彼女の日常は塩を撒くことだった。だから、キッチンでもうなかば狂乱状態になって粗塩を自身に振りかけていたとしてもそれはいつものことで、ああまたやってるなとは思っても、それ以外にはなんにも心配することなんかなかった。
「今日はどうしたの?」
 玄関で靴を脱ぎ、買ってきたコンビニの弁当を冷蔵庫に入れながらそう声をかければ、彼女は塩のせいか、それとも他の何かのせいか、涙目になった顔でこっちを見て、一言「のろわれている!」と叫んだ。
「なんでそう思うの」
「今日は4回転んで、人に9回もぶつかられた!」
「へえ」
「4回転んだのは死の暗示だ」とか「9は苦のことを示唆してるんだ」とか、彼女はそんなことを言ってわんわん泣きながら、スプーンを塩の入った瓶へと突っ込んでさらにもうひとさじ掬いとると、相撲取りがしているみたいに豪快に宙に撒いた。こうなってしまうともうそこに他人がいようがいまいがお構いなしなので、せめて塩が入らないように自衛として冷蔵庫の扉を閉め目を瞑った俺は、短く「心当たりは?」と聞いた。
「ない……」
 ないからこわい。気にしていないだけでどこかで恨みを買ってるかも。真っ暗な視界の中、彼女の声と鼻をすする音が聞こえてくる。
「でものろわれてる。こわい、呪われてたら、だって言葉には魂が宿るって、周りのみんながもしわたしに死んでほしいって思ってて、それを口に出してたら、本当になったらどうしよう、わたしもお父さんたちみたいに、」
 支離滅裂で正確な文章を保っていない言葉がこぼれる。もうこれ以上塩を撒き散らすつもりがないのを察して俺はゆっくりと目を開けた。青白い顔を見てもべつにかわいいとしか思わない。けど、もっといきいきとしている顔のほうがかわいいのに、とも思うから、とりあえず俺は手を伸ばして前髪についていた塩の小さな塊を手で払い落としてやった。
「呪われてないし恨まれてもないから大丈夫」
「そんなの、そんなの吉田にはわからないじゃん」
「もし言霊があって、名前が呪われて死ぬんだとしたら、俺はたぶんそれよりももっとずっと前に酷い目にあって死んでるよ」
 憶えている憶えていない以前に名前よりももっとたくさん恨まれるようなことをしているから。
「吉田を呪ってるのは人じゃないもん」
「……たしかにそりゃそうだ」
「わたし、絶対勝てないし、ならもう死ぬしかないじゃん」
「そんなこと言うなよ」
 お父さんたちみたいに、と呟いて名前はまたぐすぐすと泣いた。こぼされたその言葉に、塩を撒くのが日常になってしまったきっかけの日を思い起こす。たまたま塾かなにかの用事でその場に居合わせなかった名前を除く家族全員が、悪魔に惨たらしく殺された日のことを。悪魔を使役していたのか、本当はその逆だったのか、悪魔と手を組んでいた人間は全く見ず知らずの他人で、聞けば逆恨みもいいとこの話だった。でも、その真実を誰も名前に言わなかった。だから名前は未だに呪いなんてものに苛まれている。呪われてなくても、恨まれてなくても、死ぬ時には死ぬのに。
「わたし、わたしは、吉田とは違うから、誰かを守ったり助けたり出来ないし、結局自分が一番大事だから、だけど、でも、それって良くないことだから」
「どうして?」
「だって、」
「人には優しくしないと」おかしくなってしまった呼吸の合間にそんな言葉が聞こえて、俺は思わず苦笑しながら、その背中に手を回した。整えるように一定のリズムを優しく刻んでやる。
「しにたくない」
「うん」
「殺してやりたい」
「うん」
「死ぬのは怖いよ」
「うん」
 彼女の言葉にただ返事をするというだけの行為をしばらく続け、少しずつ本来の呼吸を取り戻してきたと感じたところで、俺は「大丈夫?」と訊いた。小さな頷きが返ってくる。
「……もう平気だと思う。ありがとう」
「片付ける?」
「うん」
 ほうきとちりとりを手にし、手際よく床にばら撒かれた塩を集めていく名前をみて、俺はただただ駄目だなと思った。
 家族を殺されたことに対する憎悪と復讐心、生まれつきの身体能力と生きるために必要な金のことを考慮したとしても、名前はデビルハンターにはなれそうになかった。いやまあ、なろうと思えば誰にだってなれるけど、なったとしてもいいとこ物真似止まりだろう。プロにはなれそうにない。物真似レベルだからといって見逃してもらえるほど甘い話じゃないし、名前のようなごく普通で至極真っ当な人間はすぐに死ぬ。これは予感でも予想でもなくて、実際の経験からくる答えだった。
「……吉田、家が近いってだけなのにいつもごめんね」
「べつにいいよ」
 死ぬのは困るな、と思った。青白い顔もかわいいけど、生き生きとした顔のほうがもっとかわいいということを、俺は長年の付き合いで知っているから。
「それ、買いに行こうか」
 ほとんど空になった瓶を指さして、俺はとりあえずそう言った。
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