20
私達はそのまま公園を一周。話していたような船の遊具を見つけたり、売店でそれぞれ違う味のアイスを買って交換したり、そんな小さな出来事ひとつひとつを幸せに感じながら再び車へと戻り、公園を後にした。そしてまたあの港へ、公園へ行こうと話しながらいつもの街へと戻った私達はレンタカーを返却し、PHへと向けて歩き出した。
「運転、ありがとうございました」
「あァ」
「今度は私もしますからね!」
「そりゃァおっかねェな」
そんなことない、そう言おうとしてやめておいた。たぶん本当におっかなびっくりな運転になりそうだから。
それにしても、いつもの街、いつもの道、いつもの夕方の景色なのに一人で歩くのとはまるで別の世界にいるみたいだ。ローさんとほとんどの時間をすごすようになってからも、毎日が楽しくて、夢みたいな日々だった。でも今はそれ以上に、ひとつひとつの輪郭がくっきりと浮かび上がって見える。
そう思っていたところで隣を歩くローさんから「それにしても全然違うな」という言葉が聞こえてきた。「いつもの場所に帰ってきたのに、」と続けたところでかぶせ気味に「もしかして見える景色が、ですか!?」とローさんの顔をのぞき込んだ。音楽はまだまだとても追いつけない。けれど、日常は少しでも同じ景色を見ることができているのでは、そう思って。
「……ったく、お前には敵わねェな」
柔和な笑顔を浮かべたローさん。つまりは大正解だったらしい。頭をぽすぽすと叩かれて、私はだらしない顔にならないように必死に口元を引き締める。
「お互いに知らないこともまだたくさんあると思いますけど、こんな感じならきっと毎日楽しいですね!」
「そうだな。お前がそうやって笑ってりゃ、おれはそれでいい」
「え、わ、私だってローさんには笑ってて欲しいですよ?」
あのローさんから鼻血もののセリフをこんなに連発されて、まだちゃんとお付き合いをすることになってから数時間でこれでは私は一体どうなってしまうんだろうか。パンクしてしまいそうな思考をどうにか整えよう、そうすうっと大きく息を吸い込んでいると「あら、お二人さん。今日もデートかしら??」と知った声が耳に入ってきた。
「も、モネさん!!」
「こんばんは」
色々と考えている間にもうPHのすぐ近くまで来ていたみたいだ。にこやかにモネさんに
声をかけられた。外の掃除をしにお店から出てきていたようだ。あぁ、その微笑み。今日もなんて麗しいんだろうか。私はパッとローさんの手を離すと吸い込まれるように、それはもう自然とモネさんに駆け寄っていた。
「モネさん! 先日は本当にありがとうございました!」
勢いよくモネさんに抱きつくとモネさんは「あら」と呟いた後、ぎゅっと抱き返してくれた。今日もめっちゃいい匂いがするし、柔らかいし、なんて幸せな日なんだろうか。
「その様子じゃ……上手くいったみたいね」
「あ、えっと……はい!!」
「うふふ、それはよかったわ」
暖かく見守ってくれる場所、存在。バンドのメンバーとして共に成長していける仲間として私もこれから先、モネさんの役に立てるだろうか――そんな思考を中断させる衝撃。それはローさんのチョップが私の脳天に突き刺さったものだった。
「何やってんだお前ら」
「ローさん、これはですね……!」
「ロー、ユメさんを泣かせたらただじゃ済まないわよ」
「は? 何をいまさら……ユメ、さっさと入るぞ」
私はぺりっとモネさんから引きはがされた。そのままローさんに引っ張られお店の入口方面へ。「マスターに知らせなきゃ」と呟いたモネさんも、裏口の方から店内へと入って行った。
「よう、ロー、ユメ! 悪ィが今日はカウンター席を使ってくれ」
「あァ……そりゃ構わねェが」
店内に入るや否やカウンターに案内された私達。でもその理由はいつも使う席のテーブルの脚が折れているからだということはすぐにわかった。くたびれたテーブルが逆さまに床に置かれている。
「昨日ヴェルゴの奴が酔っ払ったあげくテーブルをぶっ壊して行きやがった」
「Oh、どのテーブルも見事にやられてますね……」
「弁償してもらうがな」
「どんな酔い方だよそりゃ……そういやマスター、今日は話があってだな」
「ん? 何だロー」
カウンター席に腰を下ろすとローさんはマスターさんに話があるとポケットから折りたたまれた紙を取り出した。私はその紙をちら見つつ、今日は最初からPHにも来るつもりだったんだなぁと分析し、にんまりしながらお手拭きで手を拭く。
「来月末、知り合いの企画でイベントをやるんだが、それにバンドで出ねェか?」
「ほう、企画か」
顎に手を当てたマスターさんがローさんから視線を外すと私の方を見た。続くようにローさんも。一瞬の間。マスターさん単体ではなくバンドで企画に誘われたということは……つまりそれは、そのイベントには自分も出るということだ。私は勢いのままに立ち上がりとんでもない声量で「なんてこと!」と叫んでしまった。
「ついに私達、ローさん達と一緒にライブに、企画に呼ばれ……あぁ、まさかこんなに早くこんな日が来るなんて、こんな、あっ、あ〜っ!! もしかしてユースタスさんですか!?」
「そうだ。だから落ち着け」
「シュロロロロ……面白そうじゃないか、なあモネ!」
パタパタと奥から出てきたモネさんは、忙しくしていたからか、この知らせを聞いたからか少し顔が赤い。私も今、人のことを言えたもんじゃないだろう。なんてったってユースタスさん達スパエクの企画にローさん達Heartと一緒に出るということなのだから。今日という日は一体、どうなっているんだ。
「モネさん、顔真っ赤ですよ!」
「ユメさんこそ! その企画に出るっていうのはつまりステージで歌うってことでしょう? すごく恥ずかしいわ!」
「いつもの感じで歌えば問題ないだろ」
「そうですよ! 何も問題ないですよモネさん!」
「あいつ、ユメんところのバンドを呼べとしつこくてな」
「そうだったんですね」
「で、マスター、どうする?」
私は名ばかりのリーダーである。ゆっくりと深呼吸しながらイスに座り直した。実際にバンドを取りまとめているのはマスターさんだ。それを知っているローさんはマスターさんに問い掛ける。
「いいんじゃないか? やってみたいとは思ってたしなァ、ユメ」
「そうですね! 私はもちろんやりたいです」
「じゃあ決まりだな。おれが連絡しとく……そいつに連絡先教えちまっても問題ないか?」
「問題ない、一度店にも連れてくるといい」
「あァ、そうするか」
うひゃぁ、目の前でスゴイことが決まっていくではないか。私、少しずつローさんの隣で胸を張れるような、そんな人間になれているんだろうか、なっていけるだろうか。
「こ、これは猛特訓をしなければですね!」
「だな。まァなんかありゃ教えてやるよ」
「ほ、本当ですか?」
ローさんが直々に指導してくれるなんて私やっぱり幸せすぎて死んじゃうかもしれない。パタパタと顔の熱を冷ますように手で風を送っているとカウンターの向こうでモネさんがマスターさんに耳打ちしたのが見えた。
「マスター……やっと……たわよ」
「……!? なんだと!? 早く言ってくれモネ、それならそれ相応の対応をしなきゃいけねェだろう!!」
急にどうしたんだろう。マスターさんがバタバタと店内を動き出した。私とローさんはそんなマスターさんを横目にメニューを手に取って何を頼むか会議を始めた。
「おいモネ! アレはあったか?」
「ええ、少し残ってるわよ」
「じゃあ後はアレだ!」
「急にどうしたんでしょうか……注文をする隙がありませんね」
「あァ……おいモネ、注文していいか?」
「今ちょっと待って」
まさかのモネさんの対応。ローさんと顔を見合わせて首をかしげた。客を放置して……まぁ、常連でバンド仲間でもあるのでもはや身内に近いような感じではあるものの、一体どうしてこのような状況になったのか私もローさんもわからないままそそくさと動き回る二人を見ていることしかできなかった。
するとカラン、とお店のドアが開いた音がした。ドアの方を見るとよく知っている人物、クザンさんの姿があった。
「おおシーザー、呼んだか」
「クザンさん! こんばんは」
「ちわッス」
クザンさんに頭を下げて挨拶をするとローさんの隣の席へと腰を下ろして「よう!」とローさんの背中をバシバシと叩く。呼ばれた、ということはこの騒ぎの最中、もしくはその前にどちらかが連絡でもしたのだろう。
「シュロロロ、さすがだ……早いな」
「丁度近くを走ってたんでね。ライブが1本決まったそうじゃないの」
なるほど、ライブが決まった瞬間に連絡していたのか。さすがマスターさん。クザンさんは一向に出されないおしぼりをカウンターの向こう側から自分で手に取り顔を拭き始めた。
「そうなんですよ! 私頑張りますね!」
「ユメちゃん伸び代あるからそんなに気張らなくて大丈夫でしょう」
「気張らずにはいられませんよ! ユースタスさんのバンドの企画だし、Heartと一緒に出られるなんて!」
「いちいち大げさだな。初めてのライブってわけでもねェんだ」
「だって、ローさんと一緒にライブをするということは私のひとつの目標でもあったんです! 興奮せずにはいられませんよ!」
「で、あの店員2人は客を無視して何してんの?」
「突然何か始まって、おれらの注文も無視だ」
「そういうことなんです。いい匂いはしてるんですけど……」
漂ってくる美味しそうな匂い。これはそう、にんにくを使っている。おなかがくぅ、と小さく音を鳴らした。慌ただしく何か調理をしていることはわかる。だけどお客さんの注文を無視している理由はまるでわからない。
「……悪ィな、待たせた」
ややあってマスターさんが手を洗いながら私達の方へと顔を向けた。今さら注文する気も起こらないと言いたげな声色で「やっと聞く気になったか?」とローさんがサイドメニューを手にすると、モネさんもマスターさんの横に並んでにっこりと笑みを浮かべた。
「いや、今日はうちではこれしか出さねェ!!」
衝撃の発言と共に次々とカウンターに並べられる料理とビール。いつも注文するガリバタライスやオムライス、モネさん特製の健康志向で評判な作り置きのお惣菜、ナゲットなどのスナック……食べ切れるかわからないほどの大量の料理が目の前にずらりと並べられた。
「え、これは一体……?」
同じく状況が把握できていないであろうローさん、そしてクザンさんと顔を見合わせて、もう一度マスターさん達へと視線を戻した。
「うふふ、おめでとう。ロー、ユメさん」
「そういうことだ! ロー、やっとお前にも彼女が……しかもそれがユメときたもんだ! 祝わねェわけにはいかねェ!」
「えええ!?」
「あらま、そりゃァおめでたいわな……ってこれ、おれも食っていいのか?」
私達もだけれど、その料理の量に圧倒されているであろうクザンさんも「じゃなきゃわざわざ呼ばないか」と納得したような様子でうなずいている。とにかく、このたくさんの料理は私達のために用意された、ということらしい。モネさんが「いいのよ、今日はお代は気にしないで」と微笑んでいる。ローさんはちょっとだけ照れくささがこもったようなため息をついて小さく「お前らアホか」と呟いた。
「アホとは何だ! ちゃんとした彼女ができねェもんだからこっちは心配してたんだぞ」
「“ちゃんとした”とか語弊がある言い方はやめろ。べつに必要なかったんだから何の問題もねェだろうが」
つまりローさんがここの常連になってからはちゃんとした彼女はいなかったということになる。ちゃんとしてない彼女はいたんだろうか……そもそもちゃんとしてない彼女ってなんだ。うん、きっとマスターさんが心配性なだけだろう。
「めちゃくちゃ嬉しいです! メニューに愛を感じます!!」
「だろう! クザンも食え! ウチのバンドの看板娘の祝賀会だからな!」
私とクザンさんは素直にモネさんからビールを受け取る。残るはローさんだ。私達の
早くビールを受け取れという鋭い、熱い視線。ローさんはしぶしぶといった様子でようやくビールを手に取った。マスターさんが乾杯の音頭を取り、ジョッキをぶつけた。
なんだってこんなにいい人達ばっかりなんだろう。もしかしたら音楽人引き寄せる期どころかめっちゃいい人達引き寄せる期なのかもしれない。この出会いに感謝しなきゃだし、さっきも思ったけれど少しでも何かを返していけるような人間になりたい。
ヴェルゴさんは都合が合わず不参加だったけれど、たまたま訪れた他のお客さんも混ざって、賑やかな宴は閉店時間まで繰り広げられた。
「ごちそうさまでした! 本当にドリンク代だけでよかったのでしょうか……」
「祝いたかったから祝ったまでだ、気にするな」
店のシャッターを閉めるマスターさんは「シュロロロ〜」と鼻歌交じりで機嫌よさそうに笑っている。モネさんもマスターさんの施錠行程を再度確認しながら「楽しかったから、こういう日もいいと思うの」と天使のような笑みを浮かべている。
「私も楽しかったです! 本当にありがとうございました! マスターさん、モネさん、クザンさん、また練習で!」
「おう、気ィつけて帰れよ!」
「ロー、ちゃんとユメさんを送りなさいよ!」
「言われなくてもな!」
ぺこりと頭を下げると3人はひらひらと手を振る。私も酔っ払いのテンションで手を振り返してもう一度お辞儀をして、先に歩き出していたローさんの横に並んだ。
今日は本当に幸せでいっぱいだ。でも浮かれすぎちゃいけない。公園へと向かう道を歩くのは酔い覚ましに丁度よさそうだ。
「夜風が気持ちいいですね〜」
「そうだな。お前、大丈夫か?」
「普通に歩けてますしヘーキです!」
酔っ払いには心地のよい風。そんな風を全身で受け止めるかのように両手を広げるとそのままその手をパッとローさんにキャッチされた。ローさんの顔色は少し血色がいいかも、程度で普段とあまり変わりがないように見える。
「ローさんこそ、けっこう飲んでましたよね?」
「それなりには。まァ特に問題はないが」
「本当に強いですね、お酒。うらやましい限りです」
「ユメも言うほど弱くねェだろ?」
「でも、やっぱりあれだけ飲んだらさすがにちょーっとは酔います……フワフワ、してます」
アルコールのせいもあって、全部が夢の中の出来事みたいに感じる。こんなに幸せなこと、起こるもんなんだなって。確かめるように握っている手に力を入れてみると、ぎゅっと握り返された。それだけなのに、本当に鼻血が出そうなほどに嬉しくてたまらなくなる。これは現実なんだ。
「私、今日という日を絶対に忘れないです……こんなに幸せなことはないです。皆さんにもお祝いもしてもらえて!」
「そうだな……だが、今日はまだ終わりじゃねェよ」
「星空、見るんですもんね」
どうしようもなくニヤけているであろう顔がバレないように、ギュッと口を結ぶ。ナミにも報告しなくちゃなとか、兄さんにも言うべきだろうか、なんて考えていると「眠くねェか?」と確認された。もしかしたら眠気をこらえている顔に見えてしまったのかもしれない。
「さっきまで少し眠かったですけど、外に出たら覚めちゃいました」
「そうか」
手の温もりを感じながら公園への道を歩く。空を見上げれば少しずつはっきりとしてくる星の瞬き。きっと、何かひとつでも違っていたらこの道をローさんと一緒に歩いて、空を見上げることなんてなかったんだろう。
眠気の確認から公園に着くまでの間、私達はほとんど会話をせずに歩いていた。きっとお互いに空を見ながら色々考えてたんだと思う。秘密の場所まであと少しというところで「なァ、ユメ」とローさんの声がした。
「……本当に、おれでいいのか?」
拾い上げなければそのまま消えてしまいそうな声だった。ローさんらしからぬ弱音のように聞こえたし、それが本音なのかもしれないとも思った。
「ローさんだから、です!」
今度はさっきまでとは変わって私がローさんの手を引いた。とはいっても目的地は目の前。とりあえずそこまで進んで歩みを止めて、私はローさんに向き合うようにして立った。
「ちょっと不器用で、俺様で天然で……でも優しくて、夢に真っ直ぐなローさんだから、です!」
「……おれ様で天然って何だよ」
「だって、そうなんですもん!」
表情はよく見えない。すると一度は離していた手を掴まれて引っ張られた。もちろん私はバランスを崩して自らしゃがみ込んだローさんにキャッチされるような形になり、ローさんと共に寝転ぶ格好になった。そうならそうと一言言ってくれれば心の準備もできるってもんですよ。星を見に来ているとはいえ、もしかしたらもしかするかもで心臓はバクバクと激しく音を鳴らし続けている。
「ほら! そういうところがです!」
「知らねェな」
「まぁ、いいんですけど……」
「……ここは、よくガキん時に来た場所なんだ」
「そうだったんですね」
「いっつも怒られててな、絶対に家になんか戻らねェって思った日があったんだ」
「それで、見つけたんですね」
ちらりとローさんを見ると真っ直ぐに空を見上げていて、私ももう一度視線を空へと戻した。
「それからはよくここに来るようになって、空を見てたら、怒ったり怒られたりしてんのがくだらねェっていうか……こんだけ広い世界で、おれはおれでいても、おれがどうあろうと世の中にはこれっぽっちも関係ないんだと思った」
「……」
「関係なくて、何の影響も与えてないことに救われたような反面、それはそれで悔しいって思って、音楽で行けるところまで行きてェって、そう思えたんだ」
いつの間にか握られていた手にギュッと力が入った。私はそんなローさんにずっとついて行く。あらためて決意みたいな思いが浮かんだけれど、今はまだ簡単に口にしちゃいけないような気がして、ただ手を握り返した。
「……そういえばちゃんと聞いたことなかった気がしたんですけど、ローさんは何がきっかけで音楽、といいますかバンドを始めたんですか?」
「アレだ。サンジとつるむようになってから、自然とな」
「バラティエが身近にあったからですか」
確かに身近にライブハウスが存在すれば、ライブを見る機会も増えて興味も出る。私も興味を持ったのは身近な人の影響だったな。あれは確か中学のころだったはずだ。
「私は兄が父の反対を無視してバンドをやっているのを見て、何がそんなに兄を駆り立てるのだろうかと部屋にあったCDを勝手に借りたんです」
「それがきっかけか」
「父にはこっぴどく怒られましたけど……」
「……そうか」
「好きになっちゃったものはどうしようもなくて、ライブとかも行くようになってから特にひどくなって……育ててもらった恩はもちろんあります。でもああしろ、こうしろって全部決められて、それってすごく苦しいなって思ったんです。私は私の思うように生きたいって、やりたいことはぼんやりとしたものでしたけど、それで家を出たんです」
「……だからか」
「?」
「ずいぶんお前のこと心配してたから」
「あ、兄ですか?」
確かにそうなのかもしれない。ぼんやりと今までの兄のおせっかいを思い起こす。色々あった。本当に余計なお世話だったことのほうが多い気がするけど、助けられたことだってある。
「兄は、父からの期待が全部私へと流れてしまったことをずっと気にしてるみたいなんです。初めての一人暮らしの時ももちろん、引っ越す時なんかは必ず来てくれて……私はまったく気にしていないのに」
「いい兄貴じゃねェか」
「そうですね、まぁちょっと変ですけど自慢の兄です……この前ローさんが兄と飲んでる時は本当に生きた心地がしませんでしたよ!」
そこで私は視線を感じた。もちろんここで感じる視線というのはローさんからのもので。どうやら少し前から空ではなく私の方を見ていたようだ。あまりの恥ずかしさに顔に熱が集まってきた。
「……! もう! 星を眺めてください!」
「おれにとっては一緒だ」
「ほら出た! 天然王子!」
「何だよそれ」
見たこともないほどの柔らかい視線。毎回私の『見たことがない』を更新していくつもりだろうか。そう思っているとフワリと髪がすくい上げられた。
「お前が笑ってんのを見ると、この星空を思い出すんだ」
「そっ、そんな大層なものでは……!」
「お前が笑うと、おれはおれでいていいんだって……思えるから」
急に距離が近づいたとわかったのは、吐息が近くで聞こえたから。思わず息をすることを忘れるほど、ローさんのその真っ直ぐな瞳から目をそらせなくなった。
「……ありがとう」
「!」
その言葉と同時に、私の唇にローさんの唇がそっと触れた。ローさんの言うありがとうの言葉の意味。それがわかったような気がして気がつけば涙がこぼれていた。
私もです、と言う前に再びローさんによって口はふさがれてしまった。でも、この思いは伝わってるんじゃないかと思った。伝わってるよ、とでも言うような優しいキスがいくつも降ってきたから。
存在を確かめるように少し離れたかと思えば、また降ってくる。そんな目の前の煌めきに私も答え続けた。こんな私を、こんなに広くて果てしない世界の中から見つけてくれて……本当にありがとう、と。
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