藍色の瞳が、海に溺れてしまわないように
あれからわたしたちは、雑貨屋を覗いたりスイーツを食べたり…愛音が落としたデート、と言われる枠組みのような過ごし方をした。面白い友人、芸能界の裏話、愛音の引き出しは尽きる事なくわたしたちは笑いあって自然と楽しんでいた。帰りは空が色づく中行きつけのスーパーで食材を一緒に選び、袋を一つずつ持って帰った。
わたしは愛音に連れ出されただけで、何もしてはいない筈だ。それなのに、藍ちゃんが居るだろう部屋が近づく事を認識してくると何故かとても後ろめたい気持ちになった。
「ただいま」
「…た、ただいま」
無慈悲にも扉は開かれる。中は電気も着いていて藍ちゃんが居るはずなのに、生活感を感じなかった。まるでだれも居ないような空間に、浮かぶように藍ちゃんがいた。わたしたちが家から出た時と同じように、PCの前に座っている。
リビングを避けるようにキッチンに向かう。わたしにあてがわれた買い物袋は、当然のように軽いものしか入っていない。それに極端に中身が少なかった。少し、胸が温かくなる気がした。もう一つの買い物袋の中身を整理しようと、リビングに向かう。
「あっ…」
そこで喉が詰まるように苦しくなる。
どうしても藍ちゃんの前で、愛音を呼び捨てにできない。とてつもない罪悪感が湧いて出てとまらないのだ。わたしは何か、何か悪い事をしようとしている?そんなこと、無いはずだ、でもどうしても、出来ない
「愛音、さん…買い物袋、どこに」
「どうしたの?名前、さっきまで元気に愛音って呼んでくれてたじゃない。なに、お仕置きされたい?」
「ご、ごめん、愛音っ…」
「うーんどうしようかな、お仕置きしないといつまでも直らなそうだね?」
「っ…」
近づいてくる愛音。
藍ちゃんから見たら随分と親密になったように見えるだろう。わたしは愛音の肩越しに垣間見得る藍ちゃんの無表情が、何故かとても居心地が悪かった。何ひとつ、いつもの無表情と変わらない筈なのに。
「わ、わたし夕飯作るんで…!」
「ふふ、まだ何もしてないのに」
テーブルの足元にあった袋を掴んでまた逃げるようにキッチンへ駆け込む。袋はとても重かった。
それからふたり分の夕飯を作って食べると、いつもはぎりぎりまで居るのにわたしは初めて8時前に青い宝石箱を後にした。
その間藍ちゃんは一度も口を開かず、わたしを視界にすら入れなかった。
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まだ8時を回っていない。
僕たちと居れる時間がまだあるのに、名前が帰ってしまう事は初めてだった。おおよそ、使命感が自覚のない罪悪感に苛まれているのだろう。自分だけは藍の為に動いているんだという使命感が、僕に心を割いている罪悪感に。おまけに、自分と違う僕の極論を聞かされて衝撃を受けたのだろう。
「……どう?」
「なにが」
「苦しいでしょ」
「さあ…苦しいっていうのが、分からないし」
「それはどうかな。ねえ、重いんじゃないの?」
「重い……」
これは思い当たる節があるな。
藍がなにもない所を見ている事が証拠だ。処理に時間がかかって、重いのだろう。
「…感情の処理の結果で、どうしても開けたくないファイルがあるんだ。開けたくないファイルなんて今まで一つも無かった、初めての事だよ」
「そのファイルの中身、僕は知ってるよ」
「…ボクにはわからない。でもこのファイル、尋常じゃない速さで容量が増えてる。これのせいでCPUが影響を受けてるんだ」
「そう、きっと人間もそんな風に気持ちが膨らんでいつか胸も詰まる気持ちになって、感情なんて消したくなる」
「……」
「それが負の感情。名前が君に教えたい正の感情に付きまとう、いらないものだ」
「…苦しい」
「…そうだね、」
藍は影を落とす。
僕に良く似た白磁の頬に、薄い睫毛の影を。
「中身は、なんなの」
「…知りたい?それは、」
身構えなどしていない、藍はファイルの中身ならとうに知っている筈なのだ。それを認知する事を承諾できていないだけ。
僕は容赦なく、YESへ誘導する。してあげるんだ。藍にできない事は僕がしてあげる。お前の躊躇も苦しみも僕が取り去ってあげる、いらないものをいらないと認識させてから。藍にだけできる事だし、僕にだけわかるから。
「……」
「嫉妬だよ」
藍の表情はなにひとつ変わらない。それでも僕にはわかる。嫉妬は、愛が無ければ湧かない感情だ。藍は否が応でも、自分が人間を好きになったという事を認めなければならないのだ。
「……じゃあ、ボクは」
「…ほらね。僕は正しかったでしょ?」
窓を開けると、高いところで月が輝いていた。能面な闇に境界もはっきりと浮いている。
その月を、煙に巻く。僕の肺も制裁を願っているのか。