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 目の前のテーブルには蒸し鶏のサラダが入っていたボウル、バーニャカウダの少し濃い目のソースだけが残った皿。そして冷めつつあるポテトフライが残り数本と、飲みかけのビール。胃は満たされつつあった。それでもまだ、私の脳は落ち着かないままだった。

「ふぅん、なるほどね。それで、どうしたらいいかわかんないと」
「ナミ先生……明日どんな感じでローさんと仕事したらいいですかね」

 ライブの翌日、朝早くから仕事だったお疲れナミを無理矢理拉致してファミレスに連行した私はビールをご馳走していた。その理由はたった一つ。昨晩のローさんとの電話の内容についてだ。

「とりあえず話聞いて思うのはね、お互い酔ってたんならそれが本音じゃないの? ってこと!」
「え、本音……?」

 まさかローさんから電話してくれるなんて思ってもいなかったからそれはもう素直に嬉しかった。何よりローさんの言う『私のいない違和感』というものが、私があの時感じた寂しさ、物足りなさと同じなのだとしたら……でも、あのローさんがそんなこと考えるなんてあり得るのだろうか。ローさんガチ勢の方々から「ただの勘違いでしょ。自惚れてんじゃないわよ」と怒られてしまうだろう。
 そんなこんなで帰宅してからも、そして酔いと睡眠から覚めてからも電話での会話の意味について考え続けてしまった結果、見事に無限ループにハマりナミに助けを求めた次第だ。
 こんなに胸がぎゅっと鷲掴みにされたような、マンガやドラマみたいなときめきを感じるのはいつ以来だろう。本当に久しぶりの感覚でまだ信じられないでいる。
 よく考えてみて。そのときめきの相手はローさんだ。出会った時にはプライベートでも会うような仲になるなんて思ってもみなかった。あらためて考えて、可能性ってものは本当にささいな、小さなことから広がるものなんだなと驚いている。
 しなびたぽそっとしたポテトを口に入れる。昨日の打ち上げでも食べた味だ。電話のあとの出来事が鮮明に蘇る。

 電話を終え外から戻った私に詰め寄ってきたユースタスさん。そして「今トラファルガーと電話してたのか?……あいつがわざわざ用事もなく女に電話するところなんて見たことねェな」と酔っ払いを突き抜けたようなペッカペカの、それはもう腹が立つような笑顔で私のことをおちょくってきた。しかも「やっぱ、ローさんってのはユメちゃんの彼氏かー」だとか、「バンドマンなんだろ!? 連れてくるよい!!」と、あれよあれよという間に話が盛り上がってしまったのだ。
 酔っ払いの思考は単純すぎるから……まぁ酔っ払っていなくたって私は単純なんだけど。だけどそんなこと言われたら『もしかしたら、ローさんって私のことを……?』なんて思ってしまった。たった数分の電話で、染まりつつあった私の世界はあっという間にローさん一色になってしまったのだ。

「……あんた、それであの男が何とも思ってなかったら私がぶっ飛ばすわよ」

 ナミの少し低い声で現実に戻ってきた。それにしても目の前の親友は今ずいぶん物騒なことを言ったな? まるでもうローさんの気持ちは決定事項かのように話を進めている。そういえば、ローさんってちょっと天然で素でぶっこんでくるふしがあることを思い出した。私は知っている。私と周りだけが勝手に盛り上がっているだけの可能性もあるな。少し冷静になってきたぞ。

「ナミ、落ち着いて? ほら……作詞するような人ってさら〜っとそういうこと言っちゃうのかもしれないし?」
「あぁ……あぁね。その可能性も十分ありそう。余計腹が立つわね」
「お、落ち着いてってば! とりあえず、おかわりしよ?」
「私はいいけどユメ、飲みすぎじゃない?」
「ナミだって顔赤いよ! 私はまだ平気、ダイジョーブ!」

 呼び出しボタンを押して何度目かのビールを頼むと、それはすぐにテーブルに運ばれてきた。ナミは私のことを呆れたような顔で見ているけれども、その顔は普段よりも血色がよくて、ちょっとぽやっとしている。そしてなみなみとビールが注がれているジョッキを手にするとごくり、と2、3口。
 うーん、そのなんてことない仕草一つ一つが色っぽい。これでナミに惚れないほうがおかしな話だよなぁと思いながら私もグビっと一口。私にはナミのような色気とか、そういうものはない。備えられていない。知ってる。果たしてそんな私はローさんにはどう映っているのだろう。
 ローさんとは、最初はどうやって話したら、接したらいいのかわからなかった。整った顔立ちなんだけど少し近寄りがたくて、笑うところも見たことなくて、何か聞いても、「あァ」とか「まァ」としか返ってこなかった。私も基本的には人見知りだし、仕事の付き合いだから無理に縮めるわけにもいかなかったし、ローさんもそうしてくる気配はなかった。素っ気ない、寡黙な人なんだと思ってた。
 でも知れば知るほどローさんという人間は、私の心にみるみるうちに浸透していった。気づかれないような小さな優しさ、意地悪に笑ったような笑顔……時々垣間見える子供みたいな無邪気さ、ギターをかき鳴らしている時の真剣な、真っ直ぐな眼差し――

「……あっ」
「ん?」

 部屋の片隅で置物になっていたギターをまた弾きたいって思ったのは、ローさんと出会って、Heartというバンド、存在を知ったから。そして実際にライブを経験してみて、ステージで感じたあの熱い感覚。もし、自分の音楽で人を熱狂させることができたなら――私はローさんに追いついて同じ目線で、同じ温度感でローさんと同じ世界を見たいんだ。感じたいんだ。

「ナミ……」
「何〜? もうおかわりはやめなさいよ」
「うん。私、バンドする!」
「は? もうしてるじゃない」
「ホワイトマスタッシュは一旦活動休止なの、だからもっと方向性が合うような人達探す!」
「もう……急にどうしたのよ」
「私、ローさんに追いつきたい! 同じ世界が見たいんだと思う!!」

 そう、私の胸のときめきは、高鳴りが激しい理由はこれだ。せっかくライブも経験できて、ここで満足して歩みを止めてしまうなんて考えられない。私はまだバンドを続けたい。そう確信した瞬間、雷のように私の脳内に鳴り響いたのは『おれもバンドをやってみてェもんだ』という、PHのマスターさんの言葉だった。少し前、練習帰りにフラッとお店へと足を運んだ時にぽろっと話していたはず。それだ――

「そうだ!……それ!!」
「さっきから一人でブツブツと……なんかもう大丈夫そうね?」
「えっ、何が?……あっ」

 ローさんとどんな感じで仕事をしたらいいものかと悩んでナミを呼んだのに、いつの間にか私の思考は新しくバンドを組むことに移行していた。自分でも笑ってしまう。こうとなったら、決めたら突っ走るところがあるのは自分でもわかってはいる。けれどジェットコースターのような展開で自己解決してしまったことについては本当に申し訳なく思います。ごめんねナミ。
 ちらりと時計を確認する。まだお店の閉店時間には間に合いそうだ。そう思っているとナミは何か察知してくれたのか、「じゃ、今日はこのあたりで解散しましょっか」と残りのビールを一気に飲み干した。

「うん。ごめん、ありがと! なんかやる気しか出てこないや」
「いいことじゃない、お互い頑張りましょ」
「また電話する! 仕事後にわざわざありがとう!」
「んー、いいってことよ! またたぁくさん奢ってもらうからね!」

 二人分の会計を済ませようとしていると耳に飛び込んできた恐ろしい言葉。ナミの言う「たくさん」は、本当にたくさんである。でもナミには本当に感謝しなければいけないと思いながら了承の意を込めて手を振り、タクシーに乗る頼もしくセクシーなその背中を見送った。やはり自分の中だけではなく言葉にして気持ちを整理するのは大切だ。
 さて、酔っ払い具合は……たぶん大丈夫。私はすぐにPHへと向けて猛ダッシュすることに決めた。



 昨日の打ち上げ後、サッチさんの仕事が忙しくなるのでこのままバンドを続けるのは難しいという話を聞かされた。今回のライブも実は少しだけ無理にスケジュールを調整していたそうだ。そしてマルコさんも知り合いの別のバンドに誘われていて、それならばホワイトマスタッシュは当分は休止だという結論にいたった。
 しばらくみんなでワイワイとスタジオで音を鳴らせないんだと思うと、ライブも楽しかっただけに少し物悲しい気持ちになった。でもエースくんも、折角入ってくれたのに悪いけどもっと私に合うバンドがあるはずだ、と言ってくれた。
 なんてことはなかったのだ。自分でメンバーを募りバンドを組めばいいだけの話だった。PHの前に着いた私は勢いよくドアを開けて店内に突入した。

「こっ! こんばんは!!……ハァ」
「シュロロロ……ユメじゃねェか! そんなに急いでどうした?」
「ちょっと大丈夫? はい、お水飲んで落ち着いて?」

 ゼェゼェと息を切らせてドアを開いた私に驚いた表情をしたマスターさんと、ビックリしながらもすぐに笑顔でお水をくれたモネさん。そりゃそうだ。私もこの沸き上がる闘志のようなものに、この行動力にちょっとだけ引いている。
 そこで奥のカウンター席に一人だけお客さんがいることに気づいて、お騒がせして申し訳ありませんという気持ちも込めて慌てて軽く会釈をした。何度か見たことのある渋めの、パーマがかったロン毛のおじさま……確か名前はクザンさん。ちょっと取り乱しすぎていて恥ずかしいかもしれない。でもすぐに手をさっと上げて挨拶を返してくれたのでホッと胸をなで下ろしつつ、近くのカウンター席のイスの背にもたれかかりながらマスターさんに視線を戻して早々に本題をぶちまけた。

「ゼェゼェ……あ、あの! この前マスターさんバンドしたいなって言ってたじゃないですか」
「ん? 確かにそんな話をしていたな、モネ」
「ええ、ここに集まるお客さんなら趣味も合うだろうしって」
「……私! やりたいんです!!」

 マスターさんとモネさんがパチリと瞬きをして顔を見合わせた。そしてすぐにマスターさんが顎に手をあてながらニヤリと笑みを浮かべた。

「シュロロロロ……そうだな、何事にも勢いっていうのは重要だ。そういう初期衝動で案外いいモノができたりする」

 マスターさんは隣にいるモネさんに「そうだろう?」と視線を送る。そしてモネさんも「そうね」と穏やかな笑みを浮かべながら今度は私へ視線を戻した。つまり、そのやり取りが意味するのは――

「そうと決まれば他のメンバーを集めないとな」
「!! ほ、本当ですかぁ!?」

 あっさりとバンドを組む流れになったことに、私は思わずガッツポーズを取ったのだけれど、その拍子に手をテーブルにぶつけてしまった。でも嬉しさの方が勝っている。ジリジリとした手の痛みすら、今のこの喜びに現実味を持たせるスパイスのようだ。

「いったぁ、やったぁ! 私、頑張ります! まだまだへたくそですけど!!」
「うふふ、楽しみだわ」
「ユメがギターだとして、最低限ドラムとベースあたりが必要だな?」
「ベースなら……ヴェルゴがいいんじゃないかしら?」
「そうだな、早速ヴェルゴに連絡してみよう。ドラムにも心当たりがある」

 荒ぶる呼吸を整えようとイスに座り、大きく深呼吸を繰り返す。目の前であれよあれよと話が進んでいく。こんなに簡単にバンドって組めるものなの? 最近、色々と流れが良すぎでは? 怖っ。でも、類は友を呼ぶ、ということなのだろうか。それともこの自分でも時々ドン引きするほどのやる気が、引き寄せてくれているのだろうか。

「なんだか信じられないかも……」
「マスターは意外と行動力があるのよ。それに……そんなマスターを動かしたのはユメさんよ」
「さっきまで友達と飲んでたんですけど、思い立ったらじっとしていられなくてお店が営業している間にって思って……学生時代以来の全力疾走で来ちゃいました」
「じゃあメンバーが揃ったら結成祝いでもしましょうか」
「そうですね! でも肝心なボーカルは……誰かいますか?」
「そうね、それならユメさんが弾きながら歌えばいいんじゃない?」

 モネさんの提案、弾きながら歌うということ。これは実際に家での練習時に挑戦済みである。鼻歌なんかを歌いながら気分よく弾き語り〜なんて思っていたのに、私にはうまくできない。できる気もしない。歌に気を取られると指の動きがおろそかになり、演奏に気合いを入れると音程が迷子になる。まだまだ鍛錬が足りないようである。

「同時に何かするのって練習不足もあってか難しくてですね……モネさんこそカラオケよく行くんですよね? 歌、どうですか?」
「……そうね、ユメさんが言うならやってみようかしらね、マスター」
「いいんじゃないか? でもってそこのクザン、そういうことだからちょーっとドラムやらねェか?」

 マスターさんの言葉にハッとして私は先客の、何席か離れて座っているクザンさんへと視線を向けた。すごく勢いよく。「え、ドラム……?」とほぼ無意識に口にしていた。クザンさんは少しだけ考えるような素振りをしてから私の方を見て、うんうん、と何度か頷く。まさか心当たりがあると言っていたドラマー様がここの常連客ですぐそこにいらっしゃったとは思ってなくて、私は口を開けたままのアホ面を数秒だったけれど人様に晒してしまった。

「いいよォ、ここの客同士じゃなきゃ生まれねェ音楽ってもんもあるだろうからな」

「わ……あの! ありがとうございます!!」と私が勢いよく深々と頭をさげると「まァ、仲良くやろうじゃないの」と再度大きく頷いた。

「クザンは昔の話とはいえバンド経験者だからな、頼もしいだろう? おっ、朗報だぞユメ、ヴェルゴも快諾だ。今からここに来る」

 マスターさんがスマホ画面から顔を上げてその画面を私に見せてきた。『店の客達とバンドやらねェか? もちろんベースだ』『いいぞ』『今他の奴らは店に揃ってる』『なら行こう』という信じられないほど簡素なやり取りである。なら行こう、のあとにはダッシュしてるキャラクターのスタンプが。もうここへ向かっているって!? 感激だ。感無量。言ってみるものだ。自分でもグッジョブだと思うし、何よりマスターさんの人柄、人脈あってこそだろう。
 
「おおおおお?? これは夢とかではなく現実です? むしろ私がギター担当で大丈夫ですか!? こんなぽんこつな若造で!」
「その情熱さえありゃ年なんて関係ねェって」
「シュロロロロロ……そういうことだ!」

 こうして私が思い立ったその日の夜。奇跡的とも言える速度で、PHに集まった5人でバンド『COUNTER HAZARD』が結成されたのだった。



 翌日、興奮で早く目が覚めてしまい事務所にも早くついていた私はただただ結成されたバンドのことを考えていた。ヴェルゴさんも合流した後、早速スタジオに入る日程を話し合った。PHの営業時間外なので候補は深夜か午前中。最初は皆が比較的活動している深夜にしようと予約を取った。まずは何曲かカバーしてみようということで話はまとまり、やりたい楽曲を各自1曲挙げる流れになった。
 私はどの曲がいいかを店に着くまでも、こうして着いてからもずっと考えている。やりたい曲が多すぎて決められないのだ。こうなったら雰囲気の違う曲で3曲くらいまで絞って、ほかの皆様のチョイスによって変える作戦にしようか。でも……3曲でもまったく絞れる気がしない。

「……」
「ユメ」
「……!! あっ、おはようございます! ローさん」
「何ボケっとしてんだ」

 バンドのことで頭がいっぱいで、人が、ローさんが事務所に入ってきたことに気づくのが遅れてしまった。けれどそんなことはもうどうでもいい。ローさんにはバンドを結成した報告をしなければならない。私はイスから勢いよく立ち上がりローさんの方へと向いた。

「あのですね! 聞いてください〜!!」
「ん? 今日は何だ」

 すると想定外の、過去に職場では見たことのないほどの柔らかい表情で顔を覗き込まれた。それは反則ですローさん。そして私はここで大事な、重要なことを思い出した。すっかり忘れていた。私はローさんに色々とときめいているのだということを。でもそのときめきはローさんと同じ世界が見たいからで……とにかくローさんが目標で憧れだということに変わりはなくて……考えが脳内で右往左往している。頭がグラグラと沸騰しそうだ。まとまらない。

「どうした、顔真っ赤だぞ。熱でもあんのか?」
「や、いやっ、その! 熱はないです! そうじゃなくて!」
「何だ、いくらでも聞いてやるから落ち着け」
「は、はい〜……」

 ロッカーに荷物をしまいながら、ローさんはこちらを見ている。バクバクと高鳴る鼓動をどうにか落ち着けるために、ゆっくりとお茶を体に流し込んでから大きく、ゆっくりと深呼吸をした。よし、少し落ち着いたぞ、では満を持しての大発表の時間だ。

「……なんとですね、PHのマスターさん達とバンドを結成しちゃいました! 今年のシャボンディロックフェスのルーキー枠に応募してみたいなって!」
「へェ……だが、いつの間にそんな話に」
「昨日です!」
「昨日……そうか。そんなにライブが楽しかったのか?」

 まるで「よかったな」とでも言ってくれているような、普段と変わらないように見えるけど優しさを感じる眼差しのローさん。あらためて意識して接するとなると私の心臓は持たないかもしれない。ローさんと同じ目線で同じ世界を見たいんだ、なんて言ったら笑われてしまうだろうか。

「はい! すごく! だから私、やってみたくなったんです」
「そうか。そりゃァ楽しみだな……」
「あの、ローさん」
「ん?」
「今日仕事終わったらご飯行きませんか? ライブの話、聞きたいし、したいです!」

 あっ。勢いで思っていたことがポロっと口から出てしまっていた。考え出すと止まらないこの性格は良いのか悪いのか……すでに新しいギターを買う時だって私から同行をお願いしてる。でも夕飯はいつもローさんからだったはずで、なんだか変な感じだ。
 私の思考達が脳内でローさんという台風に巻き込まれ翻弄されている。そんなことになっているなんて知らないローさんは、私に向かって今度はちょ〜っと意地悪そうな顔で「ユメからなんて珍しいな」と詰め寄ってきた。
 やっぱそうですよね、気づいてないわけないですよね……もっとローさんのことを知りたい、ローさんと話がしたい、なんてとてもじゃないけど言えない。「あはは、そうですかね?」なんてごまかしてみる。だけど胸がバクバクとしていて、本当に自分の体が自分じゃないみたいだ。それによく考えたら断られる可能性だってあるだろう。すぐに「あっ、その、全然! 無理にってわけじゃないので」とローさんに向けて手をパタパタと横に振ると、フッと小さく笑ったような声がしてすぐに頭頂部をポスンと叩かれた。

「困らせたくて言ったわけじゃねェ……何食いたいか考えとけよ」
「は、はい!」

 やっぱり私の思考は単純である。もし断られてしまったら、こんなにテンションの高い自分のことが恥ずかしすぎて絶対に死にそうになる。そう思ってたのに、オーケーが出た途端にその思考は遥か彼方へと吹っ飛んで消えた。晴れやかな気持ち。台風一過である。

「それとだな……」
「……それと?」
「よう! 二人ともお疲れ〜!」

 すでに出勤しているサボさんが事務所に入ってきた声がして、私は瞬時に後退りをしてローさんと距離を取ってしまった。どうしてかと言われたらたぶん、最近のローさんとの距離感は、一般的なパーソナルスペースに比べるとすごく近い気がするからである。

 サボさんによってさえぎられてしまったローさんの言葉の続き。一体何だったのだろう。大したことじゃないかもしれない。でもそれがとんでもなく気になる。気になりすぎて仕事にならない予感……なんて言っている場合ではない。「仕事にならない予感」なんてものは働く大人として、自身でしっかりとコントロールすべきだ。
 出勤しようと身支度を整えたところで、いつにも増してにこやかな視線を送ってくるロビンさんと目が合った。レジ内にいると思っていたからちょっとビックリした。いつから事務所にいたんだろう。そうだ、今日は考える暇もないほど指示を出してもらおう。それがいい。今日の私はバリバリ働きたい。労働する喜びを感じたい。ロビンさんからモリモリと指示が飛んでくるかは正直怪しいけど……普段やらないところの掃除なんかもしちゃおう。うん、そうしよう。

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