉の意味を解せないでいると、鶴丸は腕を伸ばして座布団の上に正座する私の頭の上に手を乗せて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜた。

「きみはきっと、俺が好きなものをいつまでも忘れずにいてくれるだろうから」



 ――思い出が、去来した。
 ぼうっとしているうちに、いつの間にか空は雲に覆われて薄暗くなっていた。ぽつりぽつりと、地面に小さな点がふえていく。
「雨、降ってきたみたい」
 私はそう言って窓を閉めた。それはまるで、静かに目を閉じるみたいだった。
 洗濯物の被害を最小限にとどめるため、同居人が小さく悲鳴をあげながらドタバタと玄関へ向かっていく。後に続こうとしたところで、私はふともう一度レースカーテンに目をやった。私と外界とを完全に遮断した白いそれの向こうに、走ってきた同居人が必死に洗濯物を取んでいる姿が見えた。庭にはなにもない。青い空も、舞い散る花びらも、真っ白なシーツも。そこにはもうなにもなくなって、もちろんあの白い影なんてものもなくて、私は何ともいえない気持ちになった。
 とんとんと、雨脚がしだいに強くなっていく。そういえば、と私は、これから数日の間天気が悪くなるとテレビできれいなお姉さんが言っていたことを思い出した。この調子で降り続いたら、今は満開の桜の花びらも天気が回復する頃にはすっかり流されてしまっていることだろう。昔はとくになにも感じなかったことなのに自然にそれが寂しいと思えるのだから鶴丸が言っていたのはあながち間違いというわけでもなかったらしい。
「…………そろそろ梅雨かぁ」
 春がおわる。きっともうそれほど時間がたたないうちに。
 春がおわったら夏がやってきて、夏がおわったら今度は秋がやってくる。そんなふうにして、何度も新しい季節が、新しい春が通り過ぎていく。新しい私を積み重ねながら生きていく。彼らが守ったこの時代にしっかりと足をつけて。彼の好きな季節をいつまでも憶えている、彼が望んだ私の姿のままで。
 それは幸せで、でもどこかとても残酷なことのように思えて、私は自分も玄関に向かうべく窓に背を向けた。

「俺は春が好きだ」彼がわらった気がした。
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