優しい風にだけ包まれてほしい
「あの…愛音さん、」
「着た?うん、似合うね。コレ、お願いします」
「畏まりました」
「え?ええ?あ、あの、愛音さ…」
「このままでお願いできる?」
「はい、其れではお客様が着ていらしたお洋服は宜しければ此方をお使い下さい」
慌てふためくわたしを置いて、お姉さんはわたしが着ているお洋服のタグを切ってくれた。レジに消えてしまった愛音さんに、わたしは仕方なく渡してくれたショップバックに着てきた服を畳んで入れる。
あの後、何処に行きたいのか訪ねてくる愛音さんに言葉を濁していたら、この辺でスタンダードな大型ショッピングセンターへ連れられた。その中で愛音さんは女性用のショップが並ぶフロアを流し見るようにすたすたと歩いてると思ったら、一つの店舗へ入った。そこはわたしのお気に入りの一つで、彼は服を物色し始めたかと思えば幾つか手に取り、それを渡されて試着室に押し込まれたのだ。
「ありがとうございましたー!」
店員さんの笑顔に見送られ、わたしと愛音さんはショップを後にした。
「あの、愛音さん、すみませんなんか…」
「なんで謝るの?僕がしたいようにする、なにか悪いこと?」
「、いいえ…あの、ありがとうございました」
「どういたしまして。…ねえ、知ってる?」
「なんですか?」
「藍のセンスが壊滅的なこと」
「え…そ、そうなんですか?」
「そうそう!藍の着てる服、今じゃ全部僕のセレクトだからね。前はなんか事務所が勝手に選んでるの着てただけらしいけど」
「あ、なるほど…最近の藍ちゃん前とは少し雰囲気変わったのはそれですね」
「前藍にオンラインショップのラインナップとかでセンスチェックした時は笑ったね!あのコーデは誰も真似できないよ!」
そのあり得ないコーデを思い出したのか、愛音さんは堪えきれずに吹き出していた。そんなに面白いのか。いつまでも笑い続ける愛音さんに、わたしもついつられて笑ってしまう。
「はー笑った…名前の雰囲気好きだから、僕がコーデしたくなったんだ。前もこういうの良くしてたんだよね、友達とかに」
「えーっと、嶺二さんと…圭さんと響さん、でしたっけ?」
「そうそう、よく覚えてたね」
お話をしながら自然な流れでコーヒーを買い、フードコートの窓際端に座る。硝子に薄く映されるわたしの服は飾られ過ぎず地味過ぎず、わたしを彩っている。お洒落に全く関心が無いわけでもないが誇れる程でもない、そんなわたしなのに少し輝いて見えるなんて。きっと愛音さんの輝きを分けて貰ったんだと思う。
「ところでね」
「はい」
季節のフレーバーが香り立つ、オレンジキャンディが踊る。春に、誰もが浮き足立つ。窓の景色、中庭の噴水が騒ぐように。この穏やかに巻き上がる気持ちを0と1で表したら、どうなるんだろう。どんな拡張子をあてがえば適切に伝わるだろう。今藍ちゃんはまだPCで何かを分析しているのだろうか…
目の前で微笑む人が確かに息づいて居るのに、わたしの意識はここには無いようだった。
「敬語、そろそろやめようか」
「あ、えっ…と」
「ダメだよ、今度は逃がさない」
わたしがコーヒーに添える手に、そっと触れる熱。熱を持つ、ひと。生きている事が示す淡い瞳の光をサングラスを隔てても感じられる。自然な息遣い。視覚的に認識して一番に浮かぶものがあってもそれとはひとつひとつ全て違うもので、わたしは足場が崩れるような不安定感を感じる。
近い、近づいている。愛音さんの瞳も、窓の外の光を受けている。周りの誰もが自らの放つ春の香りに酔い、わたしたちなど気にも止めない。
「呼んで?」
「…っ」
「愛音、ほら」
「…ぁ…っ」
「…くっついちゃうよ、いいの?」
「あ…いね、愛音っ!」
「なに?」
半ば窘めるように放った名前は震えていた。満足そうにゆっくり距離を取り、離れていく愛音。息を付くわたし。
完璧な笑顔が憎らしい。
「強引…」
「人生は一度きりだから、もっと我儘言おうと思って」
「あ、悪用されてる…」
「悪用だなんて酷いなあ」
二人の間に発生していた春にあてられた空気が霧散した事で、息の詰まる思いも消えた。ふたりとも手元のコーヒーを啜り、一息つく。
「……ところで…あの、」
「なに?」
「わたしたちは…どうして今ここにいるんでしょうか」
「敬語」
「あっ…えと、どうして急にお買い物なんか…してるの?」
「僕が名前とデートしたかっただけ」
「デっ…?!」
聞き慣れない単語は飲み込まれないで口の中に残っているように、わたしにじわじわ味覚を与えるようだ。甘い。アイドルの性なのだろうか。
逃げるように思考回路を変え、今日を振り返る。どうしてこうなったんだっけ?一日藍ちゃんの観察ができると楽しみに朝ごはんを食べる、藍ちゃんがわたしの存在で安心を感じていると知る、会話の雲行きが怪しくなり…愛音は、
「……愛、音は」
「うん」
「藍ちゃんに感情が必要ないと、思うの?」
「思うよ。藍は生まれる必要が無いのに僕のせいで生きるという辛い道を歩ませてしまった」
生きる事を、辛い道だとはっきり発音する唇。
「だから、幸せになってほしい。そのために感情は必要ないと、本気で思ってるよ」
笑顔は有無を言わせない。わたしの意見など、はなから必要ない。それはわたしなどが口を挟むことのできる領域ではないし、愛音の歩んだ道を思うと何も言えなかった。
わたしは無力だ。
藍ちゃんに人間と同じように笑い合える事を望む、浅はかな自分を突きつけられた。同じ愛を抱いても、抱く者によって形は違うのだ。
愛音は笑い合う先に待ち受ける苦しみから藍ちゃんを守ろうと、しているのだ。