7


 まだこんな時間なのかと時計を眺める。カーテンの隙間からはうっすらと光が射していて、それが寝起きの目には少し堪えた。再び目を閉じてみたけれど、眠れそうな気配はない。まるで遠足前の子供みたいに頭が冴えてしまった。
 せっかくだからもう少し寝たかったな。ベッドに座ったまま、テレビの電源を入れる。7:43と表示された朝のニュースをしばらくぼんやりと眺めた後、ベッドから降りて洗面所へ向かうことにした。
 起きてしまったものは仕方がない。朝ごはんにお茶漬けを食べ、軽く掃除をして、着る服を選んで……それでもまだ10時前。どうしたものか。待ち合わせが14時、家を出るのも13時30分過ぎでいい。この絶妙な待ち合わせまでの時間をどうしてくれようかと、初代ギターを眺めながら考える。そういえば……私は冷蔵庫や棚を確認する。あるある、これなら問題なく作れそうだ。私は一人ブツブツと呟きながらキッチンに材料を並べた。



「さて。メイクもおっけー、味見もおっけー! お財布もちゃんと入れたし、後はもうでかけるのみ!」

 簡単にラッピングしたそれを、紙袋に詰めてリュックに入れた。時計は13時15分。少し早いけれど早めに出よう。でもちょっと待って。出るって一体どこに? 私は肝心なことを忘れていたのだ。待ち合わせ時間は14時だけれど、肝心の待ち合わせ場所を覚えていない。昨日の私はそんなに酔っていたのかと帰り道の出来事を思い出そうとする。思い出せるのはライブの日程がかぶったという事実。悲しみに暮れているとピピピピピと着信音が鳴った。画面を確認すると、ローさん、と表示されていたのですぐに通話を押した。

「はい、おはようございます! ユメです」

 おはようと言うにはずいぶんな時間だけど、仕事の癖だからしょうがない。するとローさんが「よう。お前の棟、どっちだ?」と電話口で言った。はて、どっちだ? とは何のことだろうかと私は考える……棟。その言葉に、私は何度かローさんにアパートの近くまで送ってもらったことを思い出す。私の住んでいる建物の敷地内には似たようで微妙に違う二つの棟が存在する。私が住んでいるのがA棟だと教えたことはなかった。なぜなら教える必要性がなかったから。
……もしや。そう思いながらそろっとベランダに出て周囲を見渡す。すると、あのパリコレ体形の人物がこちらへ向かって歩いてきている姿が見えた。ローさんも私に気づいた様子でひらりと手を挙げた。

「ローさん!」
「お前ならそろそろ家を出るんじゃないかと思ってな」
「ややや、まさにそうですけど、わざわざ!?」

 すぐに外に出ますね、とスマホを耳に当てたまま言ったけれど、その相手は目の前にいるのでもはや通話の意味はなくて……私は思わずクスリと笑ってしまった。

「フフ、切りますね」
「あー……あァ」

 ローさんも状況を理解したようだ。電源を切ると少しだけ照れくさそうにジーンズのポケットに手を突っ込んだ。私は一度置いたリュックを回収して背負うと急いで玄関へと向かった。

「ローさん、おはようございます」
「さすがユメ、予想どおり準備できてたな」
「ローさんこそ、わざわざ迎えに来てくれたんですか?」

 そこでふと、昨晩のローさんの言葉を思い出いだした。確か、適当に行くみたいなことを言っていたと。つまり、それは家まで迎えに来てくれるということだったのだ。いやいや、適当に行く、だけでは普通はわかりませんよローさん……でも、せっかく来てくれたローさんにそんなこと言えるはずもない。

「いざ出ようとして待ち合わせ場所が思い出せなくて焦ったんですよ!」
「まァ、いいだろ何でも。行くぞ」

 ローさんはフイッと視線を外してスタスタと歩き出した。私もそんなローさんに続く。それにしても、まさか迎えに来てくれるなんて、そんなこと思ってなかった。そして心なしかローさんの歩くペースが速い。

「あ、もしかして照れてます?」
「は? 何でおれが女を迎えに行って照れなきゃなんねェんだ」
「お……おお、女だって認識だったんですね、私」
「ほかに何があんだよ」
「おっさん!」
「……何が悲しくておっさん連れて歩くしかねェんだ」

 ぼふっと帽子を叩かれた。嘘だとしてもちゃんと女扱いされるのはなんだか久しぶりな気がする。いや、どつかれたり蹴られたり、普段の扱いはまったくそんなことないけれど……あらためて、隣を歩くローさんはどえらいカッコいい人なのだ。そう考えると、そんなローさんに迎えに来てもらってギターを買いに行くのはとんでもなく贅沢なことなんじゃないかと思った。



 ローさんの行きつけの楽器屋さん。ギターにベース、そのほかにもずらりと楽器が並んでいる。ギターのコーナーへ向かうも種類がありすぎて正直私には何がどう違うのかもよくわからなかった。
 ローさんと話しながらゆるゆると店内を回っていると何となく目が合った、惹かれた1本のギター。まるで「ここだよ」と声をかけられたみたいだった。一際輝いて見える。渋い。尖りすぎてない。どことなくシルエットに可愛さも感じる。テンションがどんどん上がっていく。

「こっ、これ〜〜〜! かっこよい……これがいいです!」
「ジェンレーンなんかも昔も使ってたモデルだな」
「あっ確かに、見たことありますね」
「前もって調べたてたのか?」
「いえ。直感? ですかね」
「ま、お前っぽいかな」
「そうですか?」

 ローさんが店員さんに声をかける。すぐに試しに弾かせてもらって……とは言え、試し弾きする人達は何を基準に選んでいるんだろう。純粋に弾き心地だろうか。それならもうこれでいいぞ。私には細かいことはよくわからん。これがいいぞ。

「これにします!」
「他はいいのか?」
「一目惚れ的な直感を信じます」
「……そうかよ」

 お値段も予算に収まる……収まるけど、いっぱいいっぱい。もうちょっとお手頃価格のものがあればと思っていたけど、これはきっと運命だ。腹を括ろう。バイトを増やすか服を我慢しよう。レジでどうにか貯めたお金をお財布から取り出す。店員さんからギターを受け取る。ずしりと重みを感じる。ついに買ったのだ、という高揚感が全身を駆け巡った。これが私の相棒になるのだ。軽やかなステップでお店の外に出るとローさんはいつものように一服していた。

「……ローさん!」
「会計終わったか」
「はい! ローさん、見てください! 買っちゃいました!」
「あァ」
「ローさん!!」

 タバコを持ったまま、口を開けポカンとした表情で止まってしまったローさん。あぁ、テンション上がりすぎてローさんと連呼してしまった。これはちょっと引かれてしまったかと思ったけど、タバコをジュっと携帯灰皿で消したあと、ちょっとだけ笑ったように見えた。
 ローさんは「……わかったよ、よかったな」と言いながら私の近くまで来て子供をあやすように、そっと私の頭に触れた。いつもの叩くやつじゃないやつ。しかもやっぱり見間違いじゃなくて、ちょっとだけ微笑みながらだ。これは語彙力が消失するやつ、すべて消え去るやつ。普通の女子なら死ぬやつ。いや、私だって女だ。今、瀕死だ。ローさんってば私を殺す気なのだろうか、そりゃモテまくるだろうよちくしょう……じゃなくて、早く普通の会話をしなければ。バクバクと脈打つ心臓に落ち着けと唱えながら、平常心を装いどうにか話を切り出した。

「あーっと、えーと……ローさん、まだ時間あります?」
「今日は特に何もねェ。どっか行きたい所でもあんのか?」
「あの! ちょっとお散歩しませんか? それと……PHに行きたいんですが」
「あァ、マスターん所はおれも行こうかと思ってた。散歩しながら行くか」
「……はい!」

 

 買いたてホヤホヤの相棒を背負いながら、最近おすすめのバンドや、ギターの上達具合の話をしながら歩く。比較的ゆっくりと。おかげで私の心臓はもうすっかり落ち着いていた。想定外の事態に弱いだけなのだ。そしてあっという間に季節の花がきれいに咲く、この辺りでは有名な公園に到着。
 近くにベンチを見つけたので私達はそこで一度休憩することにした。「何か飲みますか?」と私は自販機を指差してローさんに尋ねた。すると「座ってろ。お前は何飲むんだ?」と返ってきた。ついでに立ち上がったローさんにぐりぐりと頭を押さえつけられる。とにかく座っていろという圧だろう、これはいつものだ。通常運行。

「あ、はい……それなら紅茶がいいです、あれば無糖がいいです」
「ん」

 颯爽と自販機に向かうローさんを、気持ちのいい風を感じながら眺める。昼間の公園とローさん。ちょっと似合わない。ペンギンさんと買い物に行ったときも思ったけれど、昼がちょっぴり似合わない気がする。
 私と自動販売機の間を通り過ぎていく学生達が「今の人、カッコいいね!」とキャピキャピしながらローさんを見ていた。うーん、やっぱりモテモテなんだなぁ……ガタンと自販機から音がして、ローさんががペットボトルを取り出している。2本。1本は私の分だ。あー……これってデートに見えるのかな。いや、見えたとしてそれが何だって話だ。私はリュックの中の紙袋を取り出そうとチャックを開く。
 すると「ほれ」と聞こえたと同時に頬にヒンヤリとしたものが当たった。私は思わず「わぁ」と間抜けな声を出してしまう。そのヒンヤリの正体はローさんが持っているペットボトルだと気づくのに時間はかからなかった。

「もー、びっくりするじゃないですか」
「させたんだから当たり前だ」
「ひどいですローさん」

 ローさんも再びベンチに座るとペットボトルの蓋を開ける。心なしかパーソナルスペース的なものがずいぶんと狭いというか、近い気がしたけれど一度気にするときりがないので私は思考を放棄した。

「ところでローさん、小腹空いてませんか?」
「まァ、どちらかといえばな」
「そうだと思ったんです! じゃじゃーん!」

 私は満を持して紙袋の中から個包装にしたおやつを取り出す。何を隠そう出発前に作っていたのはこのスティック状のスイートポテトだ。料理が特別得意なわけではないけれど時々作っていたし、おつまみの大学いも用のさつまいもがたくさんあったりでそんなに手こずることもなく用意できた。

「ローさんって甘いの、大丈夫ですよね」
「あァ」

 見た目に反して、というのは失礼かもしれないけれど、たまに普通に甘い物を食べていた記憶があった。おいもの甘さがあるから砂糖はそんなに使っていないし、念のためかなり控えめにしておいた。

「スティック状にしたので食べやすいはず! です」
「……作ったのか?」
「はい!」

 私から一本受け取ると包みを開いたローさんが「へェ」と言いながら何やらニヤリと笑った。わざわざ作ったのかと言わんばかりのちょっと意地悪なほうの笑い。手作りのお菓子を渡すという行為が急に恥ずかしくなってきた。乙女ではないか。何してるんだ、私。

「あ〜〜〜、あのですね、今朝早く目が覚めちゃって、折角だからお礼にでもと。その……味は、大丈夫なはずで……って! いつまでコッチ見てるんですか!」
「そうか」

 ローさんがパクっとスイートポテトを口にした。感想待ちだ。これほど緊張する感想待ちが今まであっただろうか。まるでバレンタインチョコ渡してる女子みたいになってる。って、いやだから、これはお礼のお菓子でして、そういうのとは違うんですよユメさん。

「……」
「あ、なんか甘過ぎました? いやむしろ全然甘さ足らないとか……!?」
「……落ち着け、想像よりパサついてなくて美味くて驚いているところだ」
「ほ、本当ですか!?」

 油断してた。こんなに素直な感想が聞けるとは。私の顔は自然と綻んでいた。急いで紅茶のペットボトルを口元に運んでどうにか誤魔化した。ニヤニヤしてしまったのはバレてないはずだ。

「これならいくらでもイケるな」
「ま、まだありますよ! よかったら全部どうぞ!」

 がさっと紙袋ごとローさんに突き付ける。なんだそのべた褒め。私の申し訳程度の乙女要素部隊が見事に撃ち抜かれてバタバタと倒れていく。こういうことか、この男、そういうところか……くっ。

「ならありがたくいただくとするか」
「ローさんに食べてもらえて、いももさぞ幸せなことでしょう」
「何だそりゃ」

 フッと笑うローさん。ここ最近一番時間を共にしている人物。ここ最近一番私の近くにいる男性。色んな顔を見せてくれるのが嬉しいし、楽しいと感じている。私も、気づけば色んな顔をしている気がする。ローさんの隣にいるのは心地いい。
 美味しそうにスイートポテトを頬張るローさんを見ていると本当に作ってきてよかったと思う。朝の私グッジョブ。ベンチから伸びる二つの影を見ながら、私はそんなことを思った。



「シュロロロロ……よく来たな!」
「いらっしゃいませ……あら、珍しく今日は早いのね」

 公園での休憩もほどほどにマスターさんの経営するお店、Punk Hazardへと向かった私とローさん。モネさんが珍しく早いと言ったけど、確かにいつもは仕事後に来るので、この時間にローさんと来るのは初めてだ。

「こんばんはモネさん! 今日は仕事お休みなんです」
「そういうこった」
「うふふ、そうなのね」

 いつもより3割増しな笑顔に見えるモネさん、それはきっと私が背負っている相棒の存在感のせいだろう。早速私はマスターさんとモネさんに大発表することにした。

「見てください! 新しいギターです、買っちゃいました!」
「あら、素敵ね……今日はそれを買いに?」
「また粋なのを買ったもんだなァ」
「はい、ローさんにアドバイスを」
「アドバイスもクソもねェだろ、一目惚れして買ったくせに」
「それは、まぁそうなんですけどね……」

 そう、こいつと私は運命的な出会いを……ヘラヘラっと笑いながらいつものようにメニューを頼むと、モネさんはそんな私に女神のような微笑みで「少し待ってね」とキッチンへと歩いて行った。眩しい、美しい。ご飯食べに来てモネさんに会えるとか最高だ。

「はぁ……モネさんってやっぱり素敵、うっとりしちゃう」
「そういうもんか?」
「実は私……もう少し身長が欲しかったんですよ」

 そう。何を隠そう私は標準も標準。牛乳をたくさん飲んだりしたけれどこれ以上は伸びなかった。兄はめっちゃ高いのに。ずるい。すると目の前の人物から「お前はそれでいいだろう」と返ってきた。あのローさんがいいというのならば、いいのかもしれない。

「そういうもんですかね?」
「……叩きやすい」
「ちょ、どういうことですか!」
「そのまんまだ」
「……もう!」

 撤回だ、よくない。私はまだまだ伸びたい。ガツン、とテーブルの下の私の足にローさんの足が当たった。いや、蹴られたのだ、今日もまた私の平凡な足が無駄に長いローさんの足に蹴られたのだ。やられっぱなしも気に食わない……テーブル下の攻防が今幕を開ける。反撃開始だ。

「先輩を足蹴にするとかいい度胸じゃねェか」
「こんなときだけ先輩面ですか! それに先に仕掛けたのはそっちですよね」
「言うようになったな、手加減しねェぞ」
「ねぇ、そこの仲良しさん。先に飲み物よ」
「……!!」

 気配がなかった。モネさんがビールを2つを持って横に立っていたのだ。私はちょっとビックリして言葉を失った。それはたぶんローさんもだったようで、急にすました顔で「あァ」とジョッキを受け取った。

「ウフフ、ごゆっくり」

 本当に気配がしなかったというより、モネさんが消していたという表現のほうが近い気がする。入店時の笑顔が3割増しなら、今の笑みは6割増しといったところだろう。でもそっか、仲良しさん……私とローさんは仲良しさんかぁ。感覚が麻痺してきてる。本当に当たり前になってきているのだ、ローさんと一緒にいることが。
 とにかく、ビールが来たのなら一時休戦。今日一日お疲れ様の乾杯をして、マスターさんが流す音楽を楽しみながら、運ばれてくるモネさんの料理を美味しくいただくことにしよう。はぁ、愛しのモネさんの作るガーリック料理。考えただけでよだれが出る。

「まただらしねェ顔になってんぞ」
「これから来るのはモネさんの作る料理ですよ!? そりゃよだれも出ます!」
「本当にそういうところ潔いな」
「前にも言いましたが、私は私の好きなものに忠実に生きるんです。異論は認めません」
「ねェよ、異論なんて。おれだってそうだからな」
「ほう。ならもっとよだれ顔をしてもいいんですよ?」
「お前と違って一応人目は気にするからな」

 なるほど、確かに私はもう少し気にしたほうがいいかもしれない。そのせいでおっさんと言われることもあるのだ。
 でもよく考えると、どこでも誰とでもここまで駄々漏れにしてるつもりはない。50%程度に抑えているはずだ。ローさんといると、その制御ができていない気がする。あれ、なんだか顔が熱い。散歩したあとだからかな、ビール一杯でこんなになるなんて。そこでふと私の脳裏に、ローさんがスイートポテトを食べていたときの表情が浮かんだ。おや、あれってもしかしなくても……と思ったところで何やら視線を感じた。その正体は何やらニヤついているマスターさんとモネさんだった。私と目が合うと、二人は揃って数回うなずいてから力強いグッドサインをこちらに向けた。普段とはまるで正反対の弾けそうな笑顔が眩しい。
 教えてくれるかどうかはさておき、今度一人で来たときに一体何の話をしていたかと、サインの意味を聞いてみることにしよう。そんなことを考えながら、相棒を迎え入れた今日という日を締め括るに相応しい最高の料理とお酒を、見届け人であるローさんと共に存分に楽しんだ。

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