ぼやけた視界に広がるのは緑色。数回まばたきをして、それが何度も何度も読み返されてところどころぼろぼろになってしまった彼のお気に入りの本の背表紙だということを理解する。
 そんな緑色の向こうに日に照らされた銀。時おり窓から流れてくる風に揺れるそれが、どこかつめたいように感じて、私はようやく、自身の頭が下敷きにしているお世辞にも柔らかいとはいえないあたたかさが男の膝であることに気がついた。
 やまんばぎり。そう、山姥切。山姥切長義。なんとも物騒な名前をもつ、とても目立った銀髪の、窓際でよく読書をする痩身の男。もうだいぶ長い付き合いになる、この家で息をする、私以外のたったひとつのいきもの。
 彼がこの部屋の窓際で本を読んでいる時、私は母のことを思い出す。
 幼い子どもがいながらもよく家を留守にすることの多かったどこか現実味のなかった母は、帰ってくるとよくこの場所で難しそうな本を真剣に読んでいた。その傍らにそっと寄っていって、母の眼差しを見つめるのが好きだった。
 そんな彼女は、ある日突然、なんの前触れもなく、私とこの男を会わせて「大切にしなさい」とだけ言い残し、お互いに自己紹介させるわけでも、その言葉の意味を説明するわけでもなく、何も持たないままスーツを着た大人たちとともにこの家を出ていった。子どもだった私はしばらくの間ぽかんと馬鹿みたいに口を開けて突っ立っていたけれど、隣の男は一言も話すことなく静かに頷いては、母を乗せてどこかへと走り去っていく車をその凪いだ目でじっと見送っていた。そんな彼の様子に、言葉を交わさずとも自分は母のことを全てわかっているのだと言われたような気がして、私はひどく嫉妬したのを今でも覚えている。
 そうして、なんでもわかっているような彼と、そんなにわかっていない私がこの家に残された。私がはじめからわかっていたことといえば、隣に立つ男がとてもとても美しくてきっと誰からも尊ばれるべき存在であるのだということと、もう二度と母はこの家に帰ってはこないだろうということ、そして、遅からず私はこの男のことを好きになるだろうということだけだった。
「起きたのか」
 そんなふうにまどろみながらぼんやりと昔のことを思い出していると、いつの間に私が起きていることに気がついたのか、緑色の向こう側から冬の海のような瞳がこちらを覗いていた。
「おはよう」
 もう昼をまわっているにもかかわらず、男はそう言った。そして片手をこちらに伸ばしたかと思うと、私のお腹あたりにまでずれていっていた毛布を首元へぐっと引っ張り上げ、それからまた、手元の本を読むために視線を外した。
 長い指がページを捲る。その度に紙が触れ合う音がする。
 美しいいきものの行為というものはその全てが美しく在る。そんなことを考えながら、私は下から彼を静かに見つめていた。
「どうしたんだ」
 姿勢はそのままに、男が問う。
「お母さんのことを、思い出していて」
 私は答える。
 彼がそっと息を吸ったのがわかった。私が母のことを口にするたびに彼はいつもそうしていた。そして、話が終わると静かに吐き出すのだった。
「あと、」
 首元がぬくくて、私はゆっくりとまばたきをした。
「タオルケットを、」
   

 タオルケット、と口に出したあたりで、そういえば昔この話をしたことがあるなぁ、とふと思った。そう、あの時もこうして彼は窓際に座って本を読んでいた。私は、もうその頃にはいつかの予想通りにこの男のことを好きになっていて、胸の高なりをじっと隠し、今よりも少しだけ小さい身体を丸めてその隣に寝転がって、そして同じようなことを彼に言った。
「……タオルケット? ああ、これか」
 この時、幼い私は期待していた。少女漫画の主人公のように、この美しいひとのお眼鏡に自分もかなうかもしれないと。彼はいつだってとびきり私に優しかったから。
「どうして、かけてくれたのかとおもって」
 胸の高なりは最高潮だった。もしかしたらもしかするかもしれないと思っていた。だって私たちは同じ寂しさをわけあっているのだから。だから、きっと。
 彼は少し黙った。それから、ほんの瞬きくらいの間をあけてから、風邪をひくだろうと言った。「大切な人には、風邪をひいてほしくない」とも。
「君の母親がそう言っていたんだ。君は自分の大切なひとだと」
 それならば、俺もそうするべきだろう。そんな言葉とともに、懐かしそうに、大切そうに、彼は私の髪を梳いた。それがあんまりにもあたたかい笑い方だったから、私も子どもごころにそうしなくちゃいけないと思って微笑んでみせた。
「お母さんがそう言ったの?」
「ああそうだ。君は憶えていないのかい? 初めて会ったときに、彼女が大切にしろと言っていただろう。まあ、君もまだ今よりずっと幼かったから、憶えていなくてもおかしくはないけどね」
「……長義さんは、お母さんのことが好きだった?」
「そうだね……」
 彼はいつの間にか私を見つめていた。でもけっして、私のことを見ていたわけではないと、私はこの命に賭けても断言できた。
「愛している、かな」
 柔らかな表情と一緒に、まるで自然とこぼれ落ちるように呟かれた言葉だった。それは、あまりにもあたたかくてゆるやかな敗北だった。
 彼は私のものではなく、母のものだった。そして同時に私は、母があの日、あの時、この男に私のことを大切にするように言った理由を理解した。この男が私のものではなく母のものだったように、母はこの男のものではなく私のもので、彼はそんな母が私に残したひとつの愛情のかたちだったのだと思った。
「もちろん君のことも大切に思っているよ」
 うれしいと微笑みながら、実際にそう思いながらも、彼は私の恋にはならないのだと悟った。
「ありがとう」
 彼に恋をしたことがあった。こんなにも美しいのだから、なにもおかしな話ではなかった。
「ありがとう、長義さん。だいすき」
 彼に失恋した。生きていれば思い通りにならないことなんてたくさんあるのだから、これもまた、なにもおかしな話ではなかった。
   

「タオルケットがどうしたんだ」
「タオルケットを」と言ったきり何も言わなくなってしまった私に彼がそっと声をかける。
 私は何を話そうか考えて、結局首を小さく横に振った。
「いや、やっぱりなんでもない。これ、かけてくれてありがとう」
「どういたしまして。まだ眠るのかい」
「うん、あとすこしだけ。二十分くらい」
「二十分?」
「……ううん、やっぱり一時間くらい」
 くすくすと、彼が緑色の向こうでかすかに、それでいて上品に笑った。その様子を見られないことだけが少し残念だった。
「ああ、わかったよ。おやすみ」
 彼がまた一枚、ページを捲る。あきらかに、さっきよりも静かに。丁寧に。そういうところを私は好きになったのだった。
 紙と紙が触れ合う音がする。私の肩あたりで彼の手がとんとんと一定のリズムを刻む。ひとつあくびをしてゆっくりと目を閉じる。
 彼が窓際に座って静かにページをめくる時、私は母のことを想う。母が残していった、彼女の愛について考える。そしていつか、私が今よりもずっともっと大きくなって、この男のもとを離れる日が訪れた時のことを想像する。
 窓際に座って本を読む人の姿を見て、私の側に居た彼のあたたかさと甘く柔らかな失恋を瞼の裏に思い出す、そんないつかの日のことを。
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