※梵天軸。なんでも大丈夫な人向け



 幸せになりたい。
 これはおそらく全人類が皆それぞれ同じように胸に秘める願いなんじゃないだろうか。賛否両論はあるだろうけれど、少なくとも私の周りには自分から率先して不幸になろうなんて考えもしない人たちばかりだったので、この考察は一種の真理なのではないかと思っている。
 もちろん私自身も例に漏れることなく、幸せになりたいと願うそんな一人の人間だった。


「お疲れ様です」
 とくにこれといった表情を浮かべることなく廊下を歩いてきた万次郎に声をかけると彼はあからさまに眉を寄せた。新しく眉間に出来上がった彫りが私がこの場にいることを良しと思っていない彼の内心を言外に表していた。初めの頃はなんて人間性に問題のある酷い人なんだろうと傷つかないでもなかったけれど、慣れというのは恐ろしいものでもう何十回とその表情にお目にかかっていれば次第に気分を落ち込ませることもなくなった。その代わりといってはなんだけど、むしろ何十回もその顔をさせてしまう私の人間性に問題があるんじゃないかと思うようになった。
「出てけってオレ言わなかったか」
「言った」
「じゃあなんでここにいるんだよ」
「ここにいたかったから」
 重たい溜め息を吐かれる。頭痛を抑えようとする時みたいに、彼の意外と角張った手がその眉間にあてがわれるのを私はじっと見つめていた。
「なんの説明にもなってねぇ」
 それから彼は重そうに瞼を上げると何かに気がついたように視線を固定した。詳しく言うならば、ぽたぽたと未だ止まることなく血を垂れ流す私の左手と、包帯の束をクシャクシャにして握る右手に。
 説明しろという物言わぬ圧に耐えかねた私は「裏切り者。二人。お土産。刺された」とまるで呪文のようにボソボソと呟いた。
「ごめんなさい。後で廊下はちゃんと掃除します。ほら、包帯もちゃんと持ってます。ごめんなさい」
「…………来い」
「病院はやだよ。消毒もしてある。放っておいたら治る」
「わかった」
「いや全然わかってない」
 彼は私の手から包帯を奪い取るとそのまま適当な部屋に引きずりこんだ。有無を言わさない圧をもって私を地べたに座らせ、傷口を丁寧に巻いていく。その行為は正しく介抱と言えるものであった。こんなところ彼を王様と慕う男に見られたら「ボスに何やらせてんだよテメェはよォ」とかなんとか言ってこめかみに拳銃でも突きつけてきそうだなと思った。
「わかんねぇみたいなら何度でも言う。ここから出てけ。毎回毎回土産持って帰ってくるな」
「嫌だ。なんでそんなこと言うの」
「オマエはこんなとこじゃ生きてけねぇだろ」
「大丈夫だよ」
「オマエは昔から優しかった」
「ちがう」
 私は優しくなんかない。優しくなんてできない。私はむしろ自分の幸せのために誰かを対価として天秤の反対側に掛けることの出来る人間だ。いつだって自分の身が一番かわいいから、他人のために身を擲つことはきっとできない。現に今だって、私はここにいていいと言われるためだけに裏切り者をお土産にしている。そうやって自分のためだけに躊躇いなく人を犠牲にしてしまえる。
 私の世界はどこまでいっても私でしか形成されていない。もちろん悪い意味で。この場所では悪い意味のほうが褒め言葉になるのだからものの基準とやらは相対的で曖昧で環境に非常に依存しているのだとつくづく思わされる。
「オマエには幸せになってほしいのに」
「じゃあなってよ」
 そう返すと彼は私を見た。一瞬だけ表面に現れたその表情がとても泣き出しそうで、私はまだ彼の心はそこにあったんだと思わされた。
「一緒になってよ」
 私たちはきっと地獄に続く道の上を歩いている。この世の悪いとされることは大体やってきたのだから当然だ。自分の選んだ道なんだから文句を言うつもりはない。
 それでも。それでも、生きている限り全ての人間に平等に幸せになる権利が与えられているのだという考え方には無理があるだろうか。
「大丈夫。私たちは幸せになれるよ」
 そうだ。私たちは幸せになる。なってみせる。私がきっとそうしてみせる。善意で舗装された道の上を闊歩し、悪意と暴力を振り撒いて、あらゆる幸福と無辜の民を踏み潰しながらも。
 王の軍勢はけして止まることはないのだ。
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