18
クローゼットを眺めて一枚のワンピースを手に取る。ほかの洋服は少し乱雑に、ぎゅうぎゅうに詰まってるけどこのワンピースだけは特別。扉を開けたらいつも一番に目に付くように正面に向けてかけておいた。あの日、古着屋さんでローさんが選んでくれたもの。
今日はこれを着て行こう。髪型は、どこに行くかはわからないけど邪魔にならないように後ろでまとめて、靴も歩きやすいスニーカーにしておこう。
ふと時計を見ると、もう13時を指していた。ついさっきまでまだお昼だったはずなのに――私は慌ててバッグに荷物を放り入れた。
すぐに来客を知らせる電子音がした。時間ぴったり。モニターで確認するとそこには待ち合わせ相手であるローさんが映っていて、私はにやけた顔を引き締めながらバタバタと走って玄関へと向かった。
「さすがローさんです! 時間ぴったりですね」
「……お前は珍しく慌ててんな」
「あっ、いやこれはその、ですね」
一度、整っていない足元をちらりと見てからローさんが顔を上げる。差し込む光とローさん。あまりの眩しさに直視できなくて、かかとを踏みつぶしたままのスニーカーを履き直す。ローさんのことを考えて手が止まっていて、いつの間にか時間になってたみたいです、なんて言えるはずがない。しっかりと靴ひもを結んでドアを閉めて「とにかく行きましょう!」とローさんの背中を押して歩き出そうした。けれどびくともしない。何が起きているんだ。
「鍵、閉めてねェぞ」
「えっ! あ、あれ、閉めたと思ったんです……けど……」
ローさんに指摘されてすぐにドアノブを回す。がちゃんと音を立ててドアが開いた。浮かれすぎているのかもしれない。私は「あはは」と笑ってごまかしながら鍵を閉めてもう一度ドアノブを回した。今度はしっかり施錠されている。
私が手を離した後のドアノブをローさんも同じように回して確認しながら「今日はどうした……って、まァ、おれも落ち着いちゃいねェが」と小さな声で話しながらフイッとそっぽを向いた。
「えーと……落ち着いてないとかですか?」
「なんでもねェ! ほら、行くぞ」
右手でちょっぴり照れ臭そうな顔を隠しながら、左手を伸ばしてきたローさん。もしかしなくても、ローさんも私と同じように嬉しいようなソワソワしたような……そんな気持ちでいるのかもしれない。「今日もよろしくお願いします」と、私はその手をしっかりと握り返した。
「つーか、やっぱり似合ってるな」
アパートの敷地から出たところでローさんが前を向いたままそう呟いた。似合ってるというのはきっと、このワンピースのことだろう。ストレートに褒められるとどうしたらいいかわからない。この照れを隠せるかはわからないけれど、とっさに「ローさんが選んでくれた服ですからね。さすがショップ店員です」と、とりあえずローさんを褒める方向に持っていく。
「いやまァ、そうなんだが……全体的な話だ」
「ほ、ほう」
全体的……髪型、小物なんかを含めた話だろうか。とはいえやはり今日のメインはワンピース。ワンピースがあってこそのコーディネートだと思うので、やはりすごいのはこの服を発掘した、そして私に似合うと見抜いたローさんである。
ところで、だ。この真っ昼間の路地に似合わぬ隣のローさんのシャツ。以前の柄Tといい今日の柄シャツといい、柄物似合いすぎじゃないですかね。
「ローさんこそ、そのシャツめっちゃイケてますね」
「ペンギンの旅行の土産だ」
「ヒィ、さすがのペンギンさんのセンスのよさと、それを着こなすローさんの」
「わかったよ、それより」
普段のようにエンジンがかかってきたぞ、と思ったところでローさんから軽くチョップをくらってしまった。塩梅が難しい。ちょっと調子に乗るとペラペラと喋ってしまう。かといっておしとやかにしようとするのも何か違う気がする。いつも通る道のりも、なんだか知らない町を歩いているみたいだ。今までデートってどうしていたっけ。忘れてしまう程に緊張しているらしい。
「どこ行くか決めたか?」
「いえ……それが、まったく。ローさんはどこか行きたい場所は」
「決めてねェ」
「おう、ノープランとはこれいかに」
「お前と一緒に……いられりゃ、その、だな」
途中から決まりが悪そうにだんだんとローさんの声が小さくなった。これは……言われている私もめちゃくちゃ恥ずかしいやつだ。なぜなら、私だってローさんと一緒ならどこだって、なんだっていいと思っていて……ローさんの言ってる意味がまるっとわかってしまうからだ。あ〜〜〜〜〜、今日一日、私の心臓はもつんでしょうか。
きゅう、と思わず手に力が入ってしまって、それに気づいたのかローさんが立ち止まる。振り向いたその顔が、照れくさそうにはにかむ表情が、今の自分をそのまま映しているようだと思った。
「……じゃ、じゃあ! 前からちょっと行ってみたいなって思ってた所! あるんですけど!」
「ん、どこだ?」
「港、漁港ですっ!!」
「なるほど。魚か」
「市場も見てみたいし、美味しいご飯も食べたいし……」
「よし、行こう」
私の提案に特に考える素振りもなく行こうと即答したローさん。デートに漁港。この案がすんなりと受け入れられるとは思っていなかったので私は「うぇ、いいんですか」とあまりにも間抜けな返事をしてしまった。
「おれは魚が好きだ」
「おっさんみたいなチョイスって言われるかと。せっかくなのでおしゃれな場所のほうがいいのではとか、その、ほかにも色々と」
デートっぽい場所なんていくらでもある。それこそまた古着屋さんを巡ったり人気のカフェへ行ってみたり、デートっぽく映画を見たり……漁港以外の候補を思い浮かべていると「誰がそんなこと言うんだよ」と再び脳天にチョップが決まった。
「あたっ、容赦なしですね」
「ついでに海も見れるんじゃねェか」
「確かに」
「だが、一番近そうな漁港でも……電車とバスを乗り継ぐしかねェか」
「少し遠いですかね」
チョップしたことはローさんの中ではすでになかったことになっている。いつものことだ。
すぐにスマホをポケットから取り出し、近くの漁港を調べてくれている。私は遠くても問題ないけれど、ローさんが疲れてしまっては楽しめない。やはり別の案を――私もスマホを取り出そうとしたところで「なら……車を借りるか」と聞こえてきたので反射的に「うおぅ、私はペーパードライバーです!」と首と手を大きく横に振った。何度か兄に同乗してもらって兄の車を運転したことはある。でも試行回数が足らないせいか、苦手意識が克服できずに今にいたる。
「おれが運転すんに決まってんだろ」
「なんと、ローさんの運転!」
「問題あるか?」
「いえ! よろしくお願いします!」
ローさんが運転すると言っているのだ。ありがたく乗せてもらうのが一番いい。私がぺこりと頭を下げると「そうと決まればさっさと借りに行くぞ」と、すぐに近くのレンタカーショップへと向かうことにした。
店に着くと手早く手続きを済ませるローさん。私だったら急に決まったこのレンタカーを借りるというイベントにあたふたしてしまいそう。行動力を見せつけられてしまっては年上の大人なんだと実感せざるを得ない。
「ですよね、大人ですよねー」
「は? お前も大人だろ」
「いえいえ、私は子供のままおっさんになった大人で」
「わけわかんねェぞ、ソレ」
そんなしょうもない話をしつつ、車両の傷などの確認も終えていざ出発。「じゃあ行くか」とローさんは助手席のドアを開いた。これは……もしかしなくてもエスコートってものでは、と数秒時が止まった。映画やドラマで見たことのあるコレを実際に体験することになるなんて。感動、感激で胸がいっぱいだ。
「……! 大人!! 紳士!!」
「あのな、おれだってガキのままデカくなっただけの非現実的な人間だ。いいからさっさと乗るんだな」
「はい!!」
あぁ、はしゃぎすぎたかもしれない。反省。ローさんの言った非現実的が何を指すのかはよくわからなかったけど、迷惑をかけてはいけない、少し落ち着こうと呼吸を整えながら車へと乗り込んだ。
嗅ぎ慣れていない独特の匂いが充満する車内に、微かにローさんのタバコの香りが混ざっている。それだけで非日常が強すぎて目眩を起こしそうだ。
しかし、運転しない以上は最低限の仕事をしなければならない。使命。エンジンがかかったところで素早くナビを操作し、漁港の住所をセットした。ローさんもその間に車内の確認を済ませたみたいだ。
「あらためまして、よろしくお願いします」
「ん。だがここで一つ問題があるな……」
「えっ、何ですか?」
ローさんが運転席に座っている姿を、運転する姿を真横から眺められるなんてなんて贅沢なんだろうか。そう思っていたところで何やら神妙な面持ちでローさんが呟いた。問題、とは何だろうか。ナビもちゃんと音声案内をスタートするとアナウンスがあったし、シートベルトも締めた。
「BGM問題だ」
「そっ!! それは大問題ですっ!!」
私は素早くカーナビ周りを確認する。ケーブルを挿すような端子はなさそうで、本体を操作する。よかった、Bluetoothで接続できそうだ。
「ローさん、スマホに音楽入ってます?」
「それが容量を整理したばっかりでほとんど入ってねェんだ」
「ならば私の出番!! 私のスマホは音楽特化! 容量のほとんどを音楽が占めてますから!」
「知ってる」
「充電も、大した連絡こないのでご心配なく!!」
大好きな音楽を聴きながら大好きな人とドライブするなんて鼻血ものだ。以前ペンギンさんと3人で出掛けた時だって楽しかったのに、今日はローさんとふたりだ。私のテンション、どうなってしまうんだろう。
「これは、何というか……本当に鼻血が出るかもしれません!」
「……フッ、ティッシュの用意でもしとけよ」
「ちょっと、何笑ってるんですか!」
ほら。もうこんなに幸せだ。ローさんが私の言動で笑っている。嬉しいし、今日まで色んなことにめげずに頑張ってきてよかった。大袈裟かもしれないけど、ローさんにもそう思ってもらえるような1日になるといい。そう思いながら音楽アプリを起動させて再生ボタンを押した。
片道1時間ちょっとの道のりはあっという間だった。気づけば緊張も解けていてバンドの話、職場の話、食べたいものの話でずっとしゃべりっぱなしだったかもしれない。
「近くは埋まってるな」
「お昼は過ぎてますけど思ってたより混んでますね」
市場に一番近い場所は満車だったので第二駐車場に駐めて車から降りた。船がずらりと並んでいる港と、巨大と言ってもいい面積の市場。ずらっと並んだ色とりどりののぼりが風ではためいている。お昼時を過ぎているにもかかわらずまだまだ賑わっているようだ。
とにかくお腹を空かせていた私達はすぐに、私が道中に調べた美味しいと評判の海鮮丼屋さんに直行。ピークを過ぎていたこともあってスムーズに入店できた。
「運転お疲れ様でした」
「そう疲れてねェよ」
「ならいいんですけど」
疲れていないのだというローさんの表情は、何ともないふうを装っているけれど、新鮮な魚介を前にきらきらと目を輝かせていて、プレゼントをもらった子供のようにも見えた。運転したのはローさんだけれど、こんなリアクションを見ることができるなんて、これだけでも少し遠出したかいがあったと言えるだろう。
数あるメニューの中から迷いに迷って私はマグロづくし、ローさんはサーモンまみれを注文。どちらもこぼれ落ちるほどの大量の具が乗っていた。ある意味写真詐欺である。ぷりぷりで旨味のたっぷり詰まったお刺身。これは港の海鮮丼屋さんならではだろう。
「そのお皿に落ちているサーモン、ついでに貴重ないくらもいただけますか」
「好きに持ってけ」
そう言うと同時に、同じく私のお皿に落ちているまぐろ達を回収するローさん。好きに持っていくのは構わないが、こちらも好きにさせてもらう、という意味だったらしい。そういえばこの前もこんなことしたよなぁ、なんて思い出しニヤニヤをキメそうになったけれどどうにか落ち着かせて目の前の丼に集中した。そしてその丼を食べ終えた頃、私もローさんも再びメニューを眺めていた。バンドマンの胃袋はそれなりに大きいという統計がある。私調べだけど。もう一杯、いや半分ずつでもいいから食べたい――でも、まだまだたくさんの美味しいグルメが、私達を待っている。
「……ごちそうさまでした」
そんなこんなで私達はおそらく腹七分目、いや六分目で店を出た。そのまま市場をふらふらと歩きながら生牡蠣をその場でいただいたり、屋台の串焼きを何本かつまんだり、常温で持ち帰れそうな干物やおつまみを購入。午後なのでもう閉まっているお店もいくつかあったけれど、お腹も心も満腹になった。
「いやぁ! 本当に丼が美味しすぎて……お腹を空かせてもう1回食べたいです!」
「そうだな……あと屋台のイカ焼きも美味かった」
「あんな大きな鮭とか鮪もスーパーじゃお目にかかれませんもんね」
「これだけ鮮度がよかったら焼き魚にすんのももったいねェな」
飲み物を買い、あえて大回りをして近くを散歩しつつ駐車場へと向かう。大通りの向こう側、木々の間からは海も見える。全く知らない土地をローさんと歩くなんて……本当に贅沢な時間だ。
「あのイカを干す機械……」
「あ、アレなんかシュールでしたよね。干すにしたって回転させてるなんて知りませんでしたし、けっこうな速度でしたもんね。ブンブンブンブンッ!!! って」
「……フ」
「もしかして思い出し笑いしました?」
「してねェ」
「じゃあ今の何ですか」
「お前の擬音にツボったんだよ」
市場を探索している道中で見かけたイカを干す装置の話でこんなに盛り上がることができる人が、世界で何人いるかな。モネさんが言っていた『世の中には数え切れない、星の数ほどの人がいて、知り合いになるだけでもすごい縁だと思わない?』という言葉を思い出す。私のブンブンブンブンッという擬音で笑ってくれる人なんかきっとそう多くない。ローさんだけかもしれない。
それなりにのんびりと歩いていたはずなのに。私達はあっという間に駐車場についてしまった。ひとまず休憩も兼ねて車に乗り込んだ。
「……この後どうすっか」
「そういえば考えてませんでしたね」
「時間あるならどっか適当にドライブでもするか」
「はい! でも運転、平気ですか? 代わりますか?」
「なんつーか、今日は運転したい気分だからな。問題ない」
私の希望に付き合ってくれたように、ローさんがドライブしたいのならそのほうがいい。と言うよりも、私もローさんの隣にいるのは心地がいい。今見えている景色が見慣れない港だったりするせいかもしれないけれど、特別な感じがするドライブってなんかいいな。そんなことを考えていたところで私はハッとした。日常的に見てきたローさんのあの仕草を一度も見ていないのだ。
そう、今日のローさんはたぶん一度もタバコを吸っていない。吸っている姿を見ていない。どうして気づかなかったんだろう。車は動き出してしまったけれど、私は慌てて「ローさん、全然タバコ吸ってないじゃないですか! 止まって一服しましょう」と提案した。けれどローさんは「……いいんだよ、今日は」と、なんだか穏やかな口調でその提案を断った。
「えーと、今日は?」
「おれがそう決めたんだ、ほっとけ」
「ローさんがそう言うなら……禁煙ですか?」
「まァ、似たようなもんだ」
「ほ、ほう……」
やっぱり吸っていなかった。けれどそれはタイミングのせいではなく、ローさんが自主的にそうしていたらしい。理由も特に話す気配はなさそうなので、そのまま前を向き直して流れる景色に視線を向けたところで、少し低いトーンで「ユメ」と私の名前を呼ぶ声がした。
「は、はい!」
「おれは……お前の兄貴とは違って、仕事に就く気もさらさらねェ。行けるところまで行きたいと思ってる。それで年だけ取って……結果、何も残らなかったとしても、だ」
運転をしているからもちろん前を見ているローさん。始めこそ震えているように思えたけれど、力強い語気だ。このローさんの言葉の意味するものは、音楽でやっていきたいという揺るがない固い決意なんだと思った。私は静かに「はい」と返した。
「おれにとってのバンドは、音楽ってのは、すべてなんだ」
「……はい、知ってます」
「そうか」
「たぶん、ローさんが思ってるより、ローさんがどれだけ音楽が好きなのか知ってます」
「……そうか」
知ってる。そんなローさんだからもっと好きになった。応援したいし、追いつきたいって、同じ景色を見たいんだって思ったんだ。
「だから、こうして今一緒にドライブしてるの、楽しいですけどやっぱり不思議です」
「そう、だな……おれもだ」
「ふふっ」
「だから、少しだけ迷ったんだ。そんなおれが、こんなに誰かを必要としたことに」
「ローさん……」
「……って、走り出したところでなんだが、どっか止まるか。運転しながらってのもアレだしな」
「そ、そうですね……」
少しだけ照れくさそうにくしゃっと笑ったローさんの横顔。自分のことが、音楽が一番だって言いながらも私に優しさを分けてくれるローさん。感極まって、胸がギュッと締め付けられるようで、顔も火照った感覚でもう爆発寸前の私の視界に、2キロ先の公園の標識が飛び込んできた。
「あっ、あの看板の公園に行ってみません?」
「そうだな」
「ちょっと調べてみますね……えーっと、案外規模が大きそうです。売店なんかもあるみたいですね」
「そうか」
見通しの良い海沿いの大通りだったことも手伝って、私が売店の軽食やデザートメニューを読み上げている間に目的の公園に着いた。
車から降りると運転席から降りてきたローさんと視線が合って、さっきの会話の流れを思い出すと妙に恥ずかしくなってしまった。あからさまに「売店、大きいですねぇ!」なんて辺りをキョロキョロと見回していると私の手をスッとローさんが握った。
「とりあえず一周してみるか。アイス、美味そうだな」
「は、はい。歩いた後に食べますか」
「だな」
そっと握られた手と隣を歩くローさんの姿。まだ沈む気配のない太陽の光が木々の間から差し込む。まるでキラキラと輝く未来を見たような、そんな希望が胸一杯に広がっていった。
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