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 パタパタとリュックを背負って走っているのは、出勤時刻が迫っているから。うっかり寝過ごしてしまった私は街の小さな服屋さん、Baroque Worksで働くただの音楽好きの店員である。遅刻の理由は決して二日酔いなどではない。

「お、おはようございます!……はぁ、間に合った……」
「珍しいわね、ユメちゃん」
「すみません、ロビンさん」
「間に合ってるからいいけれど、そんなに焦って何かあったら大変よ」

 連絡さえしてくれれば大丈夫よ、と微笑むロビンさん……優しすぎる。優しすぎて涙が出そう。

「もー本当にロビンさんは素敵な人です、私もそんな大人になりたい!」
「まぁ、そんなにベタ褒めしても何も出ないわよ?」

 私も年齢で区分すると大人だが、精神は幼いままだ。ロビンさんはこんな私にもいつも優しい。一人暮らしの身には染みる、極寒の部屋で食べると心に染みるおでんの大根みたいな存在である。

「またずいぶんとギリギリだったな」
「あ、おはようございます、ローさん」
「あっちのマネキンやらをそろそろ変えとけって社長が言ってたぞ」
「はいー」

 タイムカードを打刻してやる気をみなぎらせていると、ウィンドウのディスプレイを指差して、数時間前から働いているローさんはバックヤードへと入って行く。
 あのライブの日を境に、私とローさんの距離感はぐっと縮まって、仕事のやりとりも以前より円滑になって……ライブ効果はこんなところにも表れてたりする。

「社長、来てたんですね。折角だから会いたかったです〜」
「ええ、すぐ出てっちゃったのよ」

 クロコダイル社長は、飲食店やここと同じような衣料品店や雑貨屋などを各地に展開している、渋くて素敵なワインやブランデーが似合いそうな人物だ。正直、私の語彙力では表現しきれない。忙しいはずなのに、よく店舗に顔を出してくれるので接しやすくてお堅い社長感は薄い。

「……もうすぐ夏真っ盛りだし、トロピカルな感じにしたいですね」
「いいんじゃないかしら、任せるわよ」
「はい! がんばります!」

 ロビンさんからも許可を得たので、浮かれた常夏感を出してやる、そう意気込みながら私はディスプレイ変更に情熱をかけたあと、品出し、掃除と仕事に精を出した。



「じゃ、先にあがらせてもらうわね、お疲れ様。あとはよろしくね」
「はい、お疲れ様です」

 ロビンさんは20時前後には帰るので、それ以降は2、3人のスタッフのみになる。土地柄なのか、この辺りは明け方近くまでそれなりに多くの飲食店が営業しているけれど、アパレル系は数少ない。飲んだ帰りの人や夜型の人達で賑わう日もある。防犯上、ほぼ同時期に入ったビビと遅い時間に2人きりになることはなく、若くしてバイトリーダーをしているサボさんやローさんとの勤務だ。
 それにしても今日は暇すぎる。それなりに整えられている商品を無駄にたたみ直しながら私が「時の流れが遅すぎます」とぼやくと、ローさんは「予算もいかなそうだな」となまった体をほぐすように肩をぐるぐると回しながら時計へ視線を向けた。

「さっさと閉店準備しちまうか」
「ですねー」

 ロビンさんから、予算未達、かつあまりにも客の入りが悪ければ15分前後なら早く閉めていいと言われている私達は早々に片けやレジの金銭チェックを始める。すると体は正直で、仕事終わるスイッチがONになった私のおなかはぎゅるるると音を立て、急に空腹をアピールし始めた。

「おなかも空きましたし……」
「確かに、腹へったな……いつも飯どうしてんだ?」
「自炊したり、食べに行ったり、買って帰ったり、つまりその日の気分ですね」
「へェ、今日は作るのか?」
「寝坊して家事を一切、何にもしてないので今日は出来合いのものを買って帰るつもりです」

 ライブ効果すごいよなぁ、こんなに普通に話せるようになるとは。ライブ効果というか音楽効果か……とにかく、ちょこちょことおすすめのバンドなんかを教えてもらったり、CDも貸し借りしちゃっている。何なら次のライブも行く予定で休みも申請済みだ。以前は世間話もあまり弾まず何とも微妙だった閉店前の空気は何だったのかと思うほど、今ではこの時間が楽しみだったりするのだ。

「じゃァ、何か食って帰るか」
「へ?」

 食って帰るっていうのは、どこかで食事をするということだと理解するのに少しだけ時間がかかった。ローさんと食事。ふたりで食事。ふむ、なんとも不思議なシチュエーション。

「……色気もクソもねェ声だな」
「あ、いや、急な出来事にびっくりしただけです」
「いい店があるんだ、気に入るだろうよ」
「ほ、ほう……ローさんがそう言うなら期待せざるを得ませんね」
「ああ、期待してろ」


 
 期待してろとハードルを上げても余裕の表情なローさん、大人である。特別トラブルもなく閉店作業を終えた私はいつもの帰り道ではなく、ローさんおすすめの店へとローさんと共に歩いている。やっぱりこれもなんだか不思議な気分である。次回のライブの話をしながらも、私はこの数日でふと浮かんでいた思いを口にしてみる。
 
「私もやっぱりバンドやってみたいな。というかまず楽器が弾けるようになりたいですね」
「ギターが部屋のオブジェになってるんだっけか?」
「そうなんです。あ、昔兄が使ってたベースもありますよ」
「へェ」
「安直なんですけど、弦も4本だしひとまずベースやってみようかなとか思ったり」
「どんな理由だろうと興味があるもんをやるほうが面白いに決まってんだろ」
「……そうですよね!」

 ローさんに言われるだけで早速帰ったら押し入れから引っ張り出してみよう! なんて気になる。私の思考回路は単純だ。それに答えるようにぐぅぅ、とおなかが鳴る。セーフ、ローさんには聞こえていないようだ。そうこうしているうちに、どうやら目的地に着いたようだ。
 ローさんが一軒のシンプルな外見の、パッと見はシンプルだけれどよく見ると凝った看板が立てかけてあるお店の前で足を止めた。少しだけ見える店内には、CDにしては大きい色とりどりの正方形が並んでいて、知ったバンドのポスターも飾られていた。お店の扉をローさんが開けると私達の訪問を知らせるようにからん、と音を立てた。

「うわぁ……! こんな所に、こんな素敵なお店が……!」
「あんまり目立たねェからな。よう、マスター」
「シュロロロロ! よく来たなロー!」
「いらっしゃい、あら……今日は彼女でも連れてきたの?」

 すでに常連なのであろうローさんと会話をする2人の店員。シュロロロという特徴的な笑いかたの、顔色が悪く少し不健康そうな……でもいかにも音楽が好きであろう佇まいのマスターと呼ばれた髪の長い男性。そして透き通るように白い肌、手入れが行き届いているつやつやロングヘアーの美しいお姉さまな女性が私のほうを見ながら営業スマイルを向けてきた。そういえば今、気のせいじゃなければ「彼女」と言われたような気がした。それはローさんにとっても不本意だろう。初対面の人に違うと否定するのはちょっと勇気がいるけれど、最初の印象って重要だと思うんですよ。

「や、偶然同じ職場の音楽の趣味が合うだけの女です。はじめまして」
「……自分で言っててむなしくならねェか?」
「いえ、まったく!」

 広くはない店内の2つだけあったテーブル席に案内されて、ミステリアスな雰囲気も併せ持ったような女性店員、モネさんが「ふふっ、面白い人ね」と笑みを浮かべた。そして「決まったら呼んでね」とメニューとお水を私とローさんの前に置いていった。
 面白い人というのはきっと私のことだろう。でも笑われたことに嫌な気はまったくしなくて、よくマンガで見かけるちょっと興味深いとか、気に入った的な意味だろうと都合よく解釈した。

「それにしてもローさん」
「あ?」
「なんすかこのお店〜! サイン入りのレコードもポスターもあるし、むしろあそこでまさに今! 流してるんです!?」

 外から並んで見えたのはレコードで、見たことがあるものも、ないものも、そのジャケット達はまるで芸術品のように、白を基調とした店内に彩りを添えている。そしてカウンターをよく見るとマスターさんが手元のターンテーブルを操作しているのが見えたのだ。何ですかこのこじゃれた空間は。座ったばかりの私が再度立ち上がり店内を見渡していると、マスターさんも「このおれがチョイスしたレコードや音源を流してるんだ、何かリクエストがあれば言ってくれ」と、少し得意げに口元を歪め、ふんぞり返りながら答えてくれた。

「ぬぬぬ、なんという素敵スペース、え? 現実世界ですかここ」
「当たり前だろ、あと飯もうまいんだ」

 落ち着きを取り戻そうと再び席につく。『飯がうまい』というこれ以上ない最強ワードに目の前のメニューに視線を落とすと、私の大好きな食材と視線が合った。これはもう運命と言わざるを得ない。

「はい! 私! ガリバタライスのサラダ付きセットウーロン茶で!」
「オムライスのコーヒー付きセットで」

 メニューを聞きに来たモネさんに迷わずにんにく料理を注文した私を、ローさんは少しだけぎょっとした目で見たような気がしたけれどきっと気のせいだ。私は食べたいものを食べる、ただそれだけなのだ。それよりも、ローさんはもっと……その、オムライスではなく違うものを注文するのではと思っていた私のほうが、まじまじとローさんの顔を見た。

「ローさん……オムライスとかを食べるんです?」
「てめェも思いっきりにんにくだな」
「いやいや、仕事後に食べるにんにくがもうたまらないんですよ……それにしてもなんか可愛いですね、オムライス」
「……むしろおれが何を食べると思ってたんだ」

 そう問われた私は、今まで得たのローさんの情報やイメージから「タバコ、お酒、コーヒー」と答えるも、すぐに食べ物ではないと突っ込まれたので「ラーメン、焼肉……ピザ、ハンバーガー?」と、これまた素直にイメージしたジャンクフードをあげる。すると何やらちょっとだけムッとしたような呆れた表情で水を飲んでからおしぼりで手をふき始めた。

「ずいぶんと不健康そうだな」
「いやぁ、バンドマンってそういうイメージです」
「あほか」

 その瞬間、ガンッ! という音と共にテーブルの下で私の足に衝撃が走った。テーブルの脚に当たったのではなくて、ローさんが私の足を蹴ったから、だった。ずるいぞ、私の足は特別長くもなければ丈夫でもない。そして先輩であるローさんの足を蹴り返すなんてこと、できるはずがない。

「何ですか! そんなに足が長いからってこれ見よがしに蹴らなくても!」
「お前は本当におめでたい頭してんな」

 おめでたい頭、というのはどういうことだろうかと私が悩んでると、目の前のローさんはお構いなしにポケットからソフトパックのタバコを取り出し、角をとんとんと叩く。ぴょこっと出てきた選ばれし一本を流れるようにくわえるとカチカチッとライターで火をつけた。私の思考はそこでピタッと停止して、数秒後すぐにフル回転を始めた。え、何ですか今の。ただタバコ吸っただけだよね? え? プロ? タバコに火つけるプロなの? と、思わず釘付けになってしまった。でも数秒前におめでたい頭と言われこと思い出した。ガン見していたことに気づかれないように自然に、ゆっくりと視線をローさんからそらした。

「おめでたいだなんて失礼しちゃいます。私だって色々考えて生きてるんですよー」
「ああ、悪ィ」

 そう言ってびっくりするほど素直に謝ったローさんだったけど、手でタバコの煙を払う仕草をしたので、私の頭をおめでたいと言ったことにではなく、タバコの煙についての謝罪なのだとすぐに把握した。なので「そこは問題ないですよ。周りが喫煙者だらけなんで慣れてます」と返しておいた。そう、私自身は吸わないものの、これまで私に関わる人達は大多数が喫煙者だったりもする。慣れっこなのだ。それでもこの、目の前で鼻先をかすめたよく知っている匂い。あらためて視線を向けると、タバコのパッケージが少し変わっただけで私の残念な記憶の中のものと同じ銘柄だったことに気づいた。そして同時に「けど、」と口にしていた。
「けど何だ?」と、ローさんが私の呟きを拾い上げていて言葉の続きを待っている。思わず出てしまっただけだったのでこれについて話すかは少し迷った。でもまぁ過ぎたことだし別にいいか、と私は「けど」についてをローさんに話すことにした。

「いやぁ、その。それ、元彼と同じなんです。そのローさんのタバコ」

 ちょっとだけ感情が「無」みたいになったローさんにフォローになるかはわからないけど「その匂い、好きなんです。あ、いや、好きだったんですよー」と補足する。仕事の休憩中にローさんがタバコ休憩をしていることは知っていたけれど、しっかり対策をしていたみたいでほとんど残り香はしなかったし、ライブの時は違うタバコを吸っていた気がした。「この前、確かデスライト吸ってましたよね?」と問いかけると「あれは忘れちまったからサンジのを吸ってたんだが」と、少しだけ何か考えたような顔をして、ローさんは困ったように笑いながら「あんまり聞かねェな、この匂いが好きな奴は」と答えた。

「あー、たぶん私、変な嗜好の持ち主なんで。そのへんは自覚済みです」

 音楽の趣味も合う人もあまりいないし、飲み会に行けば言動というかすでに存在がおっさんだと言われるし、ふとした瞬間のくしゃみとかも人間らしくないだとか、胸キュンポイントも意味不明、周囲からは変人という認識です――と、私は私の取扱説明書をすらすらと読み上げる。先に言っておいたほうがローさんも困ることがないだろう。言っててちょっと引かれてないかと心配になったけど、ローさんは「本当に変な女だな」と思いのほか笑っていたので少しだけホッとした。



 注文していたガリバタライスはローさんの言うとおり絶品だった。なんだこのお店は、絶対また来るぞ。そんなことを思いながら至福の晩ご飯を堪能した私だったが、なぜか今繰り広げられているローさんとの食後の会話は私の元彼の話になっていた。

「ということで、こっちに引っ越してきたのは、そのちょーっとしたトラブルがあったからでして……」
「同棲してたが、ある日帰ったらそこに裸の知らねェ女が居て修羅場になった、と」
「そうはっきり言わないでくださいよ……これでも結構へこんでるんですよ!」
「そうは見えないが」
「はいはい、バンドマンでモテモテのローさんにはわからないですよ」
「おれを何だと思ってんだ。別に大してモテねェよ」
「いや、そんなはずはないです。私のセンサーはそう反応しています」
「それならユメだってそれなりに……って、そのぶっ飛び具合じゃムリか」
「……まぁ、そうですね。浮気されたのも100%それが原因でしょうね、でも私はやめません。私は好きなように生きて、死ぬ時は潔く死ぬ! それでいいんです」

 起点はどうであれ、ぽこぽこと会話が弾む中で気づいたことがあった。職場ではもちろん「さん」付け、だったんだけれど、今さりげなくその「さん」がなかった。仕事以外は基本的に呼び捨てかあだ名で人を呼んでいるのはライブハウスやモネさんを見ていて把握してたけど……これは職場が同じで音楽の趣味が合うだけの他人、から音楽の趣味が合う知り合い、くらいに昇格したのだろうか。いや、他人だと称していたのは私なのでローさんがどう思ってるかは知らないんだけれど……とりあえず、今現在、ローさんの中の私はぶっ飛んでいるという認識なのだということはわかった。
 なんだかへこんでると言った元彼のことなんか、どうでもよくなってきた。なぜなら、最近、そして今も、毎日がめちゃくちゃ楽しいからだ。

「ずいぶんロックな生き方ね。はいユメさん、デザートよ」
「わ! びっくりした……私デザート頼んでませんよ?」

 背後で話を聞いていたのだろう。麗しのお姉さまに生き様がロックだと褒められた喜びを噛み締めようとするも、目の前に注文していない、見るからに美味しそうなチーズケーキが置かれた。えーっ、今すぐ食べたい。どうしてこんなに美味しそうなチーズケーキが頼んでもいないのに目の前に!? と混乱していると「つべこべ言わずに食え」とテーブルの向こう側から声がした。ローさんだった。

「え、ローさんが頼んだんです? 私のも? いつの間に」
「フフッ、あなたがお手洗いに席を外したときよ」
「おいモネ、余計なことを言うな」
「なるほど、こんな哀れな私に施しを……ありがたくいただきます!!」

 口に入れると広がる美味しさ、濃厚なチーズ、ボキャブラリーの少なさ。とにかく美味しいケーキに、私は絶対にこのお店の常連になるのだと固く誓うと共に、音楽以外にも私に新たな発見をくれた、同じようにチーズケーキを食すローさんをまじまじと見る。
 愛想悪いし口も悪いし、めちゃくちゃ取っつきにくい怖い人だと思っていたあのころを思うと、人生はほんの少しのきっかけで何が起こるかわからないもんだな、と実感する。

「ローさんって、何だか思ってたイメージと全然違いますね」
「その言葉、そのままそっくり返す」
「え、私はそのまんまだと思いますけど?」

 ただの服が好きで音楽好きな性別が女の、もはやおっさんなのです! と言い切った私に、ローさんは「おれはおっさんを誘って飯を食う趣味はねェ」と、ボソっと呟いた。ローさんからしたら私はおっさんじゃないらしい。ちょっとだけホッとした。

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